第7話「瑠璃姫さま」
文字数 5,251文字
黒い太陽といえども光は射す。屋敷の向きや窓の位置次第では、充分に家の中を明るくすることは出来るのだ。が、雨下石家に至っては、そういうことをまるで考えて家を建てていない。
暮らしやすさよりも方位を第一に考えた造りをしているからだ。
例えば怨霊や魑魅魍魎などの災いが出入りする方角である天門(北西)からの通路を塞いだり、
未だに電灯を使わないのも、闇を支配する一族ならではの昔からの習慣である。もっとも、彼らは闇の中でも辺りを昼のように見ることができるから困らない。
水色の瞳を持って生まれた二人を除いては。
その内の一人、雨下石 ノコギリは奥座敷で首を捻っていた。
彼女の前には方角を示す文字盤の台座が置かれていて、その上には漆塗りの小さな木片が十二ほど散らばっている。それぞれに十二支を象徴する絵が彫られていて、彼女はその木片の裏表や角度で対象者の居所を探る
「やはり、何度やっても結果は同じです」
雨下石
「こんなことって……」
ノコギリの千里眼は一度も外れたことがない。となれば文字通り、群青は今この世には居ないのだろう。不可思議であるが、事実ということになる。
「もういい、ノコ。おそらく何度やっても兄上の行方は分からないだろう」
雨下石
――当主が不在であっても、吸血鬼ごとき何とかしてみせろということなのだろうな。兄上らしいといえば
そもそも妖退治の
「桜!」
浅葱に名を呼ばれて一体の
「『
言葉が終わるやいなや、死装束の自動人形は足音も立てずに座敷から消えた。
「兄様を呼ばれるのですか?」
ノコギリの声音には期待の色が揺れていた。
「アレでも今のところは、まだ次期当主には違いないからな。ここは当主代行として雨下石家を
逆に浅葱の声は溜め息
「師匠、もしかして
「それもあるが、もう一つ気になることがある」
今、東京には吸血鬼がいるのだ。黒い太陽の下で昼夜関係なく動き回る最強の
瑠璃姫が絡む次期当主問題と並んで、浅葱には頭の痛くなる事案である。
「ここは亜緒にも骨を折ってもらわないと
浅葱が腰を上げると、同時に
「ノコ、少し私に付き合ってくれ。見せたいものと聞かせたいことがある」
雨下石家の敷地は広大だ。広い
普通の人間が入ったら、迷った
そんな異界を平然と散歩している浅葱とノコギリも、やはり
「私に見せたいものとは何ですか?」
「座敷牢に封印されている妖達だ」
「何のために?」
「念のために」
ノコギリは石畳を浅葱の背を見つめながら歩く。冷たい風が頬を撫でてゆくと、
座敷牢に封印されているのは、どれも歴史に名を残す大妖怪だ。出来ることなら近づきたくはない。
「聞かせたいことというのは?」
「今、東京に吸血鬼がうろついている。名はエンペラー=トマトケチャップ。ノコがムンク展で出会った青年だ」
「彼が……吸血鬼」
展覧会で出会ったオリーブ色の髪をした物腰の柔らかい紳士の、おどけたような笑顔が脳裏に浮かぶ。
「そいつがお前を狙っているらしいと監視を任せている妖刀使いから情報が入った」
浅葱は四季の花の名が付けられた四体の女人形を連れているが、そのうちの一体である
「私としてはノコを
浅葱の亜緒に対する評価は厳しい。筋は良いのに何事も中途半端で投げ出してしまう性分が気に入らないらしい。次期当主としての自覚が無いというのも大きな減点対象になっている。
「でも、兄様が来てくれれば百人力ですわよ」
一方でノコギリは亜緒という人間を信頼しているようだが、これは兄妹という絆が見せる
浅葱から見れば亜緒よりも、ノコギリのほうが余程見所があるのだが。
「まぁ、兄妹仲が良いのは結構なことだ」
二人の行く手を遮るように、突然
浅葱はノコギリの左右を二体の人形に
「相変わらず物騒な男ね。浅葱くん……」
結界を強引に破って現われたのは年齢二十代半ばの、亜緒よりも二つ程歳上の美しい女性だった。
長く伸ばした瑠璃色の髪と瞳が彼女の霊力の強さを雄弁に物語っている。年長者である浅葱に対して礼を欠いた言葉遣いが許されるのも、彼女の立場の高さゆえだ。
「瑠璃姫!」
「出来損ないの響きを探って来てみれば、厄介な護衛付きとは思わなかったわ」
瑠璃姫はノコギリを
妖刀使いの響きを感じ取ることは出来ないので、浅葱の存在は予想の外だったというわけである。
ならば、狙いは――。
「私達に何か用か?」
「
脇に控えた老婆の名は「
「
浅葱が一歩下がった。
雨下石家ではより鮮やかで深い青を得て生まれた者が尊く、偉い。
「どいつもこいつも鵺、鵺、鵺、鵺! だからこの家はどうしようもないのだわ!」
さっきまで澄まし顔だった瑠璃姫の感情が荒れる。あからさまな怒りが声とともに吐き出されるが、どんなに理不尽であっても鵺の存在は何者よりも至高というのもまた、この家ならではの絶対だ。
ノコギリは水色の視線に殺気を乗せて、荒れ狂う美麗な姫を見ていた。美しいが近寄り難い
瑠璃姫はノコギリの母親、つまり群青の妻を殺害している。動機は特に無く、殺したいから殺したというもの。つまりは気分である。
他にも一族の者を何人も手に掛け、
本来なら即死罪であるが、彼女は雨下石家の敷地内から外へ出ないという条件付きで生かされている。
普段は
「出来損ないちゃん、
ノコギリの表情は
「そんな目で私を見ないで。殺したくなるから」
「
ノコギリは瑠璃姫を言葉に乗せて吐き捨てた。
「貴女、とても良い子なのね。出来損ないのくせに、自分が人を憎んでいることに苦しんでいる。憎むことの辛さに心を痛めているのだわ」
柔らかい光が
「そんなに辛いのなら、貴女は私を許すべきよ」
「なんですって!」
瞳が怒りに揺れる。声には少し呆れた調子が混じっていた。
言葉が噛み合わないというよりも、彼女の思考の方向性が理解できない。母の仇の無神経さに、イライラした。
「貴女は私が憎いわけではないの。愛する人を、ただ純粋に愛しているだけなのよ。それはとても素敵なことだわ」
ノコギリはもう、目の前の狂女と話すことを諦めた。
「憎悪というのは愛と表裏一体なの。大丈夫、貴女が私を憎むことを止めても、愛した人は貴方の中から居なくなったりはしないから」
「貴女のお母様は、貴女が苦しむのを望んではいない。だから貴女は私を許しなさい」
「…………」
不思議な感覚だった。今まで抱えていた黒く渦巻く感情が、自分の中から消えてゆくような気がして、ノコギリは手にしていたナイフを落とした。
「ノコ、その女の言葉に耳を貸すな。
浅葱の鋭い声でノコギリが我に返る。
「余計なこと云わないで、浅葱くん!」
瑠璃姫が舌打ちする。もう少しでノコギリを人形に出来るところだったのに、その機会を失った口惜しさから出たものだ。
さて、どうしたものかと浅葱は思考する。
彼には二つの理由から瑠璃姫を斬ることが出来ない。禁止されていると
一つは亜緒が妖の人質になった場合、何の
もちろん、亜緒が居なくなれば瑠璃姫が次期当主というわけではない。鵺が憑けば別だが、こんな危険な人物を当主に据える気は雨下石家には毛頭無い。
理由の二つ目は、何らかの理由で亜緒が死んだ場合だ。
瑠璃姫は子を産むことが出来る。
役目を終えた後に彼女は死ぬことになるが、瑠璃姫もそのことは充分に承知している。
皮肉にも亜緒の生存が彼女の命を保障しているのだった。
「あーもう何だか面倒くさくなったわ。出来損ないと、浅葱くんにも死んでもらおうかしら」
冗談ごとを口にしたわけではない。瑠璃姫は
「では、婆は浅葱坊やの相手をしようかの」
老婆は
浅葱は本来ならば、藍婆に手も口も出せる資格は無いのである。しかし――。
「仕方が無い。不本意ですが、御両人ともに……」
浅葱が妖刀『落花葬送』を抜いた。無慈悲な刃の残像が音も無く、緩やかに孤を描いて冬の乾いた空気の中を水のように流れる。
掟を破った最強の剣客が、雨下石家の狂った血脈に反逆の意志を示す。
――死んでもらいます!