恵人の編4

文字数 4,283文字

「どうだ、ここから眺めると、日本という国がいかにちっぽけな世界かが分かるだろう。宇宙に飛び出せば、地球のすべての営みさえも、小さいものだ」
 その言葉を耳にしながら、まるで自分が宇宙飛行士にでもなったような気分で、恵人は眼下を眺めていた。
「恵人、おまえ、出身は東京じゃないんだろう。おまえの故郷はどこだ?」
「え? 僕のふるさと?」
「ああ、そうだ。おまえのふるさとは何処だ?」
「愛知県の〇〇です。伊良湖岬から西側の沿岸に沿った、遠州灘の海に面した町です」
「よし、いまからそこに行くぞ」
「え? いまからですか?」
「ああそうだ。あそこは、おまえの想像どおりだったら、震災で亡くなった霊が沢山いるはずだからな。ひょっとしたら、死んだおまえの親戚とか、友人にも会えるかもしれんぞ」
 沢口は自分の心を読んだのか、また返事も聞かずに右腕を掴み、急降下すると横浜の方角に向かって海岸瀬を舐めるように飛んだ。そして何か用事でもあったのだろうか、東京湾を航行中の巡視船の頭上をしばらく飛ぶと、方向転換をしてふるさとを目指した。
 その飛ぶ速さは相わからず、ジェット機か弾丸のようだ。長いと思った相模湾を横目に箱根の観光地をあっという間に飛び越えて、駿河湾の上空に来た。
 恵人は、顔を曇らせた。眼に入った光景は、多くの人々に愛され親しまれている、あの美しい風景ではなかった。
 瞳には、東日本大震災の映像と同じような、無残な光景が、延々と続いていた。
 気象庁をはじめ地震学者たちが、いつ起きてもおかしくないと国民にさかんに警告していた、恐れていた南海トラフを震源とするマグニチュード九・五の超巨大地震が、ここで起きたのだ。 そして不幸にも震源地は、浜岡原発の沖合だった。
 東日本に大災害をもたらした超巨大地震は、東海、近畿地方、神奈川に襲い掛かった。特に、海に近い沿岸地域は岩手、宮城、福島の被災地を彷彿させた。全ての沿岸都市と、町や村集落は甚大な被害を受け、5万人を超える尊い命が犠牲になり、歴史的建造物や名勝地も大きな被害を受けた。眼下の静岡では、神戸、長崎と共に、日本三大美港と称えられている清水港は見る影もなく、江戸幕府300年の原点となった徳川家康の居城、出世城とも言われた浜松城は、元の姿がわからぬほどに完全に倒壊して瓦礫の山のような無残な姿になっていた。
 被害は英知を結集した人工物だけではなかった。絵画にも好んで描かれて愛されてきた三保の松原は地面を抉られて、松の半分近くが倒木、消失していた。
 静岡の被害は、それだけではなかった。地震と津波の被害にさらに追い打ちをかけるように、東海地方を放射線の汚染地帯にした。あの忌まわしい日から四年も経っているが広範囲にまたがって無人の町や村が続き、未だに人をよせつけない不毛の地へと変わり果てていた。
 そう、あの福島原発事故の教訓は、ここでは何の役にも立たなかったのだ。浜岡原発は廃炉を決定したものの、政府は廃炉作業を急ぐことよりも、原発の再稼働に熱心だ。 
 その廃炉の政策を後回しにしたツケが、福島原発事故を大きく超える被災地域、被災者を生み出してしまったのだ。避難区域は市域だけでも9都市に上り、被災難民は、鳥取、島根、福井、佐賀、高知、徳島県の人口をも超える、なんと90万人余にも上っていた。
 眼を覆いたくなる悲惨な光景が延々と続き、その延長線上に懐かしい山野と町が見えてきた。
「あそこが、僕が生まれた町です」
 恵人は、ほとんどの家が地震と津波で倒壊、消失してしまった沿岸の町を指差した。
 生まれ育った、懐かしいふるさと。が、懐かしいという想いを頭から直ぐに蹴散らし、悲しみだけを蘇らせた。 
 父と、母のことを想い浮かべた。
 家族全員で過ごした日々が、走馬灯のように蘇った。
 いま振り返ると、全てが幸せな日々だった。両親にひどく叱られたことも、兄弟げんかをしたことも恋しかった。
「あそこが、僕の家があった場所です」
 恵人は、まだ瓦礫の屑が残っている空き地を指差した。二人はその空き地に降り立った。
「この辺には住宅が並んでいました。あそこと、あそこには、友だちの家がありました。でも、みんな流されてしまった」
 恵人は、雑草の中に埋もれるように僅かに残っている家の土台を見つめ、眼を潤ませた。瞳の奥で家族の姿を追い求めた。
「お母さん、お父さん……」
 両手両膝を地面に落とし、父と母の姿を瞼に浮かべ、涙を頬に零した。
「恵人、どうだ? 誰か、知り合いは見かけたか?」
 落ち込んだ気持ちを察したように、沢口が初めて穏やかな声で訊いてきた。
 恵人は頭を擡げて周囲を見渡した。通行人に混ざって霊がさまよっているのが見えるが、その中に知り合いというほどの人間や霊はいなかった。見覚えのある顔をした人もいたが、溺死したのだろうか? 全身が酷く傷んでいて、はっきりとはわからなかった。
 が、その光景を見て、すこし元気が湧いた。
……あの津波で亡くなった霊たちが、まだここにいるということは、ひょっとしたら、父や母もいるかもしれない。
 一筋の光明が、恵人の心に芽生えた。
 その期待を胸に、ふるさとを駆け回った。だが、どこを探しても両親の霊どころか、親戚の霊も見つからなかった。失意に打ちのめされた瞳に、高台にある懐かしい小学校が映った。東京の小学校に転校するまでは以前、自分が通っていた学校だ。
「あれは、おまえが通っていた学校か?」
 恵人は、沢口の言葉に小さく頷いた。
「恵人、校舎を覗くに行くぞ」
 どの教室にも見覚えのある生徒は、一人もいなかった。当然だ。級友たちは小学生ではなく、今は中学1年生だ。学校に通っているとすれば、瞳に映る小高い丘を越えた平地にあった中学校だ。だが学校は、今は無い。学校の校舎は地震と津波で全壊してしまった。生き残った級友たちは、6日前に入学式を終えた隣町の中学校に通っているはずだ。
「恵人。さっき見かけた霊は、あの津波で亡くなった人間ではない。たぶん震災で大切な人でも亡くして、この世に悲観して自殺したのだろう。だが死んでも、会いたい人とは、出会えない。気の毒だが、それが霊界での厳しい現実なのだ。だから自殺なんてのはな、絶対にするもんじゃない。それと、ここで気を付けないといけないのは、悪霊たちだ」
 自殺したことを、改めて咎めるような強い口調で喋ると、沢口は周りを見渡していた。
「悪霊?」
 恵人はその言葉に、体をビクッと反応させて聞き返した。
「ああ。悪魔の力で地獄行きを逃れた悪党たちだ。そいつらが悪霊となって獲物を探して徘徊している。奴らに捕まらないよう、気をつけないとな」
 恵人は恐ろしくなって言葉を返すことができず、怯えた眼をした。
「ほら、そいつが後ろにいるぞ」
「うわっ」
 恵人は飛びのいて振り返った。また屁が出た。どうやらブッというガスが抜けるような音が、沢口の耳にも入ったようで、眼にいたずらっぽい笑みを浮かべていた。が笑っても恐ろしい顔はちっとも変らなかった。
 それでも、これまでの沢口の話しぶりや、その顔を見慣れてきたせいなのか、初めて出会ったときよりはそれほど怖いとは感じなくなっていた。こんな化け物顔にさえも、そう感じてしまうとは、慣れとは恐ろしいもんだな、と恵人はつくづく思った。
 すると、世間で眼にする美女とブ男のカップルが、頭に浮かんできた。自分の眼と同じように、その美女たちも美的感覚が狂っていて、いや麻痺していて、ブ男の顔がそういう風に見えているのだろうか? と変な想像が頭に浮かんだ。
「冗談だよ。冗談。霊が生きている人間のようにそんなに驚いてどうする? おまえも、悪霊たちに対抗できる霊だということを忘れるな」
「僕が、その悪霊たちと対抗できるのですか?」
 恵人は生唾をのんで、言葉を返した。
「ああ、そうだ。いまのおまえに、悪霊たちと戦う力はないが、魂を喰われることはない。相当痛い目には、遭わされるだろうがな」
 魂を喰われないと言ったのは嘘だった。これ以上、怯えさせないように、沢口は方便を使っていた。悪霊たちは、霊を、捕食していた。
「おばあちゃん、怖い。あそこに、大きいお化けと小さいお化けがいるよ」
 女の子の声が恵人の耳に飛び込んできだ。
「えっ」
 恵人はまた怯えた顔をぶら下げて、周りに眼を向けた。化け物はいなかった。
 胸をなで下ろし声を発した相手を探した。すると、ここから12メートル程離れた校門に声の主はいた。幼稚園園児と思われる豚そっくりのアンパンマンのような饅頭顔の肥満の女の子が、祖母の腰に抱きつくように立って、自分を指差していた。
 ……人を脅かしやがって。おまえ、その顔を、鏡で見たことあるのか? いまは可愛い盛りでその顔をカバーしているけど、おおきくなったら人のことは言えんぞ!
 恵人は女の子を少し睨んで、心で罵声を飛ばした。その人差し指の第一関節と第二関節を曲げろ、そしたら指の先は自分の顔を指すぞ、と言い返そうと思ったが、園児相手にけんかするのもみっともないのでやめた。
「そう、びくびくするな。いいか、痛い目に遭いたくなかったら、俺の側からしばらくは離れるな。これもなにかの縁だ」
「……これから、どうするんですか?」
 恵人は、いまは園児の特権で、人によっては一応可愛く見えるだろうが、成人になった頃には間違いなく違う人相へと、見事に変身するだろう女の子から視線を戻して、渋々従うという顔で訊いた。
「おまえの両親がいないこの地に長くいてもしょうがない。東京に戻るぞ。あそこには、おまえのたった一人の身内がいるからな」
 その言葉を聞いて、恵人の心は揺れた。恵吾の顔を見るのが辛かった。きっと今頃は、自分が死んだと聞かされて、泣いていることだろう。
「いいか、おまえには、弟を見守ってやる責任がある。おまえは自分のことだけを考えて自殺した。立った一人、残される弟のことも考えずにな。だから、おまえが天国に連れていかれるまでは、弟の側にいてやるのだ。わかったな」
「でも」
「おまえには責任がある。たった一人残された弟が不憫だと思ったら、側にいて見守ってやるのだ。俺がつきあってやる。さあ、いくぞ!」
 親父のような雷声を頭上に落とす、父より三つ年下の沢口は、またも拒むことを許さず、腕を掴まえてスーパーマンのように上空に飛び上がった。
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