第34話「木霊への礼のこと」~公演、左団扇の壱~

文字数 3,287文字

 淹れたてのコーヒーが注がれたカップが蘭丸(らんまる)の前に置かれた。陶器独特のどこか温もりある柔らかい静かな音は蘭丸の心を落ち着かせた。

「悪いがミルクも砂糖も此処(ここ)には無い」

 蘭丸はコーヒーをあまり好かないので手をつける気にはなれない。が、香りは好きだ。それに、彼は此処へお茶を飲みに来たわけではなかった。

 亜緒は鼻歌交じりでハムサンドとゆで卵の包みを開けながら、ささやかな昼食に手を付け始める。

「近くの喫茶店で包んでもらったんだ。蘭丸(キミ)もどうだい?」

「俺はもう昼飯は済ませた。それよりも君は俺のことを名前も含めてよく知っているようだな」

「もちろん知っているさ。君はこの業界では有名人なんだぜ。妖刀使いになって三日も経たずに百鬼夜行を全滅させる狂ったヤツなんて、滅多にいるもんじゃない」

 そのせいで『(あやかし)殺し』などという不名誉な通り名まで付いてしまったのだ。

「それより貴方(あなた)も名乗ってほしいものだな。礼儀は大事だろう?」

 髪と瞳の色から雨下石(しずくいし)家の人間だということは分かるが、蘭丸から見ればそれ以外は得体が知れない人物だ。

「ああ、まだ言ってなかったか。僕は雨下石(しずくいし) 亜緒(あお)。この左団扇(ひだりうちわ)の、まぁ主宰者であり公演者でもある」

 よく分からない。

 公演とか主宰とか、この青年は演劇でもやるつもりなのかと蘭丸は不安になる。

「此処は妖怪退治屋で良いんだな?」

 念を押す。

「それでいいよ。どっちもたいして変わらない」

「では相談がある。俺の依頼人の件で恐縮なのだが――」

 蘭丸は桜見物に行って抜け殻になってしまった少女の件を話した。本当は守秘義務があるから、禁則事項に触れている。

「うつろ舟? まくら返しの(たぐい)かな……」

「心当たりがあるのか?」

「魂を()るという妖怪なら居ることは居る。河童(かっぱ)なども似たようなことをするしな」

 蘭丸は青年に感心した。雨下石の名は確かに伊達ではないようだ。

「でも桜というのが引っ掛かるな」

「どう引っ掛かるんだ?」

「それは本当に妖怪の仕業なのかということさ」

 亜緒は眉根を寄せながらコーヒーカップに口をつけた。納得がいかないという口振りだ。

「医者も、家の者も妖だと言っているのだがな。正直、俺にはお手上げなんだ」

 情けない話だと蘭丸も思っている。しかし、優先すべきは自分の恥より少女の人生だ。

「ふん……これは実際に本人を()てみるのが手っ取り早いかな」

「力を貸してくれるのか」

「それは被害者を視てから決める」

 二人は(ぬえ)を留守番に残して教室を出た。

「表門から出ないのか?」

 蘭丸が此処へ来た通路と違う。

「抜け道があるんだ。それに、こっちからのほうが近いんだろう?」

 程なくして桜並木に出た。蘭丸の依頼人が住む屋敷の近くだ。

 何故、目の前の青年が自分よりも先頭を歩けるのか蘭丸には不思議でならない。依頼人の住所は教えていないはずである。それでも彼の足は正確に依頼人の(もと)を辿ってゆく。(はなは)だ不可解であるが、そこは雨下石なのだろうと無理やり納得することにして、蘭丸も後に続いた。

「さっき桜がどうとか言っていたな」

 薄桃色の、雲のような霞を見上げながら蘭丸が問う。

「桜は人を惑わす花だからな。(あた)る者もいるという話さ」

 歓喜、哀愁、興奮、郷愁、そして狂気。あらゆる人の感情を揺さぶる花なのだという。蘭丸にはよく分からない。

「そういえば、守衛が文句を言っていたぞ」

 勝手に教室を私物化していることを良く思っていない(やから)もいるのではないかと告げると、青い髪の青年は青い瞳をあどけなく揺らしながら笑うのだった。

「大丈夫。そういう連中には、あの教室を見つけられないように細工してある」

 そういう問題ではあるまいと蘭丸は呆れた。

「この桜が丁度良さそうだ」

 亜緒は道の途中で立ち止まると懐から塩と酒が入った小瓶を取り出し、根元の四隅にそれぞれを少量ずつ撒いてから手を合わせた。それから小振りの枝を折り取ったのだ。

「おい、桜の枝を折っちゃあ――」

「いいんだよ。今回はコレがどうしても必要になるんだ。それに、桜にはちゃんと許可を貰った」

 先ほど撒いた塩と酒のことを云っているのだが、蘭丸は樹木に対するお清め供養の礼を知らないから、やはり混乱した。

 蘭丸はこの青い髪と瞳の青年に対して困惑するばかりである。雨下石の者に対する蘭丸のイメエジはどうしても浅葱(あさぎ)の印象が先に立ってしまうので、亜緒の言動はかなり奇抜なものに映る。

 雨下石家は変わり者が多いと彩子(さいこ)は言っていたが、中でもこの青年はその傾向が特に顕著(けんちょ)であるのかもしれない。大学側が煙たがる理由も分かる気がした。

 そうこうしている内に依頼人の家へと着いた。

「大層な屋敷じゃないか。これはかなりの成功報酬をふんだくれるかもな」

「待て待て。ここからは俺よりも先を歩くな」

 亜緒は不思議そうな表情で振り返った。

「家人が驚くだろう。()ず俺が紹介をする」

 妖刀使いはともかく、普通の民間人は雨下石家の名は知っていても、実際に会うことは(ほとん)ど無い。依頼には大金を取るし、彼ら自体広大な敷地から外へ出ることも滅多に無いからだ。

「それじゃ、そこんところは蘭丸先生に任せるよ」

 亜緒は桜の枝を左右に振ると、音も無く蘭丸の後ろについた。

「御免!」

 蘭丸の声には、いつもより自信のような張りが乗っている。今回は雨下石という頼りになる協力者がいるせいだ。

 今までは依頼人に対して力になれない自分の不甲斐(ふがい)なさを情けなく思い、なにやら得体のしれない後ろめたさを感じていたのだった。

「こちらは雨下石家の(ゆかり)の者です」

 玄関口で家主に変わった連れを紹介する。

「雨下石というのは、あの雨下石で?」

 中年男性は小さな目を大袈裟に丸くさせながら、繁々(しげしげ)と亜緒を見た。

「今回は特別にお嬢さんを視てくれるらしく、同行をお願いしました」

「まぁ、視るだけで何もしないかもしれないので御気になさらず。期待もなさらず……」

 亜緒は桜の枝先から零れるように咲く花で顔を半分隠しながら言った。薄笑いを浮かべているようにも見える。

「はぁ……」

 (ほう)けたような相槌(あいづち)を打ってから、ご主人は二人の客を家へと上げた。

「随分と御立派なお住まいですね。失礼だがご職業は何を?」

「ウチは造船業やってましてな。世界戦争では随分と儲けさせていただきました」

 世界戦争が第一次世界大戦と名称を変えるのは昭和以降のことである。二次が起こっていなければ、一次も無い。

「戦争景気も終わって、今ではカツカツですわ」

 男に余計なことを口にしているという自覚は無かった。湖面(こめん)のように深く澄んだ瞳に見つめられて、言わされている。

 亜緒にとって霊力の無い者は、意思の無い人形に似ている。操り糸を掛けることも容易い。

 男はふらふらと頼りない歩みで廊下を歩き、奥の襖を開けた。

 座敷には十代後半といったところだろうか。年頃の女性が布団の中で、ただ寝ている。

「死臭……」

 亜緒の(つぶや)いた一言は、その場の誰の耳にも届かなかった。独り言だ。

「どう視る? 雨下石」

 蘭丸が訪ねると、亜緒は少女に近づいて桜の枝を数回振った。すると花びらが座敷中に舞って、季節外れの風花(かざはな)となって踊る。

「なるほど。これは厄介だ」

 薄桃色の幕の向こうに見えた光景を、亜緒は鋭い視線で(にら)みつけた。
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