須佐皇と奇し姫(4)
文字数 3,464文字
耀子先輩は怒りが治まると、羽交い絞めにした僕の両手を軽く振り解く。そう。彼女は最初から奇し姫を襲う気など無かったのだ。もし、本気でそうしたいのなら、耀子先輩なら僕の手を振り解くくらい簡単に出来る。
「見逃してあげるわ……。仲間を裏切って、二人で逃げるなんて、哀れ過ぎるもの……」
耀子先輩はそう言って踵を返した。僕も背を押される様に倉の出口へと向かいかける。
だが、青年は、母の後ろから前へ出て、立ち去ろうとする先輩を呼び止めた。
「藤沢さん、待ってください」
耀子先輩が振り返ってそれに応える。
「あら? 調査は終了よ。それとも、調査結果に満足が行かないのかしら?」
「いいえ。僕が何者なのかも含め、良く分かりました。でも、お願いがあります!」
「面倒臭いから聞きたくないのだけど……」
「僕を殺してください……。僕が死ねば、母ももう、こんなことする意味が無くなります。死んだ人たちは戻らないけど、それで不幸な仕来たりはお終いになりますから……」
「死にたけりゃ、自分で勝手に死ねばいいじゃない。私に頼まないでよ」
「でも、僕は手首を切っても死ねないし、薬物も恐らく効きはしないから……」
「そんなの知らないわよ!」
青年の母親が、青年を止めようとする。
「止めなさい! 馬鹿なことは!!」
「馬鹿なことなもんか! これで母さんも、これ以上悪いことをしなくて済む……」
それに耀子先輩は反対する。
「充分、馬鹿なことよ。貴方、このまま、貴方の思っている人と結婚してみなさいよ。恐らく何も起こりはしないから……。子供が女の子だって、ちゃんと育つ筈よ」
「え??」
「須佐皇はね、もう随分昔から覚醒する心算なんて失くしていたのよ。恐らく、もう彼は、こんな風習すら止めて欲しかったに違いないわ」
奇し姫は、耀子先輩の言葉を否定する。
「そんなことはない! そんなことは……」
「須佐皇は、恐ろしい化け物には、もう戻りたくなかったの……。人間の暮らしを見続けた為に……。でも、須佐皇は子孫を残すことも止められなかった……。永遠に夫婦で暮そうと望む、奇し姫の気持ちを考えると……。だから、この風習を終らせたいとは、自分からは言い出せなかったのよ……」
「そ、そんな……」
「それで、須佐皇はスサオウ君の心に暗示を掛けたの……。スサオウ君自身は気付かなかった様だけど……」
「僕に暗示を?」
青年は驚きの声をあげる。
「『母親を、この愚かしい風習から救い出さねば。友人に協力して貰ってでも、この輪廻を断ち切る人物を、必ず探し出さねば……』ってね」
「須佐皇が、僕にそんな暗示を……?」
「憑依ってのはね。憑依する者が憑依される者の身体を乗っ取るってことなんだけど、実は憑依と同時にお互いの記憶や習慣なども共有してしまうものなのよ。
記憶、癖、習慣、考え方……。それこそが人格であり、意志の源でもあるわ。それを共有するってことはね、憑依された方が憑依した方になるってことでもあるの。つまり、憑依と被憑依の関係は表裏一体。
貴方は須佐皇にならなくても、既に須佐皇の性格に影響されているし、須佐皇もこれまで憑依してきた人間の子孫たちの思いを共有して変わってきているのよ……。
貴方は須佐皇になどならない。仮になったとしても、人間の敵になって暴れることはもう出来ない。だって、貴方も、貴方の母の奇し姫も、もう長年の憑依で、人間となってしまっているんだもん……」
「妾は奇し姫。人間ではない!!」
奇し姫が抗議の叫びを上げる。だが、青年も耀子先輩もそれを無視した。
「でも……、万が一、僕が人間の意志を失って暴れ出したら……」
その青年の心配を、耀子先輩は杞憂だとばかりに笑い飛ばす。
「それも問題ないわ。安心しなさい。貴方が人類の敵になるようだったら、ちゃんと戦ってくれる人がいるから……」
「藤沢さんが戦ってくれるのですか?」
それも耀子先輩は笑い飛ばす。
「馬鹿言わないでよ! 私は人間よ。なんで、モンスター化した貴方と戦わなきゃいけないのよ? ちゃんと、そう言うのを生業にしている怪物調伏の専門家がいるわ。耀公主って化け物が……」
因みに、この耀公主と言うのは、耀子先輩のことではない。彼女のニックネームの元となった、悪魔喰いの悪魔と呼ばれる、世にも恐ろしい化け物のことだ。
結局……。
青年は都会に出て、結婚相手を見つけ(態々見つける必要はないと思うが……)、母である奇し姫と三人で暮すと言う。村の人には、クシナダ様と古 の英雄が宿ったスサオウ君が、不思議探偵の力を借りて八魔多を倒し、二人がこの村に残る必要が無くなったと説明するのだそうだ。
ま、戸籍などの問題から、正規雇用は難しいかも知れないが、何かしらの仕事を見つけることくらいは出来るだろう。場合に依っては、修一の勤務先に就職するのも有りかも知れない。あそこは、かなり怪しい人物でも雇っているようだから……。
尚、ここでしていた様な、奇し姫と須佐皇の憑依は、彼らの代で終わりとすると云う。そして彼らが死んだ後、奇し姫と須佐皇を封印し、そこで祀って貰えるようなお社を、時間を掛けて探したいとも言っていた。これで彼らも、文字通り神になるのだ。
須佐皇と奇し姫の事件は、あらまし片が付いた。さあ、僕たちも帰らなくては……。
僕たちは倉屋敷に一晩泊めて貰い、翌朝、日の出と同時に屋敷を出た。昼前の特急に乗れば、月曜日中に東京巣鴨の地蔵通りへと戻ることが出来るだろう。ま、それには、村から延々、駅を目指し歩き続けなければならないだろうが……。
トンネルのある坂の手前、村の外れまで、青年は僕たちを見送りに来てくれる。
それにしても、この好青年が、須佐皇なる怪物を宿しているとは、僕には今でも信じられない……。
青年は先ず、耀子先輩と握手を交わす。
そして、青年と簡単な別れの挨拶を済ますと、先輩は「トンネルへの道を確かめるから、少し先に行く」と言って、一人で坂を登って行ってしまった。本当、勝手な人だ。
青年は耀子先輩に続き僕の手を取る。僕も彼の手を握り返し、別れの挨拶をする。
「じゃあ、スサオウ君の方から、克哉さんのお父さんと妹さんには宜しく伝えておいてくれよ。『色々と世話になった』ってね……」
「はい……。橿原先生、色々とありがとうございました」
「いや、知っての通り、僕は何もしてないよ。全ては耀子先輩のお蔭さ」
「あ、あの~」
青年はまだ何かあるのか、少し言い難そうに言葉を濁した。
「どうしたんだい?」
「藤沢さんのことなんですけど……。あの人、どんな化け物なんですか?」
「何言ってるんだ? 見ての通り、彼女は普通の人間だよ……」
普通の……と云うところで、僕はちょっと言葉に詰まってしまう。
「いや……。どう見ても、あの人、人間じゃないでしょう?」
礼儀正しいと思っていたのだが、彼は結構失礼なことを言う。だが、その気持ちも分からないではない。僕だって、彼女のことを妖怪だと思っていた時期がある。彼女の名前が耀子だったので妖狐だと思ったのだ。勿論、後で先輩に呆れられてしまったのだが……。
「人間だよ、耀子先輩は……。実は……、彼女の子供の修一は、彼女と僕の間に出来た子なんだ。人間の子供が生まれるんだ。化け物の筈がないだろう?」
僕は、言ってはいけない大切な秘密を、つい青年に漏らしてしまった。これは二人だけの秘密だ……。後で耀子先輩に何を言われるか、もう分かったものじゃない。
「橿原先生……。先生は、あの藤沢耀子さんに騙され、憑りつかれているのだと思います。美しい女性と結婚し子供まで作ったんだけど、実は女の正体は妖怪で、子供も人間ではなく完全な妖怪だったって話もあるらしいですからね。確か、妖媚 だか妖魅 とか云う、そんな恐ろしい妖怪が中国にいるとか……」
馬鹿を言っちゃいけない。
確かに耀子先輩は、中学生時代、要妹 と云う渾名 があったそうだが、それは要 兄妹の妹と云う意味だ。彼女が妖怪で、僕に憑りついて騙しているなんて、そんなことがあろう筈がない!
だが、僕は大人、それも学者だ。青年に怒りをぶつけたりなどせず、理論的にそうでないことを説明しなければならない。
「耀子先輩が人間だと言うことは、既に証明されているんだよ……」
「どんな証明ですか?」
「彼女が『自分は人間だ』って言ったんだ。それで十分証明になっているじゃないか!」
自分でも完璧な証明だと思う。だが……、僕には、青年が何となく、呆れた顔をして僕を見ている気がしてならなかった……。
「見逃してあげるわ……。仲間を裏切って、二人で逃げるなんて、哀れ過ぎるもの……」
耀子先輩はそう言って踵を返した。僕も背を押される様に倉の出口へと向かいかける。
だが、青年は、母の後ろから前へ出て、立ち去ろうとする先輩を呼び止めた。
「藤沢さん、待ってください」
耀子先輩が振り返ってそれに応える。
「あら? 調査は終了よ。それとも、調査結果に満足が行かないのかしら?」
「いいえ。僕が何者なのかも含め、良く分かりました。でも、お願いがあります!」
「面倒臭いから聞きたくないのだけど……」
「僕を殺してください……。僕が死ねば、母ももう、こんなことする意味が無くなります。死んだ人たちは戻らないけど、それで不幸な仕来たりはお終いになりますから……」
「死にたけりゃ、自分で勝手に死ねばいいじゃない。私に頼まないでよ」
「でも、僕は手首を切っても死ねないし、薬物も恐らく効きはしないから……」
「そんなの知らないわよ!」
青年の母親が、青年を止めようとする。
「止めなさい! 馬鹿なことは!!」
「馬鹿なことなもんか! これで母さんも、これ以上悪いことをしなくて済む……」
それに耀子先輩は反対する。
「充分、馬鹿なことよ。貴方、このまま、貴方の思っている人と結婚してみなさいよ。恐らく何も起こりはしないから……。子供が女の子だって、ちゃんと育つ筈よ」
「え??」
「須佐皇はね、もう随分昔から覚醒する心算なんて失くしていたのよ。恐らく、もう彼は、こんな風習すら止めて欲しかったに違いないわ」
奇し姫は、耀子先輩の言葉を否定する。
「そんなことはない! そんなことは……」
「須佐皇は、恐ろしい化け物には、もう戻りたくなかったの……。人間の暮らしを見続けた為に……。でも、須佐皇は子孫を残すことも止められなかった……。永遠に夫婦で暮そうと望む、奇し姫の気持ちを考えると……。だから、この風習を終らせたいとは、自分からは言い出せなかったのよ……」
「そ、そんな……」
「それで、須佐皇はスサオウ君の心に暗示を掛けたの……。スサオウ君自身は気付かなかった様だけど……」
「僕に暗示を?」
青年は驚きの声をあげる。
「『母親を、この愚かしい風習から救い出さねば。友人に協力して貰ってでも、この輪廻を断ち切る人物を、必ず探し出さねば……』ってね」
「須佐皇が、僕にそんな暗示を……?」
「憑依ってのはね。憑依する者が憑依される者の身体を乗っ取るってことなんだけど、実は憑依と同時にお互いの記憶や習慣なども共有してしまうものなのよ。
記憶、癖、習慣、考え方……。それこそが人格であり、意志の源でもあるわ。それを共有するってことはね、憑依された方が憑依した方になるってことでもあるの。つまり、憑依と被憑依の関係は表裏一体。
貴方は須佐皇にならなくても、既に須佐皇の性格に影響されているし、須佐皇もこれまで憑依してきた人間の子孫たちの思いを共有して変わってきているのよ……。
貴方は須佐皇になどならない。仮になったとしても、人間の敵になって暴れることはもう出来ない。だって、貴方も、貴方の母の奇し姫も、もう長年の憑依で、人間となってしまっているんだもん……」
「妾は奇し姫。人間ではない!!」
奇し姫が抗議の叫びを上げる。だが、青年も耀子先輩もそれを無視した。
「でも……、万が一、僕が人間の意志を失って暴れ出したら……」
その青年の心配を、耀子先輩は杞憂だとばかりに笑い飛ばす。
「それも問題ないわ。安心しなさい。貴方が人類の敵になるようだったら、ちゃんと戦ってくれる人がいるから……」
「藤沢さんが戦ってくれるのですか?」
それも耀子先輩は笑い飛ばす。
「馬鹿言わないでよ! 私は人間よ。なんで、モンスター化した貴方と戦わなきゃいけないのよ? ちゃんと、そう言うのを生業にしている怪物調伏の専門家がいるわ。耀公主って化け物が……」
因みに、この耀公主と言うのは、耀子先輩のことではない。彼女のニックネームの元となった、悪魔喰いの悪魔と呼ばれる、世にも恐ろしい化け物のことだ。
結局……。
青年は都会に出て、結婚相手を見つけ(態々見つける必要はないと思うが……)、母である奇し姫と三人で暮すと言う。村の人には、クシナダ様と
ま、戸籍などの問題から、正規雇用は難しいかも知れないが、何かしらの仕事を見つけることくらいは出来るだろう。場合に依っては、修一の勤務先に就職するのも有りかも知れない。あそこは、かなり怪しい人物でも雇っているようだから……。
尚、ここでしていた様な、奇し姫と須佐皇の憑依は、彼らの代で終わりとすると云う。そして彼らが死んだ後、奇し姫と須佐皇を封印し、そこで祀って貰えるようなお社を、時間を掛けて探したいとも言っていた。これで彼らも、文字通り神になるのだ。
須佐皇と奇し姫の事件は、あらまし片が付いた。さあ、僕たちも帰らなくては……。
僕たちは倉屋敷に一晩泊めて貰い、翌朝、日の出と同時に屋敷を出た。昼前の特急に乗れば、月曜日中に東京巣鴨の地蔵通りへと戻ることが出来るだろう。ま、それには、村から延々、駅を目指し歩き続けなければならないだろうが……。
トンネルのある坂の手前、村の外れまで、青年は僕たちを見送りに来てくれる。
それにしても、この好青年が、須佐皇なる怪物を宿しているとは、僕には今でも信じられない……。
青年は先ず、耀子先輩と握手を交わす。
そして、青年と簡単な別れの挨拶を済ますと、先輩は「トンネルへの道を確かめるから、少し先に行く」と言って、一人で坂を登って行ってしまった。本当、勝手な人だ。
青年は耀子先輩に続き僕の手を取る。僕も彼の手を握り返し、別れの挨拶をする。
「じゃあ、スサオウ君の方から、克哉さんのお父さんと妹さんには宜しく伝えておいてくれよ。『色々と世話になった』ってね……」
「はい……。橿原先生、色々とありがとうございました」
「いや、知っての通り、僕は何もしてないよ。全ては耀子先輩のお蔭さ」
「あ、あの~」
青年はまだ何かあるのか、少し言い難そうに言葉を濁した。
「どうしたんだい?」
「藤沢さんのことなんですけど……。あの人、どんな化け物なんですか?」
「何言ってるんだ? 見ての通り、彼女は普通の人間だよ……」
普通の……と云うところで、僕はちょっと言葉に詰まってしまう。
「いや……。どう見ても、あの人、人間じゃないでしょう?」
礼儀正しいと思っていたのだが、彼は結構失礼なことを言う。だが、その気持ちも分からないではない。僕だって、彼女のことを妖怪だと思っていた時期がある。彼女の名前が耀子だったので妖狐だと思ったのだ。勿論、後で先輩に呆れられてしまったのだが……。
「人間だよ、耀子先輩は……。実は……、彼女の子供の修一は、彼女と僕の間に出来た子なんだ。人間の子供が生まれるんだ。化け物の筈がないだろう?」
僕は、言ってはいけない大切な秘密を、つい青年に漏らしてしまった。これは二人だけの秘密だ……。後で耀子先輩に何を言われるか、もう分かったものじゃない。
「橿原先生……。先生は、あの藤沢耀子さんに騙され、憑りつかれているのだと思います。美しい女性と結婚し子供まで作ったんだけど、実は女の正体は妖怪で、子供も人間ではなく完全な妖怪だったって話もあるらしいですからね。確か、
馬鹿を言っちゃいけない。
確かに耀子先輩は、中学生時代、
だが、僕は大人、それも学者だ。青年に怒りをぶつけたりなどせず、理論的にそうでないことを説明しなければならない。
「耀子先輩が人間だと言うことは、既に証明されているんだよ……」
「どんな証明ですか?」
「彼女が『自分は人間だ』って言ったんだ。それで十分証明になっているじゃないか!」
自分でも完璧な証明だと思う。だが……、僕には、青年が何となく、呆れた顔をして僕を見ている気がしてならなかった……。