第18話「凪の情景」

文字数 2,967文字

 教室内の静けさを引き裂くように、派手な音が転がった。

 鬼が何とか立ち上がろうとしがみついた机が、不安定な力の掛け方によって倒れたのだ。

(るい)の奴め! あれほど(かすみ) 月彦(つきひこ)には気をつけろと言っておいたというに」

 他愛の無い独り言が牙の間から漏れる。

(かす)っただけでも『月下美人』ならば充分に致命傷です。(すで)に意識が虚ろでしょう?」

 存在の根源である魂に直接傷を付けられたのだ。肉体と違って修復することは無い。

「妖刀の操り人形め!」

 鬼が投げつける負け惜しみは月彦の耳に引っ掛かることなく、虚しく滑って消えてゆく。

「眠るように死ねるんですから、貴女(あなた)はツイていますよ……」

 祈るように囁く。

 最早(もはや)、決着は着いた。

 鬼が消えて無くなっても、しかし誄が元に戻ることはない。彼女の心はもう何処にも無いのだから。

 肉体は生きているのに、心は壊れたままの状態になるだけだ。

「ボクと逆ですか……」

 月彦は目の前の鬼、というよりも小山内(おさない) (るい)を無力な笑顔で(あわ)れんだ。

「おーい、月彦。状況はどうだい?」

 勢いもよく扉を開けて、青い髪と瞳を揺らしながら無邪気そうな青年が教室へと入ってきた。

亜緒(あお)くん、遅いですよ。今まで何をしていたんですか?」

 遅刻してきた生徒に呆れる教師のような口調だ。

「ちょっと野暮(やぼ)用で三途の川まで」

「はぁ?」

 突拍子も無い亜緒の言動にも、月彦はもう慣れてしまった。慣らされてしまったと云ったほうが的を得ているのかもしれない。

 雨下石(しずくいし)家の嫡男(ちゃくなん)なら、今更ながら何でもありな気もする。

「それに、君が負けるわけないのは分かっていたことだしね」

「やはりバレていましたか。ボクの秘密……」

 雨下石家の慧眼(けいがん)(あざむ)くことは出来ない。所詮、時間の問題だったのだ。

 少しだけ俯くと、月彦から小さなため息が出た。

 既に死んでいるのに動き回る自分は、バケモノと比べてどれだけの差があるというのか。

 別に今の自分に不満があるわけでは無いし、引け目を感じているわけでもない。

 ただ、人の営みの中に混じって、死なない体で動き、笑わない笑顔で笑い、心無い言葉を紡ぐ。

 そんな自分を滑稽だとは思う。

「顔を上げろよ霞 月彦。胸を張れ。君は紛れも無く人間だ」

 亜緒が月彦の肩を叩く。

「僕から見ればね」

貴方(あなた)と比べられてもねぇ……」

 困ったような、そんな表情で月彦は笑った。

 作り物ではない。心の底から湧き上がる衝動のままに笑ったのは、何年ぶりのことであったか。

 自分の中に眠る感情というものが未だ鮮度を保ち、擦り切れていないことに月彦自身が驚いていた。

 その寸瞬後、月彦の視界の枠の中で死が横切って行く。

 不吉で禍々しい影。

 鬼が亜緒の喉笛めがけて爪を伸ばす。せめて一矢を報いようとする執念の一撃だった。

 それは突然の嵐のようで、月彦が刀の柄に手を掛けるよりも(はや)く過ぎてゆく。

 鬼の狙いは亜緒だ。死なない月彦を相手にしても意味が無い。

 しかし鋼鉄をも裂く十本の凶刃はことごとくいなされ、流されて青い髪の一本にさえ触れることは叶わなかった。

 雨下石流柔殺術の体捌きの一つ『(なぎ)』。

 動くもの全てには、空気の中を泳ぐ流れが生じる。

 全ての動作は動きの連続で繋がっていて、途中で消えることはありえない。

 自身に迫るあらゆる動きの流れを見切って避ける特殊な体術。

 突出した空間把握能力と動体視力、瞬発力、筋力、反射神経、そして数秒先を視知る慧眼。

 それら全てが一体となって成り立つ、『凪』は防御を必要としない絶対防御だ。

 亜緒は『凪』の流れの中で鬼と目が合った。

 (わず)かに小山内 誄の面影を見た気がした。

 あの、瞳の中の夢見がちな光が頼りなげに揺れている。

 それでも躊躇(ためら)い無く、間髪入れずに鬼の脇腹に掌底を叩き込む。

 雨下石流柔殺術『渦潮』。

 肋骨の全てが砕ける音と共に鬼の体は教室の壁を突き破って、廊下の壁にぶち当たり床を何度か激しく跳ねてから(ようや)く止まった。

 鬼が亜緒に襲い掛かってから、ここまで三秒も経っていない。

 全ては鬼と亜緒の間で交わされたスローモーションの世界での出来事であり、月彦からすれば一瞬の刹那(せつな)だ。

「詰めが甘いなぁ。月彦、最強の妖刀が泣くぞ」

 月彦から感嘆の声が上がるが、そこに驚きは無い。

 雨下石家の嫡男ならば、そのくらい出来て当然といった思いがあるからだ。

「トドメ、刺しますか?」

 月彦が刀の柄に手を伸ばす。

「いや、手向けの花は僕らには重すぎる」

 亜緒だって、気を遣うこともあるのだ。

 後は任せよう。死の淵から帰ってきた黒衣の剣客に。

「で、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか?」

「何の話だ?」

 亜緒が惚けたように月彦から視線を逸らす。

「ボクを今回の鬼退治に参加させた理由です」

「そりゃあ、今回のヤツは月彦抜きでは倒せなかったからさ」

「果たして、それは本心でしょうか?」

 確かに『月下美人』でなければ(おぬ)にカタチを与えることは出来なかったかもしれない。

 しかし、カタチが無ければ無いで雨下石(しずくいし) 亜緒(あお)(みぎわ) 蘭丸(らんまる)なら何とかしてしまったのではないか?

 そんな気がして月彦は納得がいかなかった。

「まさかボクに鬼と刃を交える経験を積ませたかった。なんて理由じゃないでしょうね?」

「なんだそりゃ。月彦は鬼と()るのは初めてだったのか?」

「恥ずかしながら」

 名前無く、姿形も無く、人の中に隠れている鬼などたかが知れている。

 名前のある鬼はもっと賢く(したた)かだ。術を使い、妖刀にも引けを取らない武器を持つ。

 妖刀を持つ者ならば、本人の意思とは無関係にいずれ()り合う日が必ず来る。

「だったら、良い経験になっただろう?」

 確かに「妖退治」と「鬼退治」では随分と勝手が違った。

 『月下美人』を受けても(なお)、あれだけ動ける身体能力の凄まじさと精神力のしぶとさは脅威だ。

 重い精神的圧迫感と、僅かな油断が致命的となる戦い。

 月彦が今回の鬼退治で学んだことは多い。

「貴方という人は、何というか本当に良く分からない……ですね」

 月彦に鬼退治の特殊性を教えたかったのか。

 それとも、単にラクをしたかっただけなのか。

 やはり血は争えない。雨下石 群青(ぐんじょう)と同じやりにくさを月彦は亜緒から感じる。

 苦手なようで、嫌じゃない。という奇妙な感情。

 そして、あれだけ不平不満を言いながらも蘭丸がこの青年と一緒にいる理由が何となく分かった気がして、月彦は少しだけ羨ましかった。
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