五、策士、始動

文字数 2,576文字

 馬に乗って颯爽と駆けていく巴慧と一新の後ろ姿を遠くから眺めていたカイリは、我に返るとわなわなと震えだした。
「・・・あいつ、ついていきやがった!」
顔を赤くして喚くと、同じように唖然としていたミトが顔を顰めた。
「大きな声を出すんじゃないよ。こっちは心臓が悪いんだからさ」
まったく、発作でも起きたらどうしてくれるんだい?咎める目でカイリを見ると、見たことのない仏頂面をしている。
「なに考えてんだ?あいつ!信じらんねぇ!」
「仕方ないだろ?行っちまったもんは。巴慧ちゃんも相棒がいた方が心強いだろうさ」
それにしても、あの脚力はいったいなんだ?勢いよく走っている馬に追いついたぞ。しかも、あれは普通の馬ではない。巳玄一の馬だってのに・・・。ミトは今しがた目撃したことを信じられずにいた。
「ほら、帰るよ」
そう声をかけるが、カイリは石像のように突っ立っている。
「私は帰るからね。ここにいたければ、勝手にしな」
そう言い残して歩き出すと、少ししてからカイリも歩き出した。だが、その顔はかつてないほど不貞腐れている。
 老街の裏路地には、住人よりも先に活動を開始した烏と猫が残飯目当てに集まってきている。固く口を閉ざしたまま足を動かしていたカイリであったが、何を思ったか道端にあった木箱をぼこっと蹴った。
「なにしてんの!壊れたらどうすんだい?いいかげんにしな!」
驚いたミトが声を張り上げた。二人とも、まだ眠っているであろう人々を気遣う気はさらさらないらしい。カイリはふんっと鼻を鳴らし、そっぽを向いた。それからは大人しく歩いていたが、家に着くと、荒々しい手つきで憤怒をぶつけるように戸を開けた。
「ちょっと!外れたらどうすんだい?いいかげんにしないと追い出すよ!」
このままでは家を壊しかねない。ミトは戸を閉めてからバシッとカイリの尻を叩いた。
「いってねぇな!この妖怪おばば!」
堪忍袋の緒が切れた。もう許さん。ミトの顔が真っ赤になったとき、こんこんと遠慮がちに戸を叩く音がした。キッとカイリを睨み付けると、ミトは戸の引手を掴んだ。こんな朝早くに、いったい誰だ?噛みつきそうな顔で戸を開けると、目の前に立っていたのはよく知る顔だった。
「八朔先生!こんな時間に、どうなさったんです?」
「しっ、とにかく入れてください」
辺りを警戒し、八朔は室内へ体を滑り込ませた。
「巴慧ちゃんはどこにいます?」
すんなりと閉まらない戸をがたがた言わせながら閉めるミトの代わりに、カイリが答えた。
「巴慧ちゃんなら、もういないぜ。さっき出て行った」
「出て行った?どこへ?」
「なんか、南の方へ行くって言ってたよ。新原まで行くんだと」
八朔は途方に暮れたように頭を手で覆った。
「どうしたの?先生。巴慧ちゃんに用があったのか?」
大きく息を吐くと、八朔はふたりに真剣な眼差しを向けた。まずは、来訪の理由を話さなくてはならない。八朔は昨夜遅くに診療所へやってきた二人の男について、手短に話して聞かせた。
「軍が、巴慧ちゃんを追ってるって言うのか?」
真剣に耳を傾けていたカイリだったが、軍という言葉を聞くと血相を変えた。
「どこまで本当かは分からないが、確かにそう言っていた。今朝、この街へやってくると」
ミトの視線が彷徨い、奥にある棚のところで止まった。あそこには、巴慧からもらった物を保管してある。視線を戻すと、何か言いたげな八朔の視線とぶつかった。
―まさか、軍を動かすほどの身分だったのか?
共通の思いが脳裏を駆け巡った。
(巴慧ちゃん、いったいなにがあったんだい?軍が動いてるなんて・・・。もし、それが本当なら、とてもじゃないけど逃げ切れないよ。たったひとりで、どうするつもりだい?)
ミトは固く目を瞑った。そして、カイリも忙しなく思考を巡らせていた。
(軍が巴慧ちゃんを追ってるだって?そんな馬鹿な話があるかよ。どうせハッタリだろ)
そう思おうとしたが、巴慧の人となりを思い出した途端に動悸が激しくなった。巴慧が貴族の娘であろうことは分かっていた。ただの貴族じゃないかもしれないことも・・・。だが、今ならはっきり分かる。老湾で売った高級品の数々は、あまりにも現実離れしていた。
(まさか、本当なのか?本当に軍に追われてるのか?だとしたら、あっという間に見つかっちまうよ。いくらすごい馬でも、逃げられっこない)
ふつふつと腹の底から真っ黒な感情が湧き上がってきた。
(だから、ここにいろって言ったんだ!みんなで隠して、守ってやれたのに!)
カイリは下唇を噛み、キッと天井を睨んだ。
 八朔も表情を歪め、その脳裏には悪い想像ばかりが浮かんでいた。
(あの二人は普通ではない。どの質屋へ行ったかも、すでに突き止めている可能性が高い。何があったかは分からないが、敵に回しては危険な者たちだ)
三人とも口を固く閉じていたが、その静寂を打ち破ったのは突然に動き出したカイリの足音だった。
「待ちな!どこへ行くんだい?」
素早く先回りすると、ミトは短い腕を目いっぱいに広げて戸口を塞いだ。
「決まってんだろ。巴慧ちゃんを追うんだ。知らせてやんなきゃ危ないだろ」
「まったく、この単細胞の大バカ!おまえが考えなしに動いて、どうなるってんだい?もっとややこしくなるよ!今は下手に動いちゃだめだ!」
「じゃあ、どうすんだよ!」
カイリは地団駄を踏んだ。
「ミトさんの言う通りだ。軽卒な行動は慎んだ方が良い。私も、ここへ来るのに細心の注意を払ったんだ。つけられていないか、何度も確認した」
自分はすでに目をつけられている。助手をしているカイリや、ともに生活しているミトの存在もすぐに突き止められるだろう。
「すぐにでも憲兵がやって来るかもしれない。疑いをかけられたら、やっかいだ」
八朔は二人に、くれぐれも目立つ行動は控えるよう忠告した。
「巴慧ちゃんがなぜ家出したのかは分からないが、よほどの理由があったんだろう。巴慧ちゃんのことを思うなら、下手なことはしない方がいい」
カイリはキッと師匠の顔を睨んだ。
「先生まで巴慧ちゃんを見捨てんのかよ!」
「この分からず屋!いいかげんにしな!」
目立つ行動は控えるようにと忠告したばかりなのに、この家の住人は怒声を浴びせ合っている。
 八朔が頭を抱えていると、新たな来訪者がやってきた。こつこつ、と再び戸を叩く音がしたとき、三人は飛び上がるほど驚いた。

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