プロローグ

文字数 1,610文字

 沢口光司は曇った目で、一点だけを見つめていた。
 だが見つめるその眼は、もう生身の人間の眼じゃない。いわゆる世間で言うところの霊というものになっちまった、お化けの眼だ。
 嵐で遭難した豪華客船の救助活動で殉職した身だが、未だに天国からお呼びがかからず、特殊救難隊の隊員としての気持ちもまだ抜けきれずに、停泊している巡視船の船首の甲板に腰を落とし、いま世界中で大きな環境問題となっているプラスチックごみが浮いた汚れた海面を見つめているときだった。
 そこにユタ仙人だと名乗るサンラー(三郎)という名の変な名前の霊が、空から下りてきた。
 ユタとは、沖縄の口寄せ巫女で、いわゆるシャーマンのことだ。本来は女がユタになるそうだが、彼は生まれついての霊感の強い性(さが)で成人するとユタになったそうだ。だが男のユタなど誰も相手にはしてくれなかった。そこでサンラー氏は、沖縄の古い言い伝えで、海の彼方に理想郷があると信じられているニライカナイを求めて中国の四川省のすっかり観光化された町を訪れた。ところがそこで運悪く財布を盗まれてしまい、途方に暮れた彼は、四川の山中を放浪する羽目になった。
 するとそこに古木のような風体の仙人が現れて、素性を聞くと有無を言わさずに弟子にさせられた。そして長く厳しい修行を終えて安堵したとき、いや老木仙人の寿命が尽き、後を勝手に託されて一人山中で寂しく暮らすようになったときだった。
 四川で巨大地震が起きた。
 サンラー氏は山を下りて村人たちを助けようと奔走した。だが助けた幼い少女の身代わりに、命を失った。やむなく天国で暮らす羽目になった彼は、自分は神様だと名乗る老人と出会うと、またも弟子にされて霊のユタ仙人になったそうだ。
 その霊界の仙人とやらになったサンラー氏のおかげで、徘徊している他の霊たちよりは少しはできる男に、いや霊になった身だが、今日も天国からは、お声が掛からない。それどころか、小学1年のときに両親を交通事故で亡くして、女手一つで育ててくれた祖母も7年前に他界した上に、身寄りのない中年のしがない独身男なので、墓参りをしてくれる人も滅多に来てくれない。
 そこでふるさとの墓地に戻って暮らすのもひどく退屈なので、霊になって初めて東京の界隈を久しぶりに散策しにやってきたのだが、街に足を踏み入れると、霊感が強いのか、失礼にも指さして怖がる人たちを時折、見かけた。が、そんなことを、いちいち気にしてなどいられない。
 この凛々しい容姿を見て感激、いや怯える連中は、逆にもっと脅かしてやろうかと思うぐらいだ。
 まあ、実際に脅かしてやった連中もいる。悪党たちが巣窟にしていそうな怪しげなクラブから出てきた、いかにもその筋のくず野郎だ、と言わんばかりに肩で風を切って歩く、強面の3人組だった。すれ違う人たちを威嚇するように歩行者専用の通りのセンターを太々しく歩く兄貴分と思われる目つきの悪い30代後半と思われる長身の大男だった。男は幸いにも、いや不幸にも霊が見える奴で、この凛々しい新顔を眼にすると、眼玉を大きく見開き、穴を蹴られた犬のように悲鳴を上げ、怯えまくった。
 そこまで感動を? してくれるならと、さらに怖い表情と両手を前にだらりとぶら下げてやる幽霊の定番? の恨めしや~、と追加のサービスをつけて脅かしてやったら、いきなりパニック症候群でも発症したのか、と思えるほど、喚き散らしながら、ひどく腰を抜かした状態で奇声を上げ一目散に逃げていきやがった。
 その男の滑稽な有様を思い出すと、あまりにも可笑しくて、また似たような連中が現れたら、たっぷりと脅かしてやろうじゃないか、と考えながら、早朝のお散歩しているときだった。
 とある児童養護施設から、ひどく暗い顔をした少年が出てきたので、沢口も、暗い顔をして、その少年の後を追った。別に、少年の顔を真似たわけじゃない。
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