まひる 2

文字数 1,818文字

 すでに日は落ちて、白銀の世界は暗灰色へと変わりつつあった。行く先に地面をぼうっと照らすように横切っているものが見える。それは、これまでも何度も出会った光景で、必ずそこには比較的大きな舗装された道があった。そこだけ雪が薄く積もっているためにかえって目立って見えるらしい。
 先程からずっとアヤネが小さく唸っている。それに呼応するようにコトハがくぐもった声で唸り続ける。彼女たちは本能に呼びかけるそれを確実に感じている。あたし達がずっと探してきたあの匂いがこの横断する道線に沿って続いている。どういうことなんだろう。
 道の上は雪の粒が風に煽られサラサラと音を立てながら流れていた。そこを幾重にも重なり絡み合いながらその匂いは存在を主張していた。それはそれぞれに違う濃度で、一つ一つに時間が刻まれているようだった。薄いのは過去の、濃いのは直近のといったように。その中に、明らかについ今し方できた強い匂いがあった。それは左手の街から来て、右手の雪原の彼方に続いていた。アヤネとコトハは、すでに右に向きを変えている。そちらに行けばこの絶望的な空腹から開放されるのだと、彼女たちは察知したのだ。

 ブリザードもおさまってきていたけれど、この道を通る車は一台もなかった。道に出てからずいぶんと歩いて来た。もしかしたら、いつもの幻覚だったかもしれないと思い始めたとき、アヤネがピタリと歩みを止めて鼻を天に向けた。コトハもまた同じようにすると鼻を鳴らし匂いを嗅ぎだした。そして、再び歩み出すと舗装した道を外れ道脇に広がる雪原の中の微かに盛り上がった場所を進みだした。
 そこはおそらく農道で、うっすらと新しい轍を確認することができた。そしてあの匂いが排ガスの匂いと一緒になって、その先に黒々と見える森へと向かっていた。

 森に入ってしばらく行くと、少し広くなった場所に出た。そこにエンジンを掛けたままのトラックが停まっていて運転席からは光が漏れていた。中に人がいるようだ。
 アヤネとコトハをトラックの背後にとどめて、あたしが運転席を覗いてみることにした。
 運転席のドアの踏み台に足をかけて中を覗くと、若い男が助手席のドアに凭れて目をつぶっているのが見えた。窮屈そうに首を折り曲げたその男は、寝ているかに見えたがそうではないようだった。白目を剥き、口から泡を吹いていたからだ。生きているのかもはっきりとしない様子なのだ。突然その若い男の体が不自然に揺れた。そして左の腕がフロントガラス側にだらりと垂れた。それにつられたように目の前の何かが動きだした。手前にもう一人いたのだった。その人間はうつ伏せた状態のまま若い男の上半身にずり寄ると、その頬を両手で支えて顔を近づけ、念入りに舐りだした。呆れるほど執拗な舐め回しが終わると、垂れた若い男の腕を胸に戻し、再び下半身に戻って蹲った。
 その人間が何をしているのかを察して、ひとまず二人のもとに戻ろうとトラックから飛び降りた刹那、窓ガラスが割れる音がしてこちら側の窓一面が血飛沫に染まった。血の匂いが辺りに広がる。しかしその匂いはあたしたちの求めるものではなかった。
 あたしはすぐに何が起こったか悟った。ドアを力任せにこじ開けてでも、もう一人が同じようになるのを止めなければならない。何故なら彼こそはあたし達が求めていた匂いの主だから。その血に古里の辻沢を記憶している者。あたし達の飢えを癒やす者だったから。
 骸となった男と若い男とを車外に引き摺り出して、若い男を雪で洗いながら傷の有無を調べた。どこにも傷はないようだ。もう一人の太った男を見るとこっちは首がなくなっていた。
 どうしてアヤネが太った男だけ襲ったのか。それはヒグマの習性を考えればわかる。ヒグマが人を襲うのは、危険が迫った時と縄張りを荒らされたときだ。アヤネとコトハはオホーツクの海から上がって、ずっとこの若い男が発する匂いを追い求めてここまで来た。二人にとってこの若い男は自分の所有物なのだ。アヤネは所有物が簒奪されると認識した。だから原因を排除したまでのことだったのだ。
 理屈を言ったところで彼女らの興奮を収められる訳ではない。さらなる激情が二人を支配したら歯止めなど利かなくなる。こちらも本気を出さざるを得ず、少々手荒いことをしてしまった。
 シラカバの根元で男の首を手に下げたまま、アヤネがこちらを見ながら震えているのはそのせいだ。ゴメンね、アヤネ。
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