第3話「献血募金」

文字数 3,043文字

 早朝、呼び鈴が鳴った。

 『左団扇(ひだりうちわ)』の騒ぎは昨日の今日で、亜緒(あお)蘭丸(らんまる)もろくに寝ていない。(しばら)く放っておいたが、何時(いつ)まで経っても呼び鈴は鳴り止まないので、仕方なく蘭丸は玄関の鍵を開けた。

「おはようございます。蘭丸様」

 扉の向こうではノコギリが笑顔で立っていた。が、その笑顔は形式上のものだとすぐに分かるほど不自然に硬い。

「これは桜子さん。こんな朝早くから何用ですか?」

「火急の用件ですので、取り()えずお邪魔させていただきます」

 云いながらノコギリは履き物を乱暴に脱ぎ捨てると、慎ましい広さの『左団扇』を早足で歩き回る。

(ぬえ)! いるのでしょう? 出てきなさい!」

「桜子さん、まだ朝も早いですし近所の迷惑にもなります。大声は控えてもらえると助かるのですが」

 ノコギリは蘭丸を見た。その水色の瞳には怒りの炎が静かに揺れている。

「鵺は何処(どこ)にいるのですか?」

「たぶん二階の、亜緒の布団の中でしょう」

 言葉が終わるのを待たずにノコギリは階段を荒々しく踏みしめながら上がっていった。

 蘭丸は軽いタメ息をつくと、火鉢に火を入れた。

 ノコギリの来訪の理由は察しがつく。亜緒の右目についてだろう。もっと云えば、雨下石(しずくいし)家の跡目の件だ。

 やはり次期当主の問題が(こじ)れているのだろう。

 片目を失った亜緒に、まだ次期当主の資格があるのかという問題。そうでなくとも、今まで面倒ばかりを起こす次期当主様だったに違いない。

 心配になって蘭丸が二階へ上がると、亜緒の部屋から激しい音が一つ、鳴り響いたところだった。

 ノコギリが鵺の頬を引っ叩いたのだ。

「鵺、貴女(あなた)が憑いていながらこの失態は何事ですか!」

 鵺は黙っている。何も云い返さないで何処かをただ、見つめている。

 亜緒は布団から上半身を起こしたまま、右目の眼帯に手を置いていた。

 二人ともに、今回のことは自分のせいだと考えているのだ。己の力が足らなかったと。ただ一心に自分を責めている。

「何とかお云いなさい!」

 ノコギリが二度目の手を上げた途端、蘭丸がその細い腕を止めた。

「少し落ち着いたほうが宜しいのでは? 鵺には鵺の云い分というものもありましょう」

「分かりました……鵺、弁解があるなら聞きましょう」

 蘭丸の手を振りほどくと、毅然とした態度でノコギリは襟元を正してみせた。

「弁解なんて、無い」

 ――え? 無いの?

 蘭丸は一瞬、自分が恥ずかしくなった。分かっていたことだが、雨下石家の事情は蘭丸とは無関係の場所にある。余計な口出しは無用と思っていたのだ。

「ノン子、今回のことは僕自身が招いた結果だ。鵺に当たるのは()せ」

「でも兄様、鵺は兄様を御守りするために憑いているのですよ? これでは雨下石家に(まつ)られている意味が無いではありませんか!」

 ノコギリは怒っている。大事な兄の右目が失われたこと。それを阻止できなかった鵺の失態。そして亜緒が次期当主の座から降ろされるかもしれないことに。

「もしかして分家の連中が動いているのか?」

 ノコギリは深刻な面持(おもも)ちで頷いた。

「兄様に資格無しとして父様に詰め寄っていますわ」

「展開がヤバイな。瑠璃姫(るりひめ)が出張ってこなければいいけど……」

 瑠璃姫の名が出た途端、鵺は急いで外出着に着替えると外へ出て行ってしまった。

 ここまで話が深刻になると、さすがに蘭丸の出る幕は無い。

「俺は鵺の様子を見てくる」

「すまんな蘭丸。手間を掛ける」

「謝るくらいなら、シッカリしろ。次期当主がいつまでも腑抜(ふぬ)けているな」

 不器用な友人の励ましに、亜緒は上手く表情を作れなかった。

 結局のところ、二人とも素直な感情を表に出すのが苦手なのだ。



 午前も終わろうかという頃、月彦は橋の上で足を止めた。

 (あや)が入院している病院へ見舞いに行く途中だったのだが、美しいヴィオロンの独奏に耳を奪われたのだ。

 クライスラーの「愛の悲しみ」。

 曲名の通り、哀愁の旋律が何処か人の情緒の奥に触れてくる。難しい技法を必要としないが、名曲である。

 奏者が曲の終わりに挨拶をすると、月彦はその演奏に盛大な拍手を送った。

大袈裟(おおげさ)ですよ。貴方(あなた)……」

 伯爵は照れ臭そうに頭を掻いた。事実、立ち止まって演奏を聴いていたのは月彦だけだ。皆、音楽の隙間を通り抜けていく。

謙遜(けんそん)ですね。こんな素晴らしい演奏に出会えるなんて、今日のボクは運が良い」

 月彦の言葉に、また伯爵の表情が(やわ)らぐ。

「私はエンペラー=トマトケチャップといいます」

(かすみ) 月彦です」

 不死者と不死の妖刀使いは互いに握手をした。

 演奏者の後ろには(あけ)色の着物を纏った若い派手な剣客が、冷たい煉瓦(れんが)道に腰を下ろしている。端正な顔立ちの、長い白髪の間から覗く眼光は鋭い。

 ――獅子丸(ししまる)くんがいるということは、彼が群青(ぐんじょう)くんの云っていた吸血鬼ですね。

 随分と若い。というのが月彦が伯爵に抱いた印象だった。

 爵位など老人のイメエジがある。不死の者の(とし)を数えてみても始まらないが、外見は獅子丸と然程(さほど)変わらない。二十歳(はたち)前後といったところだろうか。

 その久遠(くおん) 獅子丸は月彦と目が合うと、軽く会釈をしてみせた。月彦も張り付いた笑みで応じるが、彼にとって笑顔は感情の発露を伝えない。ただの飾りだ。

 月彦と伯爵の間に目つきの悪い痩せた金髪の少女が割り込んできた。

「献血のための募金……に、協力をお願いします」

 月彦は一円紙幣を取り出すとソルト・アンの持つ箱の中へと落とし込んだ。

「ありがと……ございます」

 愛想の無い顔で一睨(ひとにら)みすると、少女は白い看護服のスカアトの(すそ)を揺らしながら後ろへと下がった。

 獅子丸が小さく舌打ちをする。

 月彦がその気ならば、二人で吸血鬼を倒しても良いと思っていたのだ。『名残狂言(なごりきょうげん)』と『月下美人(げっかびじん)』ならば、確実に勝てる。が、どうにも伯爵と月彦を繋ぐ空気からは殺気が微塵も感じられない。

 ――月彦さん、(なご)んでる場合じゃねぇ! 目の前にいる優男(やさおとこ)の正体に気づいていないのか?

 獅子丸は妖刀に掛けた手を静かに下ろした。彼は伯爵の命を取る機会を(うかが)っているのだが、従者の少女が邪魔で手が出せないでいるのだ。

 つまり吸血鬼が無茶をしたら、獅子丸が止められるのは相打ち覚悟でどちらか一方だけなのである。

 月彦がソルト・アンを押さえてくれれば、その隙に獅子丸はエンペラー=トマトケチャップを討てるのだ。が、今回は無理そうだ。

 己の置かれた立場が歯がゆい。

「まぁ、機会はまた()らぁな」

 ソルト・アンの視線が獅子丸の独り言に反応した。
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