キノッピ 21
文字数 2,856文字
せっかく広めの駐車場もあって、人もいなさそうな蕎麦屋をみつけたのに、まひるってば
「大丈夫。あたしたちは車で待ってるから、キノッピ食べて来て」
の一点張り。
推しを置いて一人で食べに行けるわけないでしょ。
アンセラフィムの3人、お腹もすいたろうし、おトイレだって行きたいんじゃないの? って。
まひるはまだしも、コトコトとアヤネちゃんは昨日の晩からずっと段ボールで仕切りをした後部座席にこもりっきり。
少しストレッチしたほうがいいと思うんだけど。
言ったとて聞いてはくれなさそうだったから、コージに教わった町のはずれの一軒家に直行する。
まず近所の農家の大家さんのお宅へ寄る。
借家の鍵を貰うためだ。
ソバ畑の中を突き進み、林の道に折れてさらにくねくねとした村道を走る。
地図ではここらのはずだがと前方を注意して見ていると、赤い屋根のサイロが見えてきた。
HONDA Z 360を「辻の華農場」と看板のある、ぬかるんだ道に入れる。
揺れで頭が天井に付きそうになりながら進むと、枯れた草むらの向こうに隙間だらけの木造の建屋が見えてきた。
北海道だから大きな農場なのかと思ったが、サイロも高くなく、敷地もそれほど広そうでなかった。
手前の建屋は牛舎なのだろう、し尿の匂いが鼻を突く。
牛舎の奥に青いトタン屋根の2階建てがあって、それが母屋のようだ。
敷地には入らないで車を停める。
「待っていてください」
コージには一人と言っておいたので、ここの人にも連れがいることは知られない方がいいと思ったのだ。
玄関前に立つ。
表札は「葛巻」。大家さんの家に間違いなかった。
二重扉を開けて、中の呼び鈴を押すと、
「どうぞー」
と家の中から明るい女性の声が返ってきた。
「こんにちは、辻沢から来ました木下ともうします」
ドアを閉めたままなので、いつもより声を張る。
「ちょっと待ってねー」
独特なイントネーションの声がする。
中でドタバタと音がしてドアから出て来たのは、ぼさぼさ頭の赤毛の女性だった。
僕より一回りくらい上だろうか。もっと上かも。
「あれ? あんた誰?」
一瞬で笑顔が消えた。
「辻沢から来ました、木下といいます。沢木コージくんから連絡なかったでしょうか?」
「コーちゃん? コーちゃんなら一週間ぐらい前に連絡あったけど。で、あんたは何の用?」
警戒度マックスな感じだ。
「借家の鍵を貰いに来ました」
「借家? あーそういえば言ってた言ってた。今月だけ住みたいって人ね」
どういうことだ? コージは一週間前に連絡してて、その時僕のことを話してたってこと?
誰かと勘違いしてるのかな。
「コーちゃんの知り合いってなら、おばさん、全然余裕で貸したげる」
最初の笑顔が戻って来た。ほっとした。
「ちょっと待ってて、鍵取って来るから」
と言って扉を閉めて中に入ると、再びバタバタと音がして、
「お待たせ。えーと、木下さんね。ここにサインして。簡単な契約書。あ、住所だけでいいよ」
玄関先でピラ一枚の契約書にサインをして鍵をもらい受けた。
「コーちゃん一緒じゃなかったんだね。あんた一人?」
「一応そうですけど」
「一応って何? やだよ、大勢人呼んで大騒ぎとか」
「しません」
赤毛の女性は高笑いをして、僕の肩をバンとたたいて、
「冗談さ。あんなところで大騒ぎしたって聞こえるもんか」
と言ったのだった。
「場所分かる?」
「はい」
「電気とガスは通ってるからね」
「水は?」
「今日水道局が来るはず」
まずアンセラフィムのためにお風呂を沸かしてあげたかった。
「何時ごろ来てくれますかね。お風呂すぐ入りたいんです」
「たぶん夕方までには来ると思うけど。なんだよ昼間っからお風呂かい。都会の人は清潔好きだね」
と言って、赤毛の女性は自分の体を嗅ぐ仕草をした。
すぐに母屋に戻るかと思ったら、ずっとついて来る。
北海道の人は敷地を出るまで見送ってくれることが多いけど、今はしてほしくなかった。
そして敷地の際まで来て、
「この色男!」
と言って大笑いをした。
海中眼鏡のリアウインドの中からコトコトとアヤネちゃんがこっちを見ていた。
「すみません。親戚の姪っ子たちなんです」
「そうかい、そうかい。あんた、ずいぶんと若いおじさんだね」
バレバレのようだった。
「綺麗に使いますので」
と挨拶して別れた。
「林ん中の青い屋根の家だよ!」
気さくな大家さんでよかった。
それほど車を走らせることなく、大家さんが言っていた樺の林まで来た。
林の中の細い道を進んでクマ出没注意の看板を右に見て、傾斜をすこし登ったところに青いトタン屋根の平屋が見えた。
そこが沢木養蜂が毎年夏季に過ごす拠点の家のようだった。
「着きました」
駐車場があると聞いていたけれど、道から見てみてもよく分からなかった。
さらに庭どころか敷地が何処までかすら、分からないような土地だった。
北海道では家を塀で囲うということをしない。
それは札幌のような都会であっても同じだ。
でも、ここはせめて柵などあったほうがいい気がした。
ヒグマが平気な顔して庭を横切りそうだから。
車を敷地の適当なところに停めて玄関に向かう。
鍵を開けていると、いつの間にかコトコトとアヤネちゃんが僕の後ろに立っていた。
ドアを開けて招じ入れようとしたら、二人は僕を押しのけて中に入って行く。
やっぱりおトイレしたかったんじゃないか。
「ありがとう。あたしたち中で休ませてもらうね」
と、まひるが中に入ってドアの鍵を閉めた。
「ちょっ!」
と言ったが遅かった。締め出されてしまったようだ。
訳が分からずしばし玄関の前で考えてようやく結論に達した。
そうか、これから女子の時間なんだな。
何をするか知らないけど、僕は邪魔者ってわけだ。
中に入れてもらえるまで、家の周囲を見て回ることにする。
春早いので雑草はまだまだ生えきっていなかった。
日陰になるあたりには雪も残っている。
敷地の端の方に巣箱が幾つか積んであった。
おそらく置いて行ったものなのだろう、中に蜜蜂はいなさそうだった。
巣箱を一つ持ってみた。
かなり重い。
「これを百個とか、扱うのか」
10tトラックから積み下ろした巣箱は、ソバ畑の周囲の森に10~20個単位で置きなおす。
専用の重機などないのでそれを全て手作業で行う。
僕ならすぐ腰をやられそうだ。
それに蜂に刺される危険もある。
養蜂家ならそんなの平気だと思われがちだが、そうではない。
蜂のアナフィラキシーショックはスズメ蜂が有名だが、蜜蜂にもある。
中には子供のころに刺されて、2度目が怖くて家業を継げなくなったという人もいるそうだ。
アナフィラキシーショックとは、一度刺されて免疫が出来た人に起こるものだからだ。
コージも実はアレルギー持ちで、ショックを抑える薬を常備して作業すると言っていた。
養蜂とは、かように大変な職業なのだ。
「キノッピ」
まひるの声がした。
急いで表に回ると、雨戸をあけた部屋からまひるが手を振っていた。
まひるの笑顔がキラキラして見える。
「新居に越してきた新婚夫婦みたいじゃないかい?」
ついニワカ北海道弁が出てしまうほど、僕はアゲアゲになったのだった。
「大丈夫。あたしたちは車で待ってるから、キノッピ食べて来て」
の一点張り。
推しを置いて一人で食べに行けるわけないでしょ。
アンセラフィムの3人、お腹もすいたろうし、おトイレだって行きたいんじゃないの? って。
まひるはまだしも、コトコトとアヤネちゃんは昨日の晩からずっと段ボールで仕切りをした後部座席にこもりっきり。
少しストレッチしたほうがいいと思うんだけど。
言ったとて聞いてはくれなさそうだったから、コージに教わった町のはずれの一軒家に直行する。
まず近所の農家の大家さんのお宅へ寄る。
借家の鍵を貰うためだ。
ソバ畑の中を突き進み、林の道に折れてさらにくねくねとした村道を走る。
地図ではここらのはずだがと前方を注意して見ていると、赤い屋根のサイロが見えてきた。
HONDA Z 360を「辻の華農場」と看板のある、ぬかるんだ道に入れる。
揺れで頭が天井に付きそうになりながら進むと、枯れた草むらの向こうに隙間だらけの木造の建屋が見えてきた。
北海道だから大きな農場なのかと思ったが、サイロも高くなく、敷地もそれほど広そうでなかった。
手前の建屋は牛舎なのだろう、し尿の匂いが鼻を突く。
牛舎の奥に青いトタン屋根の2階建てがあって、それが母屋のようだ。
敷地には入らないで車を停める。
「待っていてください」
コージには一人と言っておいたので、ここの人にも連れがいることは知られない方がいいと思ったのだ。
玄関前に立つ。
表札は「葛巻」。大家さんの家に間違いなかった。
二重扉を開けて、中の呼び鈴を押すと、
「どうぞー」
と家の中から明るい女性の声が返ってきた。
「こんにちは、辻沢から来ました木下ともうします」
ドアを閉めたままなので、いつもより声を張る。
「ちょっと待ってねー」
独特なイントネーションの声がする。
中でドタバタと音がしてドアから出て来たのは、ぼさぼさ頭の赤毛の女性だった。
僕より一回りくらい上だろうか。もっと上かも。
「あれ? あんた誰?」
一瞬で笑顔が消えた。
「辻沢から来ました、木下といいます。沢木コージくんから連絡なかったでしょうか?」
「コーちゃん? コーちゃんなら一週間ぐらい前に連絡あったけど。で、あんたは何の用?」
警戒度マックスな感じだ。
「借家の鍵を貰いに来ました」
「借家? あーそういえば言ってた言ってた。今月だけ住みたいって人ね」
どういうことだ? コージは一週間前に連絡してて、その時僕のことを話してたってこと?
誰かと勘違いしてるのかな。
「コーちゃんの知り合いってなら、おばさん、全然余裕で貸したげる」
最初の笑顔が戻って来た。ほっとした。
「ちょっと待ってて、鍵取って来るから」
と言って扉を閉めて中に入ると、再びバタバタと音がして、
「お待たせ。えーと、木下さんね。ここにサインして。簡単な契約書。あ、住所だけでいいよ」
玄関先でピラ一枚の契約書にサインをして鍵をもらい受けた。
「コーちゃん一緒じゃなかったんだね。あんた一人?」
「一応そうですけど」
「一応って何? やだよ、大勢人呼んで大騒ぎとか」
「しません」
赤毛の女性は高笑いをして、僕の肩をバンとたたいて、
「冗談さ。あんなところで大騒ぎしたって聞こえるもんか」
と言ったのだった。
「場所分かる?」
「はい」
「電気とガスは通ってるからね」
「水は?」
「今日水道局が来るはず」
まずアンセラフィムのためにお風呂を沸かしてあげたかった。
「何時ごろ来てくれますかね。お風呂すぐ入りたいんです」
「たぶん夕方までには来ると思うけど。なんだよ昼間っからお風呂かい。都会の人は清潔好きだね」
と言って、赤毛の女性は自分の体を嗅ぐ仕草をした。
すぐに母屋に戻るかと思ったら、ずっとついて来る。
北海道の人は敷地を出るまで見送ってくれることが多いけど、今はしてほしくなかった。
そして敷地の際まで来て、
「この色男!」
と言って大笑いをした。
海中眼鏡のリアウインドの中からコトコトとアヤネちゃんがこっちを見ていた。
「すみません。親戚の姪っ子たちなんです」
「そうかい、そうかい。あんた、ずいぶんと若いおじさんだね」
バレバレのようだった。
「綺麗に使いますので」
と挨拶して別れた。
「林ん中の青い屋根の家だよ!」
気さくな大家さんでよかった。
それほど車を走らせることなく、大家さんが言っていた樺の林まで来た。
林の中の細い道を進んでクマ出没注意の看板を右に見て、傾斜をすこし登ったところに青いトタン屋根の平屋が見えた。
そこが沢木養蜂が毎年夏季に過ごす拠点の家のようだった。
「着きました」
駐車場があると聞いていたけれど、道から見てみてもよく分からなかった。
さらに庭どころか敷地が何処までかすら、分からないような土地だった。
北海道では家を塀で囲うということをしない。
それは札幌のような都会であっても同じだ。
でも、ここはせめて柵などあったほうがいい気がした。
ヒグマが平気な顔して庭を横切りそうだから。
車を敷地の適当なところに停めて玄関に向かう。
鍵を開けていると、いつの間にかコトコトとアヤネちゃんが僕の後ろに立っていた。
ドアを開けて招じ入れようとしたら、二人は僕を押しのけて中に入って行く。
やっぱりおトイレしたかったんじゃないか。
「ありがとう。あたしたち中で休ませてもらうね」
と、まひるが中に入ってドアの鍵を閉めた。
「ちょっ!」
と言ったが遅かった。締め出されてしまったようだ。
訳が分からずしばし玄関の前で考えてようやく結論に達した。
そうか、これから女子の時間なんだな。
何をするか知らないけど、僕は邪魔者ってわけだ。
中に入れてもらえるまで、家の周囲を見て回ることにする。
春早いので雑草はまだまだ生えきっていなかった。
日陰になるあたりには雪も残っている。
敷地の端の方に巣箱が幾つか積んであった。
おそらく置いて行ったものなのだろう、中に蜜蜂はいなさそうだった。
巣箱を一つ持ってみた。
かなり重い。
「これを百個とか、扱うのか」
10tトラックから積み下ろした巣箱は、ソバ畑の周囲の森に10~20個単位で置きなおす。
専用の重機などないのでそれを全て手作業で行う。
僕ならすぐ腰をやられそうだ。
それに蜂に刺される危険もある。
養蜂家ならそんなの平気だと思われがちだが、そうではない。
蜂のアナフィラキシーショックはスズメ蜂が有名だが、蜜蜂にもある。
中には子供のころに刺されて、2度目が怖くて家業を継げなくなったという人もいるそうだ。
アナフィラキシーショックとは、一度刺されて免疫が出来た人に起こるものだからだ。
コージも実はアレルギー持ちで、ショックを抑える薬を常備して作業すると言っていた。
養蜂とは、かように大変な職業なのだ。
「キノッピ」
まひるの声がした。
急いで表に回ると、雨戸をあけた部屋からまひるが手を振っていた。
まひるの笑顔がキラキラして見える。
「新居に越してきた新婚夫婦みたいじゃないかい?」
ついニワカ北海道弁が出てしまうほど、僕はアゲアゲになったのだった。