第2話「That Lucky Old Sun」
文字数 3,333文字
とても静かな夜だった。
冬だというのに町には霧が立ち込め、まだ宵 の口だというのに誰もが外へ出るのを嫌がった。
それはこの世界に住む人間が持つ、特有の勘なのかもしれない。
皆、思ったのだ。今夜、外に出るのは危険だと。
霧の真ん中で、エンペラー=トマトケチャップは楽しそうにヴィオロン(ヴァイオリンのこと)を弾いていた。
優雅なボーイングで楽器とダンスでもしているかのような軽やかさだ。
やがて白い渦 の向こうから一人の少女が現われる。足取りは頼りなく、視線は虚 ろに泳いでいる。
今日、伯爵が東京見物中に二言三言 話しただけの女性だ。
「やれやれ」
久遠 獅子丸 は霧の中でタメ息をついた。緋 に染めた着物と赤い下駄、そして雪のような卯 の花色の髪を長く腰まで伸ばしている。
相変わらず、派手な出 で立 ちである。
ヴィオロンの音は獅子丸には聴こえていない。その旋律は伯爵が今夜の食事と決めた者の耳にだけ届いて、幻惑的に誘い出すのだ。
弓が弦から離れると、少女は糸が切れた人形のように伯爵の胸の中へと倒れこむ。
綺麗な喉 をしている。
吸い込まれるような誘惑の瞳で、伯爵は少女を見つめる。
「あれが吸血鬼特有の魔眼 か」
獅子丸は鋭い眼光で伯爵の食事風景を観察していた。
優男の唇が少女の首に触れると、彼女は小さな艶 のある声を漏らした。
まるでキスのように甘い牙の囁き。
そして暫 しの間が空 く。
伯爵が少女の華奢な体を手放すと、すぐに獅子丸が刀を抜いてその首を斬り落とす。
「野蛮だな。食事の余韻すら楽しむ暇も与えてくれないのかね」
「吸血鬼や屍食鬼 になられても困るからな」
伯爵は一日に一人だけ、吸血行為を許されている。雨下石 家が許したのだ。
黒い太陽が輝く世界において、吸血鬼は昼夜関係なく動く無敵の妖 である。
そういうモノには最低限の礼を尽くして、なるべく早く国外へと出て行ってくれるのが有り難い。
もちろん、そのまま放置というわけにはいかないから、妖退治の実力者を世話役の名目で付ける。
久遠 獅子丸は吸血鬼の食事の始末と、監視のために雨下石家から依頼を受けた妖刀使いだ。
「食事とはいえ程々に頼むぜ? 伯爵さんよぉ!」
嫌な仕事である。しかし妖刀使いは基本、妖絡みの仕事は断ってはいけないことになっている。例え相手が大妖で、自分に勝ち目が無いと分かっていてもだ。
相手が吸血鬼ならば尚 のこと。雨下石家からの命 となれば更に断れない。これは妖刀使いの義務でもある。
「そっちのアンタは血を飲まなくてもいいのかい?」
ソルト・アンは目つきの悪い笑顔を獅子丸に向けながら、犠牲者が身に付けていた赤いリボンを髪の上にのせて呟く。
「おしゃれ……ハイカラ?」
意思疎通の取りづらい不死者たちに、獅子丸は眉根を寄せながら鮮やかに輝く白髪をかき上げた。
「やっと妖刀使いになったと思ったら、早々に貧乏クジかよ」
獅子丸は妖刀『名残狂言 』の前所有者を倒して妖刀使いになっている。これは極めて珍しい事例といえるが、妖刀自身が前任者よりも獅子丸をより相応しい所有者として認めたということでもある。
「妖刀使いになってはみたものの、憧れていた頃のイメージとは大分違うもんだな」
知的な顔立ちに反してやる気の無い態度と口調だが、鋭い眼光は一時 も吸血鬼から目を離さない。
久遠 獅子丸の本当の任務は吸血鬼が一日一人の条件を破った際に、彼らを妖刀で始末することだ。
時同じ頃、霞 月彦 は霧の一マイル先の病院を訪ねていた。
月彦は病気や怪我とは無縁の人間だから、見舞いの用である。
彼は然 る病室の椅子に腰をかけて、ベッドで眠る老女を見ていた。いつも変わらぬ笑顔の青年だが、この時ばかりは表情や雰囲気から温 もりが漂う。穏やかな空気が目に見えるようだ。
「あら月彦さん、来ていたなら起こしてくだされば良いのに」
老女は目を覚ますと、月彦の顔を見て頬を染めた。
「あまりにも心地良さそうに眠っていたものですから」
「夢をみていたのよ。月彦さんと出会った頃の」
云 いながら、少しはにかむ 仕草には品が感じられる。
老女の名は綾 といい、十五の頃に月彦と出会った。
妖退治を依頼された先での、妖刀使いという立場にあってはよくある話である。
「貴方 は本当に昔と同じで、今も出会った時のまま変わらないのね」
普段は口にしないそんな科白 も、見ていた夢の影響だろうか。
「私はすっかりお婆ちゃんになって……」
それでも老女は嬉しそうに微笑むのだ。
「そんなことはない。今でも貴女 は出会った頃のままに美しい」
世辞などではない。月彦の本心だ。
綾に家族は居なかった。何故か彼女は長い人生の中で一度の結婚もせずに、病院のベッドの上で残りの人生を終えようとしている。
兄弟や親戚の話も、月彦は本人から聞いたことがない。
「今日は珍しいものを持ってきました」
月彦は一本の瓶を丸テエブルの上からベッドの傍へと持ってきた。
「カルピスと云うのです。水や湯で希釈 してから飲むもので、これがなかなか評判良いのですよ」
「月彦さんは、いつも変わったものを持ってきてくれますね」
「滋養もつくらしいから、作ってきます」
月彦は病室を出ると、医師と看護婦に許可を取ってから湯を貰い、乳白色の液体が入った湯飲みへと移した。
「甘いわね」
「綾は甘いのが好きだから丁度良いでしょう?」
「嫌ねぇ。それは昔の話でしょう? でも、体が温まります」
綾は重篤 な病 にかかっていた。年齢も年齢だから仕方のないことかもしれないが、主治医の話では年を越せないだろうということだった。
「あら? もう面会時間はとうに過ぎているわ」
病室の時計を見て、綾が緩慢 に驚く。
「院長に無理を云って伸ばしていただきました。まだ大丈夫ですよ」
「それは駄目ですよ。規則は守らないと」
相変わらず決まりごとに厳しい。やっぱり昔から何も変わらないと月彦は苦笑した。
「では、次に来るときは何か雑誌でも持ってきましょう」
月彦はこの病院に寄付という名目で多額の金を支払っている。
妖退治の報酬や見廻 り組への参加料、時には臨時教師などをして貯めた金のほぼ全てを彼女の養生 の場と治療費に使っている。もちろん、病院や院長本人、および関係者の妖退治は無料で引き受けてもいる。
この病院で月彦が大目に見られているのは、そういう理由だ。
病院側としても月彦の安くない寄付金と厚意 欲しさで、綾に現時点で受けられる最高の治療と身の回りの世話を約束している。
彼女には一日でも長く生きながらえてもらわなければ、妖刀使い霞 月彦との縁が切れてしまうのだ。
そんな事情を綾は知っている。知っていながら月彦の好意に甘えてきた。
だから綾は一日も早く、この世を去ってしまいたいと思う。
もう自分が月彦に与えられるものは、何一つ残っていない。否 、最初からそんなものは一つも無かったのかもしれない。
病室で死を待つ老人は、引き出しに仕舞っておいた編みかけの襟巻き を取り出すと、不器用な手つきで編み目に感謝と別れの想いを綴 りながら編み込むのだった。
冬だというのに町には霧が立ち込め、まだ
それはこの世界に住む人間が持つ、特有の勘なのかもしれない。
皆、思ったのだ。今夜、外に出るのは危険だと。
霧の真ん中で、エンペラー=トマトケチャップは楽しそうにヴィオロン(ヴァイオリンのこと)を弾いていた。
優雅なボーイングで楽器とダンスでもしているかのような軽やかさだ。
やがて白い
今日、伯爵が東京見物中に
「やれやれ」
相変わらず、派手な
ヴィオロンの音は獅子丸には聴こえていない。その旋律は伯爵が今夜の食事と決めた者の耳にだけ届いて、幻惑的に誘い出すのだ。
弓が弦から離れると、少女は糸が切れた人形のように伯爵の胸の中へと倒れこむ。
綺麗な
吸い込まれるような誘惑の瞳で、伯爵は少女を見つめる。
「あれが吸血鬼特有の
獅子丸は鋭い眼光で伯爵の食事風景を観察していた。
優男の唇が少女の首に触れると、彼女は小さな
まるでキスのように甘い牙の囁き。
そして
伯爵が少女の華奢な体を手放すと、すぐに獅子丸が刀を抜いてその首を斬り落とす。
「野蛮だな。食事の余韻すら楽しむ暇も与えてくれないのかね」
「吸血鬼や
伯爵は一日に一人だけ、吸血行為を許されている。
黒い太陽が輝く世界において、吸血鬼は昼夜関係なく動く無敵の
そういうモノには最低限の礼を尽くして、なるべく早く国外へと出て行ってくれるのが有り難い。
もちろん、そのまま放置というわけにはいかないから、妖退治の実力者を世話役の名目で付ける。
久遠 獅子丸は吸血鬼の食事の始末と、監視のために雨下石家から依頼を受けた妖刀使いだ。
「食事とはいえ程々に頼むぜ? 伯爵さんよぉ!」
嫌な仕事である。しかし妖刀使いは基本、妖絡みの仕事は断ってはいけないことになっている。例え相手が大妖で、自分に勝ち目が無いと分かっていてもだ。
相手が吸血鬼ならば
「そっちのアンタは血を飲まなくてもいいのかい?」
ソルト・アンは目つきの悪い笑顔を獅子丸に向けながら、犠牲者が身に付けていた赤いリボンを髪の上にのせて呟く。
「おしゃれ……ハイカラ?」
意思疎通の取りづらい不死者たちに、獅子丸は眉根を寄せながら鮮やかに輝く白髪をかき上げた。
「やっと妖刀使いになったと思ったら、早々に貧乏クジかよ」
獅子丸は妖刀『
「妖刀使いになってはみたものの、憧れていた頃のイメージとは大分違うもんだな」
知的な顔立ちに反してやる気の無い態度と口調だが、鋭い眼光は
久遠 獅子丸の本当の任務は吸血鬼が一日一人の条件を破った際に、彼らを妖刀で始末することだ。
時同じ頃、
月彦は病気や怪我とは無縁の人間だから、見舞いの用である。
彼は
「あら月彦さん、来ていたなら起こしてくだされば良いのに」
老女は目を覚ますと、月彦の顔を見て頬を染めた。
「あまりにも心地良さそうに眠っていたものですから」
「夢をみていたのよ。月彦さんと出会った頃の」
老女の名は
妖退治を依頼された先での、妖刀使いという立場にあってはよくある話である。
「
普段は口にしないそんな
「私はすっかりお婆ちゃんになって……」
それでも老女は嬉しそうに微笑むのだ。
「そんなことはない。今でも
世辞などではない。月彦の本心だ。
綾に家族は居なかった。何故か彼女は長い人生の中で一度の結婚もせずに、病院のベッドの上で残りの人生を終えようとしている。
兄弟や親戚の話も、月彦は本人から聞いたことがない。
「今日は珍しいものを持ってきました」
月彦は一本の瓶を丸テエブルの上からベッドの傍へと持ってきた。
「カルピスと云うのです。水や湯で
「月彦さんは、いつも変わったものを持ってきてくれますね」
「滋養もつくらしいから、作ってきます」
月彦は病室を出ると、医師と看護婦に許可を取ってから湯を貰い、乳白色の液体が入った湯飲みへと移した。
「甘いわね」
「綾は甘いのが好きだから丁度良いでしょう?」
「嫌ねぇ。それは昔の話でしょう? でも、体が温まります」
綾は
「あら? もう面会時間はとうに過ぎているわ」
病室の時計を見て、綾が
「院長に無理を云って伸ばしていただきました。まだ大丈夫ですよ」
「それは駄目ですよ。規則は守らないと」
相変わらず決まりごとに厳しい。やっぱり昔から何も変わらないと月彦は苦笑した。
「では、次に来るときは何か雑誌でも持ってきましょう」
月彦はこの病院に寄付という名目で多額の金を支払っている。
妖退治の報酬や
この病院で月彦が大目に見られているのは、そういう理由だ。
病院側としても月彦の安くない寄付金と
彼女には一日でも長く生きながらえてもらわなければ、妖刀使い霞 月彦との縁が切れてしまうのだ。
そんな事情を綾は知っている。知っていながら月彦の好意に甘えてきた。
だから綾は一日も早く、この世を去ってしまいたいと思う。
もう自分が月彦に与えられるものは、何一つ残っていない。
病室で死を待つ老人は、引き出しに仕舞っておいた編みかけの