恵人の編3

文字数 1,639文字

 あっという間に小学校が小さくなり、見慣れた施設が瞳に映った。
「ここは」
「おまえが出てきた施設だ。俺はたまたま、この施設を通りかかったとき、死相が浮かんでいるおまえの姿を見て、学校まで後をつけたんだ」
 沢口が連れてきた場所は、自分と弟の恵吾が暮らしている古びた児童養護施設だった。  
 小学3年生の弟は自分の身の上に負い目を感じているようで、施設にきて口数が少なくなり、学校から帰ると、いつも側から離れなかった。今日からは一人になる。
 恵人は、弟のことが急に心配になった。
「あの子は、おまえに似ているな」 
 沢口が、施設の窓から垣間見える恵吾を指差した。
 今日は日曜日だ。学校は休みなのでいつもはまだ寝ている時間なのだが、自分がいないことに気付いたようで、弟はどうやら自分の姿を探しているようだった。
「僕の弟です」
「そうか。おまえの弟は、自分のたった一人の兄弟が、自殺したと聞いたら、これからどうするだろうな」
「……」
 恵人には答えようがなかった。自殺するまでは自分のこと以外は何も考えられなかった。が、こうして自殺をして初めて周りのことを見渡せるようになると、気の小さい弟の、恵吾のことがすごく気にかかった。沢口の言葉が胸に鋭く突き刺さり、恵人には即座に返答できるような言葉など持ち合わせていなかった。
「いいか、たった一人の兄弟がいなくなるというのは。おまえの辛さ苦しさよりも何倍も大きいんだぞ。おまえが、どんなイジメに遭っていたかは知らんが、あの子は、自殺をしたお前の弟としてもっと大きな苦しみを背負っていくことになる。それをあの小さい体に、おまえは負わせてしまった」
 恵人は、その言葉に強く打ちのめされた。恵吾のことなど何にも考えずに、自分のことだけを哀れんで自殺を選択したことを後悔した。だが一方では、姉の事で毎日いじめられていた、もうあの苦しみから逃れることができること、これから大好きな両親に、そして、その姉にも再会できる嬉しさが、複雑に心の中に混在している自分がいた。
 天国で母や父に会えない、と言っていた沢口の言葉も、内心は信じていなかった。
「僕には、どうしようもないです」
 お兄ちゃん! と声を張り上げて、不安そうな顔をして部屋を飛び出し自分を探し回っている恵吾の姿を見つめたまま、眼を潤ませ、声を落とした。
「いいか、生きているのが辛いから、自殺をしてこの世界に逃げてきたのだろうが、この世界は、おまえが想像しているようなところなんかじゃない」
 沢口がまた胸の内を見透かしているかのように、強い口調で声を飛ばしてきた。
「でも天国に行けば、幸せに暮らせるのでしょう? 僕は天国に行きます」
「俺は3か月、ここにいる。死んだ順番からすると俺が先にいくはずだが、まだこの世でさまよっている。1年経たないと、天国にいけないそうだ。だから、まあここで、気長に待つことだ。な、ここから先は長い。いや永遠だ。焦ることはない。せっかく知り合った縁だ。俺とちょっと付き合え。ここで、一人でさまようのは、寂しいぞ」
「わかりました。ちょっとだけなら」
 恵人は渋々応じた。
 恵吾の痛々しい姿を見ていると、胸が張り裂けそうで、すごく辛い。いまは、ここから一刻も早く離れたかった。直ぐにでも、ここから逃げ出したかった。
 また沢口が腕を引っ張ると、大気圏を飛び出さんばかりに空高く舞い上がった。
 恵人は、その光景に眼を見張った。東京の街が小さく見える。いや、東京だけではない。関東平野をも一望し、富士山でさえも遥か下に見下ろしている。いったい、どのくらいの高さに自分たちは浮いているのだろうか? この高さで防寒着を着けずにいたら、生きていれば凍え死んでしまうだろうが、霊なので寒さはまったく感じない。
 生まれての、いや死んで初めての体験にひどく驚きながら、富士山の頂から西側の景色に視線を向けると、故郷がある東海地方の遠景が瞳に映った。
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