第1話「猫かぶり姫」

文字数 3,407文字

 ニャアと猫の縫いぐるみが鳴いた。

 すぐに「にゃあ」と少女のミルク色の声が追う。

 何の不思議も無い。縫いぐるみの「ニャア」も同じ少女が発した鳴き真似である。

 彼女はたった今起きたところで、まだ精神の半分以上は夢の中だ。

 現実と虚構の狭間でゆらゆらと揺れて、存在自体があやふや(・・・・)だ。

 眩暈(めまい)とため息。どこかで(ひぐらし)が鳴いている。

 また今日も昼過ぎまで眠ってしまった。

「私には学校なんて関係無いの」

 猫を模したヴェルヴェットで綿を包んだ無生物と会話をする。

 鍋島(なべしま) 小夜子(さよこ)は、夏の終わりの気だるい午後に独りだった。

 緩やかなウェーヴを掛けた長い髪にはリボン。

 肌理(きめ)の細かい白い肌に包まれた細い体と首。

 その上に乗っている形の良い輪郭。

 輪郭の中で小さな鼻と桜色の唇から甘い息が静かにときとき(・・・・)と漏れる。

 魅惑的な瞳にはあどけなさの中に見透かすような鋭い光が僅かに灯る時があって、小夜子はその鋭さが我のことながら気に入らなかった。

 その片方の左目は眼帯で隠れていて、他の誰にも内緒だ。

 「内緒」をなるべく沢山持つこと。小夜子にとって、それは魂の甘美な歓びである。

 もっともっと、自分の内緒を蒐集(しゅうしゅう)して誰も知らない場所へと辿り着く。それが小夜子の漠然と思い描く、頼りない未来図であった。

 好きな色はモノクロオムよりもパステルカラー。

 甘いものは砂糖菓子。

 苦いものはお薬。

 美しいもの……ビイドロ。赤いフラスコのような、(あか)い心臓のような、魂の色。

「眼球……」

 小夜子は口にしながら、左目の眼帯に白く細い指で触れた。

 恍惚(こうこつ)を感じたのだろうか。笑みに酔ったような波が寄せる。

 人を殺したことがある。もちろん、想像の中で。妄想の殺人だ。

 近所のお節介なオバサン。高圧的な物言いの体育教師。警察官。クラス委員でも無いのに偉そうな態度のクラスメイト。

 北枕(きたまくら) 石榴(さくろ)が行方不明になったことは、小夜子にとって気分の良いものであった。

「いつも自分が自分がって、出しゃばりだから酷い目に会うのよ。良い気味」

 人間、清く謙虚な部分は大事だ。

 では自分はどうであろうか? 清いだろうか? 謙虚だろうか?

 クラスメイトの不幸を喜ぶことは醜いことなのではないか。

 突然、小夜子はケイレンしたように体を振るわせ始めた。

 唇の中のカチカチ。

 瞳の奥のチカチカ。

 自分の中から醜悪な色が()み出して、それが他の誰かの目に留まってしまわぬよう頭を押さえる。

「だって、だって。誰だってそうでしょう? 嫌いな人が酷い目にあって、少しでも喜ばない人などいるかしら?」

 いるとしたらそれは余程の人格者か、でなければ無意識に自分を嘘で誤魔化(ごまか)す偽善者だ。

 嘘は醜いのだから。けれど、嘘をつかない人間はいない。

「人間は醜い」一言呟いてから、小夜子は安心したように深い息を吐いた。震えも止まる。

 だから自分は猫なのだ。人の近くにあって、そのじつ最も遠い存在。気まぐれだけれど、清い存在。

 ――なれば、私は醜くなどない。

 ふと、縫いぐるみたちの中に、糸がほつれて中の綿が出ているものを見つけた。

「……内臓」

 そんなことを言いながら小夜子は台所から包丁を手に戻ってくると、「大変、大変」と慌てながら縫いぐるみに刃を突き立てた。

 何度も何度も突き立てて、(しま)いには刃が欠けてしまった。

「苦しませるのは(こく)だものね」

 ひと思いに殺してしまうのも親切だ。

 縫いぐるみは、綿とヴェルヴェットの切れ切れになった。元の何者でもない材料となって、まるで(はらわた)と皮膚のようだ。

 小夜子は途方に暮れた。

 退屈だ。今日も昨日と同じ時間が過ぎている。

 時の死骸が部屋の其処此処(そこここ)に降り積もって、所在無げに転がった縫いぐるみや本や勉強机を覆ってゆく。

 もちろん、小夜子自身にも。

 退屈に(むしば)まれながら、時間に良いように弄ばれている。

 そんな自分を贅沢な暇人だと思う。

 ――このオブラアトに包まれたような曖昧模糊(あいまいもこ)とした瞬間の連続が私というものらしいのです。

「ああ。こんなんでは今日もすぐに夜がやって来る」

 今日が、あと八時間で死ぬ。

「今夜の夜は、昨夜と違った夜になるかしら」

 なれば良い。なるべきだ。なってしまえ。なってくれなければ……困る。

 この世に退屈ほど恐ろしいものは無いのだから。

 そんなふうに夏のペエジをめくっていると、呼び鈴が鳴った。

 倦怠の連続に挿し込まれた(しおり)のように、突然の不意。

 退屈と云う章が終わりを告げたみたいで、胸が躍る。

 小夜子はのそのそと立ち上がると、寝間着(ねまき)からレエスが素敵なエプロンドレスに衣装を変えた。

 一階まで降りて玄関の扉をそっと開けると、隙間の向こうには教室で見た顔が立っていた。

 小夜子よりも頭一つ分高い身長。水色の瞳。オカッパ頭の一部分だけが青く染まった黒髪は、いつ見ても不思議だ。

 日傘を差している。矢絣(やがすり)の袴は学校の制服だ。

「こんにちは。鍋島さん」

 隙間の向こうから、何だかやる気に乏しい声。

「委員長……」

 確か名前は雨下石(しずくいし) 桜子(さくらこ)といったか。

 成績は常に学年一位でスポオツ万能の彼女は、学園では目立つ。教師の覚えも宜しい彼女を知らない生徒は居ない。

 小夜子は愛想良く扉を全開した。この有名人と、前々からお喋りをしてみたいと思っていたのだ。

「いったい、どうしたというのです? 女学校からウチまでは遠かったでしょう?」

 小夜子は上目遣いに笑顔を作って、桜子を歓迎するポオズを作った。

「溜まったプリントを届けに寄っただけですから」

 無味乾燥な言葉とともに、無粋な藁半紙(わらばんし)の束が小夜子の手の中に押し付けられる。

「学校を欠席なさるのは貴女の自由ですけど、明日からでも出席して貰えると私がこのような雑務を負わされずに済み、大変助かりますわ」

 それだけ告げると桜子は(きびす)を返した。去ってゆく。

 風が吹いた。少々、強く。小夜子の髪の一本一本が寂しげに揺れて宙に(なび)く。

 小夜子が好意的に振舞っても、雨下石 桜子はまるで此方(こちら)に興味が無い。

 寂しげな表情の小夜子の手の中から一枚、また一枚とプリントが風に乗って飛んでいく。まるで涙を(こぼ)しているようにポロリポロリと悲しげに空を渡る。

 桜子は空を泳ぐ紙に少しだけ目を留めただけで、何も言わない。他人に無関心という噂は耳にしたことがあったが、風聞(ふうぶん)で個人の人格を断定するなんて小夜子には愚かしいことだと思う。

 毅然として孤高な人。そんな彼女と仲良くなれたら、きっと自分も変わることが出来る。

 サナギから蝶が飛んでいくように。

「せっかく来たのだから、お茶でも飲んでらして?」

 小夜子は二度目の笑顔を作ってお茶に誘う。桜子はそんな小夜子に奇異の視線を向ける。

 さっきまで後ろに居たはずの彼女が、自分の目の前に居たからだ。

 気配も足音もしなかった。

「お茶よりも、飛ばされたプリントを拾うのが先ではなくて?」

「あれはもういいのよ。要らないものだから風に飛ばしたの」

 桜子の驚いたような顔を見て、小夜子は可笑しそうに笑っている。

「海の向こうの焼き菓子があるの。是非、寄ってらして?」

 桜子は慧眼(けいがん)で小夜子を見つめた。この少女は、どこかが妙だ。

 もしも(あやかし)ならば、今この場で討つのは雨下石家長女としての役目である。

「お茶を頂くことにするわ」

 桜子は愛想笑いを浮かばせながら、小夜子と一緒に洒落(しゃれ)たシルエットの洋館へと入っていった。

 扉が閉まる。鍵がかかった。
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