五、策士、始動(2)

文字数 2,689文字

ーこつこつ。

応答のない室内に来訪者は再度、呼び掛けた。まさか、憲兵か?それとも、軍がもうやって来たのか?三人は恐る恐る顔を見合わせた。そろりそろりと戸に近づき隙間から窺うと、目の前に髭面の男が不機嫌そうな顔で立っている。
「なんだ、ゴキじゃねぇか。驚かせやがって」
大げさにため息をつきながらカイリが戸を開けると、「ったく、さっさと開けろってんだ。人に見られたらまずいんだよ」と、顔を顰めながら男は急ぎ足で入って来た。
「おやおや、珍しい客だね。老湾のお頭が、いったい何の用だい?」
予期せぬ来客の正体に、ミトは驚きの表情を浮かべた。
「長居はできねぇ。要件だけ言うぞ。昨夜遅くに男が二人、店にやって来た」
八朔の顔色が変わった。まさか、同じ男たちか?店とは何の店だ?質問を投げかけようとしたが、男が先に口を開いた。
「カイリ、おめえが昨日連れて来た娘、なにもんだ」
蛇に睨まれた蛙のようにカイリは縮こまった。
「なにもんって、友達だよ。ずっと前から知ってる、俺たちの友達だ」
「今、どこにいる」
「さっき比永を発ったよ」
「いいか、昨日の奴らだけどな、あれは間違いなく相当に身分の高ぇもんだ。まだ若ぇが役人か高官、下手すりゃ、それ以上かもしれねぇ。そんな奴らが、おまえの友達を探してるってか?カイリ、悪いことは言わねぇ、下手に首を突っ込むな。なんかあったら、俺でも守り切れなくなるぞ。危ねぇことには首を突っ込むな」
「ちょっと待てよ。巴慧ちゃんは大事な友達なんだ。危ないことなんて、あるもんか」
「あの娘が危なくなくても、状況がやべぇっつってんだ。奴らは俺の店が裏で質屋をやってることを知ってた。老街はおろか、老湾の限られた連中しか知らねぇはずのことを、あいつらは知っていやがったんだ。あの二人、特に背の高い色白の男だ。あいつはやばい。絶対に関わるな」
しかも・・・。
(あんの野郎、顔色一つ変えねぇで、朝までずっと飲んでいやがった。底なしっつっても限度ってもんがあんだろ。とんでもねぇ奴だぜ)
昨夜の屈辱がありありと蘇り、ゴキは悔しそうに歯軋りをした。
「すみません。その二人ですが、私のところにも来ました」
山賊のような出で立ちのゴキに気圧されていた八朔だったが、意を決して口を開いた。簡単な自己紹介の後に昨夜のことを話し始めると、腕組みをして聞いていたゴキが「ちょっと待てよ」と口を挟んだ。
「あんた、あれか。ここらへんの連中をただで診てやってる医者っつうのは、あんたのことか」
腕組みをしたまま「あんた」とは何様だ。問い詰めてやりたいが、どうせ「何様って、老湾一の男に決まってんだろ」とふざけたことを言うに違いない。ミトはあからさまに顔を顰めたが、ゴキは意に介すことなく話を続けた。
「貧乏な奴らの面倒を見てるありがてぇ医者がいるって話は、あちこちで聞いてたぜ」
「そんな大したことはしておりませんが、そうですね。もしかしたら私のことかもしれません」
その謙虚な姿勢に感心したゴキは、
「そうかそうか!あんたがその先生か!はっはっは!会えて嬉しいぜ!」
と、地面が割れるかと思うほどの豪快な笑い声を上げた。
「このばあさんも診てやってんのか?ほんとに、こんなぼろ屋にまで来るんだな。先生はあれか、善人ってやつか」
ぼろ屋で悪かったね。ミトはますます目を吊り上げた。
「おまえ、この先生のこと知ってたのか?」
カイリの視線が宙を彷徨う。
「まぁね。知ってると言えば知ってる、かな」
「カイリには助手の仕事を一年ほど前からやってもらっています」
八朔が説明すると、ゴキはカイリの首に太い腕を回した。
「てめぇ、なんだ?その助手ってのは。そんな話、聞いたことねぇぞ。なんで黙ってた」
じりじりと首を締め付ける力が強まる。
「いいだろ別に。ほっとけよ!」
このバカ力!
(正直に話してたら、そんなすげぇ先生を知ってんのか?今すぐ連れて来いって言っただろ?冗談じゃない。めんどくさいことは、ごめんだね!それに、あんな胡散臭い店に出入りしてるなんて、八朔先生に言えるわけねぇだろ?それくらい分かれよな、この毛むくじゃら!)
分厚い腕の中でもがきながら、カイリはゴキの浅黒い顔を睨んだ。
「私がこの辺りで診察を始めたのも、巴慧ちゃんがきっかけなんです。あの子がミトさんや近所の人たちの健康状態をいつも気にしていたので」
カイリの頬を引っ張っていたゴキは八朔の言葉を聞くと腕の力を緩めた。貧しい老街の住人は病に侵されても医者にかかることは難しい。わずかな薬草を買うこともままならずに病をこじらせ、命を落とした者を嫌というほど見てきた。だからこそ、無償で治療をしている医者がいるという話を聞いたときは感心した。だが同時に不思議に思った。一切の代金を受け取らずに治療を続けることが可能なのだろうか。疑問を解消するために、その医者に診てもらったことがあると言う老婆に尋ねたことがあった。
「なんで金をもらわずに治療してんだ。なんか裏があんじゃねぇのか?じゃなきゃ、どうやって続けられんだよ」
ひねくれた言い方しかできないのがゴキである。その不躾な物言いを特に気にすることもなく、老婆は朗らかに答えた。
「私も心配で訊いてみたんだけど、代金はある方から頂いてるんですって言うんですよ」
「ある方って誰だ。どっかのお偉いさんか?」
「さぁ、そこまでは知りません」
そのときの会話を思い出しながら、
「つまり、この辺の連中が先生の世話になれたのは、あの嬢ちゃんのおかげってわけか?」
と八朔に尋ねた。
「その通りです」
無論、すべての治療代や薬代を巴慧から渡された品々で賄えたわけではない。八朔も懐から相当の額を捻出していたが、それは重要ではない。
「そうとなりゃ、話は別だ。老街の住人は俺にとっても家族みてぇなもんだからな。そいつらに良くしてくれた嬢ちゃんなら、助けねぇわけにはいかねぇな」
ゴキの言葉を聞いたカイリの顔がパッと華やいだ。
「助けてくれんのか?」
「あぁ。だが慎重にやる必要がある」
ここでミトが口を開いた。
「先生が言うには、軍が巴慧ちゃんを探しているらしい」
「軍が?ますますやべぇじゃねぇか」
詳しく聞かせろとゴキは八朔に詰め寄った。今回は最後まで話を聞き終えると、ゴキは苦虫を嚙み潰したような顔で唸った。
「ハッタリだよ。そんなまさか、軍が動くわけねぇだろ?」
「いや、ハッタリじゃねぇ。俺は軍が動いてるってのはマジだと思うぞ」
「私もそう思います。あの若者はあえて真実を伝えることで我々に圧力をかけてきた。それを知った我々がどう動くかを見張っているはずです」
八朔が言うと、三人は押し黙った。
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