第1話「亜緒と鵺」
文字数 2,725文字
洋装の青年と見目麗しい少女が、白い息を滑らせながらガス灯の下を歩いている。
青年の名は亜緒 、少女の名は鵺 という。厳密には鵺というのは名前ではないが、その存在を現世 に留める役目は果たしているので問題は無い。
二人は夕食の帰りだ。蘭丸 が『左団扇 』を空 けているせいで、食事は外食に頼るしかない。
四人も一つ屋根の下に住んでいて、蘭丸がいないと飯も炊けないというのは情けない限りであるが、内二人は人外であるから仕方が無い部分もある。
亜緒にしても、およそマトモな家に生まれ育ってはいないので、幼い頃など飯というものは自然に無から生じるものと本気で思っていたくらいである。
妖 退治専門の大家 、雨下石 家は世間の常識から大きく外れた一族だ。
妖を滅するために生まれ、生き、死ぬ。秘める霊力が大きければ尊 ばれ、小さければ蔑 まれる。
亜緒は生まれたときから強い霊力に恵まれていたから、妖を調伏 するための術や技以外を基本的に教えられてこなかった。
鵺は雨下石家次期当主である亜緒を護 るために憑いている。亜緒に害を成す者は、人であろうと妖であろうと彼女が速 やかに取り除く。今 は、それが彼女の存在意義だ。
亜緒が雨下石家を無事に継いだとき、鵺は次の当主候補へと憑く。遥かな昔からずっとそうしてきたし、未来永劫そうしていく。
雨下石 亜緒の今夜の晩飯は寿司であった。ついでに云えば、昨夜は東京銀座のフランス料理店「煉瓦 亭」のポークカツレツ。昼はカフェーで洋食をいただくという贅沢ぶり。
パンの耳が常食である『左団扇』の経済事情において、蘭丸がいなくなってからの亜緒の食生活は好き放題だ。その放蕩 ぶりは少し常軌を逸 している。困窮 暮らしの反動なのかもしれない。
「なんで鵺はかっぱ巻きしか食べなかったんだ? 寿司は苦手だったっけ?」
亜緒は酒に酔った声で鵺に話題を投げた。上機嫌である。
「だって、それは……蘭丸のお金だから」
亜緒の動きがゼンマイの切れた時計のようにピタリと止まった。玉響 への土産用に包んでもらった稲荷寿司の箱詰めが冷たい煉瓦道へと落ちる。
「え? 蘭丸のお金って何? これは家の畳の下に隠してあった埋蔵金……」
「蘭丸が大切にしていた貯金の一部でしょ。師匠が残してくれた大事なお金だって云ってた」
「あ、ヤッベェ。忘れてた……」
本当に忘れていた。そもそも、仕事も無いのに金があること自体おかしいのだ。
「亜緒、調子に乗りすぎ。殺されるかもしれないよ」
――殺されるかもしれないじゃなくって、本当に殺されるのではないだろうか。
血の気が引く音というものを、亜緒は初めて聞いた気がした。
「で、でもさ。蘭丸だって血の通った人間なんだし、殺すまではしないよね」
そうに違いない。そうであってくれ。そうでなければ、困る。
しかし妖刀使いは人も斬る。亜緒の笑顔はみるみると引き攣っていった。
「運がよければ腕の一本くらいで済む……かな?」
「言葉の終わりに疑問符を付けないでくれ。余計、怖い」
蘭丸は今、師匠の墓参りへ出掛けており不在である。座卓には予 め五十円ほどが置かれていて、これは飯代として蘭丸が置いていったものなのであろう。『お釣りは返すように』との書き置きもあった。
しかし留守を良いことに亜緒は家中の引き出しや天井裏、畳までも剥がして家捜しをした。
挙句、見つけた金は二百円近くに上 った。大正十年の二百円は、現在の金額でいうと十二万円くらいになる。
その内の八十円ほどを、亜緒は豪勢な食事代に使ってしまったのだ。たったの二日間で。
一瞬で酔いが覚めた亜緒は稲荷寿司を拾いあげると、すぐに『左団扇』へと帰宅をした。
「あ~、お二人さんお帰り~」
玉響が間の抜けた声で出迎えた。彼女の声はいつも低血圧症の起き抜けのように、よろめいて聞こえる。
見た目は二十歳 前後の女性なのだが、頭の狐耳と尻尾、それと全体から醸される雰囲気は、人から随分と遠いところにある。
「蘭丸は?」
稲荷寿司の入った箱を玉響に渡す。
「わ~い。稲荷寿司だ~!」
「蘭丸は何処 にいる?」
「まだ帰ってないよ。今日はもう遅いし、明日になるんじゃないかな~」
亜緒は胸を撫で下ろした。姿を眩ませる時間がありそうだったからだ。しかし実家へは帰りたくないし、これ以上蘭丸の金に手を付けるわけにもいかない。
「さて、どうするかな」
「あ~、亜緒ちゃん、これが届いたよ~」
「何だ。これは」
郵便葉書のようだが、けったいな文字で書かれていて読めない。
「それはね、宇迦之御魂神 様からのお知らせだよ。すぐに来ることって書いてあるのさ」
「今すぐ? 京都の伏見稲荷大社までか?」
緩慢な動作で玉響が頷く。長い髪が揺れて幾本か解 れる。
「そんな金なんて無いぞ」
文無しだから焦っているのだ。金があれば、使い込んでしまった三十円を蘭丸銀行へ振り込んでいる。
「お金なんか無くても行けるよ。私の神社まで行けば大丈夫なんだ~」
「玉響の神社って、再建は済んだのか?」
「つい、この間ね。さぁ、早く行こう!」
渡りに舟だと思った。ほとぼりが冷めるまで、京都巡りも悪くない。
金は紅桃林 家から盗、じゃない借りれば良いだろう。神社を壊したのは紫 なのだから、相応の責任を取ってもらう意味でも。
「鵺も付いていくぞ」
「鵺ちゃんはダメだよー。招待されたのは亜緒ちゃんだけだから」
「狐の元締めなんて信用できない!」
玉響は神使 と呼ばれる宇迦之御魂神の三百以上ある分身の一人だ。本来名前は無いのだが、亜緒が勢いに任せて名付けてしまった。
「鵺、留守を頼む。すぐに戻るから、蘭丸が帰って来たら泥棒に入られたとでも云っておいてくれ」
大正十年の霜月も終わろうという暮れの頃。亜緒は一つの試練と向き合うことになる。そして、その試練は鎖で繋がっていたある事件の引き金となるのだった。
青年の名は
二人は夕食の帰りだ。
四人も一つ屋根の下に住んでいて、蘭丸がいないと飯も炊けないというのは情けない限りであるが、内二人は人外であるから仕方が無い部分もある。
亜緒にしても、およそマトモな家に生まれ育ってはいないので、幼い頃など飯というものは自然に無から生じるものと本気で思っていたくらいである。
妖を滅するために生まれ、生き、死ぬ。秘める霊力が大きければ
亜緒は生まれたときから強い霊力に恵まれていたから、妖を
鵺は雨下石家次期当主である亜緒を
亜緒が雨下石家を無事に継いだとき、鵺は次の当主候補へと憑く。遥かな昔からずっとそうしてきたし、未来永劫そうしていく。
雨下石 亜緒の今夜の晩飯は寿司であった。ついでに云えば、昨夜は東京銀座のフランス料理店「
パンの耳が常食である『左団扇』の経済事情において、蘭丸がいなくなってからの亜緒の食生活は好き放題だ。その
「なんで鵺はかっぱ巻きしか食べなかったんだ? 寿司は苦手だったっけ?」
亜緒は酒に酔った声で鵺に話題を投げた。上機嫌である。
「だって、それは……蘭丸のお金だから」
亜緒の動きがゼンマイの切れた時計のようにピタリと止まった。
「え? 蘭丸のお金って何? これは家の畳の下に隠してあった埋蔵金……」
「蘭丸が大切にしていた貯金の一部でしょ。師匠が残してくれた大事なお金だって云ってた」
「あ、ヤッベェ。忘れてた……」
本当に忘れていた。そもそも、仕事も無いのに金があること自体おかしいのだ。
「亜緒、調子に乗りすぎ。殺されるかもしれないよ」
――殺されるかもしれないじゃなくって、本当に殺されるのではないだろうか。
血の気が引く音というものを、亜緒は初めて聞いた気がした。
「で、でもさ。蘭丸だって血の通った人間なんだし、殺すまではしないよね」
そうに違いない。そうであってくれ。そうでなければ、困る。
しかし妖刀使いは人も斬る。亜緒の笑顔はみるみると引き攣っていった。
「運がよければ腕の一本くらいで済む……かな?」
「言葉の終わりに疑問符を付けないでくれ。余計、怖い」
蘭丸は今、師匠の墓参りへ出掛けており不在である。座卓には
しかし留守を良いことに亜緒は家中の引き出しや天井裏、畳までも剥がして家捜しをした。
挙句、見つけた金は二百円近くに
その内の八十円ほどを、亜緒は豪勢な食事代に使ってしまったのだ。たったの二日間で。
一瞬で酔いが覚めた亜緒は稲荷寿司を拾いあげると、すぐに『左団扇』へと帰宅をした。
「あ~、お二人さんお帰り~」
玉響が間の抜けた声で出迎えた。彼女の声はいつも低血圧症の起き抜けのように、よろめいて聞こえる。
見た目は
「蘭丸は?」
稲荷寿司の入った箱を玉響に渡す。
「わ~い。稲荷寿司だ~!」
「蘭丸は
「まだ帰ってないよ。今日はもう遅いし、明日になるんじゃないかな~」
亜緒は胸を撫で下ろした。姿を眩ませる時間がありそうだったからだ。しかし実家へは帰りたくないし、これ以上蘭丸の金に手を付けるわけにもいかない。
「さて、どうするかな」
「あ~、亜緒ちゃん、これが届いたよ~」
「何だ。これは」
郵便葉書のようだが、けったいな文字で書かれていて読めない。
「それはね、
「今すぐ? 京都の伏見稲荷大社までか?」
緩慢な動作で玉響が頷く。長い髪が揺れて幾本か
「そんな金なんて無いぞ」
文無しだから焦っているのだ。金があれば、使い込んでしまった三十円を蘭丸銀行へ振り込んでいる。
「お金なんか無くても行けるよ。私の神社まで行けば大丈夫なんだ~」
「玉響の神社って、再建は済んだのか?」
「つい、この間ね。さぁ、早く行こう!」
渡りに舟だと思った。ほとぼりが冷めるまで、京都巡りも悪くない。
金は
「鵺も付いていくぞ」
「鵺ちゃんはダメだよー。招待されたのは亜緒ちゃんだけだから」
「狐の元締めなんて信用できない!」
玉響は
「鵺、留守を頼む。すぐに戻るから、蘭丸が帰って来たら泥棒に入られたとでも云っておいてくれ」
大正十年の霜月も終わろうという暮れの頃。亜緒は一つの試練と向き合うことになる。そして、その試練は鎖で繋がっていたある事件の引き金となるのだった。