一つ目鴉と自己像幻視(4)
文字数 1,765文字
ドッペルゲンガー(自己像幻視)とは、ドイツだったか、どこか西洋の伝説で、自分と全く同じ顔の人間が現れると云う不可思議現象のことだ。で、それを見たものは、近いうちに死を迎えると云われている。
「詳しくお話を聞かせて頂けますか?」
染ノ助君は僕に促され、その話の続きを語りだした。
「ある日、私が楽屋で支度をしてますと、誰かが私を呼ぶんです。そこで、私が廊下を覗くと誰もいません。『誰かのいたずらか?』と思って振り返ると、私の座っていた鏡の前に誰かがいるじゃありませんか? 『誰だい、いたずらするのは?』って尋ねると、そいつはこっちを向いて笑うんですよ。で、その顔が化粧途中の私の顔なんです」
それまで黙っていた耀子先輩が、ここで染ノ助君に質問を入れる。
「楽屋には、他に誰かいたんですか?」
「いえ、私ひとりです」
「他の入り口から誰か入ってくることは?」
「出入り口はひとつだけです。誰かが私に化けて驚かそうとしたって言うんなら、そいつは無理だと思います。その人は、私の脇をすり抜けて、楽屋へと入んなきゃなりませんからね」
成程……。じゃ僕からも確認して置こう。
「押し入れとか、ロッカーとか、人が隠れる場所があったんじゃないですか?」
「確かに、人ひとり隠れる場所くらい在りますよ。でもね、私が出口まで行って振り返るのに何秒掛かるって言うんです? その間に、音も立てず私が座ってきた場所に座るなんて、どんでん返しでもなけりゃ出来っこありませんよ」
確かに、誰かが彼に化けていたと云う線は薄いか。
耀子先輩がまた染ノ助君に質問する。
「で、貴方はどうされたんですか?」
「怖くなった私は、そのまま廊下に飛び出して、他の役者さんの楽屋に逃げ込みました。そして、その人と一緒に私の楽屋に戻ってみると、誰もいないんです……」
「目の錯覚だったのではないですか?」
「一度きりなら、そう思って済ますことも出来たんでしょうが、そんなことが、それから二度三度と続いたのです」
僕と耀子先輩は、思わず顔を見合せてしまった。
「その……、ドッペルゲンガーですが、他に見た方はいらっしゃいますか? 例えば、あなたの代わりに舞台に立ったとか……」
「いえ、不思議なことに、私以外は誰も見ていないのです……」
染ノ助君はそれを言った後、僕と耀子先輩が暫し沈黙してしまったので、勘違いして声を荒らげた。
「先生も、僕を信じてくれないのですか?」
さて、どう説明したら良いだろうか?
「もしあなたが、嘘を吐いているなら良いのですが、本当にソレを見たと云うのであれば、大変なことかも知れません」
「どう云うことですか?」
「僕とこの女性は、大学時代に怪奇現象の研究サークルに在籍していました。そのサークルで、ドッペルゲンガーとぬらりひょんに関する研究発表を聞いたことがあるのです」
「ぬらりひょん?」
「その発表者によると、ドッペルゲンガーもぬらりひょんも、脳疾患が原因で起こる症状だと言うんです」
「脳疾患?」
「人間は、自分の位置を認識しながら行動しています。例えば、あなたが歩いたとすると、数歩先の位置に移動したと把握するのです。ですが、それが脳疾患に因って狂ってしまうと、自分の実際の位置と身体定位に差異が生じます。つまり、先程の例で言うと、あなたは歩いても、元の場所にいると錯覚してしまうのです」
「えっ?!」
「そうして混乱した脳は、自己幻視と言う形で自分の幻を見てしまうのです。それを自分と認識したのであればドッペルゲンガー。他人と認識したのであればぬらりひょんだと発表者は言っていました」
ぬらりひょんの場合は「お前は誰だ?」と訊くと、「儂はぬらりひょんだ」と答えるのだそうだが……。ま、この辺は病気では説明出来ないところではある……。
「僕は、あなたに脳外科医の診察を受けることをお勧めします」
僕は、彼に全てを話している訳ではない。脳疾患としか言っていないが、この病気は、主に頭頂や側頭葉の脳腫瘍なのだ。腫瘍は不治の病ではないだろうが、矢張り、そう伝えられるのはショックだろう。僕は、彼に診察を勧めるだけに留めることにした。
「もし、脳に異常が無かった場合には、改めて僕の家に相談しに来て下さい」
僕はそう言って、自分の名刺を取り出し、裏に携帯の番号を書き込み、それを彼に渡したのである。
「詳しくお話を聞かせて頂けますか?」
染ノ助君は僕に促され、その話の続きを語りだした。
「ある日、私が楽屋で支度をしてますと、誰かが私を呼ぶんです。そこで、私が廊下を覗くと誰もいません。『誰かのいたずらか?』と思って振り返ると、私の座っていた鏡の前に誰かがいるじゃありませんか? 『誰だい、いたずらするのは?』って尋ねると、そいつはこっちを向いて笑うんですよ。で、その顔が化粧途中の私の顔なんです」
それまで黙っていた耀子先輩が、ここで染ノ助君に質問を入れる。
「楽屋には、他に誰かいたんですか?」
「いえ、私ひとりです」
「他の入り口から誰か入ってくることは?」
「出入り口はひとつだけです。誰かが私に化けて驚かそうとしたって言うんなら、そいつは無理だと思います。その人は、私の脇をすり抜けて、楽屋へと入んなきゃなりませんからね」
成程……。じゃ僕からも確認して置こう。
「押し入れとか、ロッカーとか、人が隠れる場所があったんじゃないですか?」
「確かに、人ひとり隠れる場所くらい在りますよ。でもね、私が出口まで行って振り返るのに何秒掛かるって言うんです? その間に、音も立てず私が座ってきた場所に座るなんて、どんでん返しでもなけりゃ出来っこありませんよ」
確かに、誰かが彼に化けていたと云う線は薄いか。
耀子先輩がまた染ノ助君に質問する。
「で、貴方はどうされたんですか?」
「怖くなった私は、そのまま廊下に飛び出して、他の役者さんの楽屋に逃げ込みました。そして、その人と一緒に私の楽屋に戻ってみると、誰もいないんです……」
「目の錯覚だったのではないですか?」
「一度きりなら、そう思って済ますことも出来たんでしょうが、そんなことが、それから二度三度と続いたのです」
僕と耀子先輩は、思わず顔を見合せてしまった。
「その……、ドッペルゲンガーですが、他に見た方はいらっしゃいますか? 例えば、あなたの代わりに舞台に立ったとか……」
「いえ、不思議なことに、私以外は誰も見ていないのです……」
染ノ助君はそれを言った後、僕と耀子先輩が暫し沈黙してしまったので、勘違いして声を荒らげた。
「先生も、僕を信じてくれないのですか?」
さて、どう説明したら良いだろうか?
「もしあなたが、嘘を吐いているなら良いのですが、本当にソレを見たと云うのであれば、大変なことかも知れません」
「どう云うことですか?」
「僕とこの女性は、大学時代に怪奇現象の研究サークルに在籍していました。そのサークルで、ドッペルゲンガーとぬらりひょんに関する研究発表を聞いたことがあるのです」
「ぬらりひょん?」
「その発表者によると、ドッペルゲンガーもぬらりひょんも、脳疾患が原因で起こる症状だと言うんです」
「脳疾患?」
「人間は、自分の位置を認識しながら行動しています。例えば、あなたが歩いたとすると、数歩先の位置に移動したと把握するのです。ですが、それが脳疾患に因って狂ってしまうと、自分の実際の位置と身体定位に差異が生じます。つまり、先程の例で言うと、あなたは歩いても、元の場所にいると錯覚してしまうのです」
「えっ?!」
「そうして混乱した脳は、自己幻視と言う形で自分の幻を見てしまうのです。それを自分と認識したのであればドッペルゲンガー。他人と認識したのであればぬらりひょんだと発表者は言っていました」
ぬらりひょんの場合は「お前は誰だ?」と訊くと、「儂はぬらりひょんだ」と答えるのだそうだが……。ま、この辺は病気では説明出来ないところではある……。
「僕は、あなたに脳外科医の診察を受けることをお勧めします」
僕は、彼に全てを話している訳ではない。脳疾患としか言っていないが、この病気は、主に頭頂や側頭葉の脳腫瘍なのだ。腫瘍は不治の病ではないだろうが、矢張り、そう伝えられるのはショックだろう。僕は、彼に診察を勧めるだけに留めることにした。
「もし、脳に異常が無かった場合には、改めて僕の家に相談しに来て下さい」
僕はそう言って、自分の名刺を取り出し、裏に携帯の番号を書き込み、それを彼に渡したのである。