第6話「ただ折ふし夢の中でのみ窺い知るもの」

文字数 3,940文字

 紅桃林(ことばやし) 殺子(さちこ)の見る夢は鮮明だ。まるで現実と区別がつかない。

 それでも「殺子の夢の中」だと気づけるのは、青い空に輝く光があまりにもこの世界では異質に映るためである。

 抜けるような青空と眩しい光は殺子の趣味というより、体の弱い彼女が生み出した生命の原風景なのかもしれない。

 殺子は暇を持て余していた。

 当主交代の儀は済んでいるし、(むらさき)が帰ってこなければ紅桃林家は大きく動けない。

 ただ、始末して欲しいという殺しの依頼は既に幾つか入っていて、それは殺子の仕事なのだが気が乗らずに放置してある。

 最近の殺子は夢の中に入り浸っては独り歌を歌ったり、素足に触る芝生の柔らかさを楽しんだりしていた。

 彼女にとって、此処が一番落ち着ける居場所なのだ。

 緑の芝生が敷かれた適度な広さの庭のような場所。花壇には紅いダリアがそよ風に揺れる。

 此処で白いワンピースを着た殺子は、ブランコに揺られながら紫の帰りを待っている。

 まるで儚い花夢のように。

「こんにちは。殺子さん」

 名を呼ばれて振り向くと、雨下石(しずくいし) 亜緒(あお)がいつもの洋装姿で立っていた。

「もしかしたら、こんばんはかな? まぁ、どっちでもいいか」

「女性の夢の中へ突然入ってくるなんて、紳士のすることではありませんわよ」

 少し間を置いてから出た殺子の声は落ち着き払っているが、内心では驚愕(きょうがく)していた。

 いったい、いつの間に居たのか見当もつかない。

「僕は紳士を名乗った覚えはありませんよ。気取るつもりも無い」

 惚けたような調子で青い髪と瞳の青年は言う。

 雨下石 亜緒を自分の夢の中へ招待した覚えは無い。殺子の夢に入るには殺子の許可が要る。

 今までも殺子から亜緒を呼ばない限り、彼のほうから現れることは無かった。否、現れることは不可能なはずなのだ。

 殺子は他人の夢の中を自由に行き来できるのは自分だけに許された特権だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。

 少なくとも、彼は目の前に居る。

「途中経過の報告をしに来たのです。頼まれたでしょう? 僕に紫の始末を」

「ええ。そうでしたわね。それで?」

「それがコテンパンにやられてしまいましてね。貴女の兄上は強すぎます」

 そのわりに余裕さえ感じられる笑顔を浮かべているのが、殺子には不気味に感じられた。

 夢の中から早く出て行ってほしい。

「では、依頼遂行不可能と? それを伝えに来たのですか?」

「その逆です」

 殺子はツバの広い白い帽子の下で、その表情を不快に歪めた。

「やっと本気で()る気になりました」

「そうですか……。期待、しても宜しいのですね」

「そこで殺子さんにも、ちょっとだけ協力をお願いしたいのです」

 嫌な予感がした。雨下石 亜緒という人間は飄々(ひょうひょう)とした態度で、何故かいつも殺子に不安を与える。

 ――この男を侮ってはいけない。と、彼女の直感が告げるのだ。

「彼の、紫の中にどんな武器があるのか。その種類の全てを教えてください」

「それは、私の預かり知らぬところですわ」

 事実であった。殺子は子供の頃に見た短刀くらいしか、紫が武器を持った姿を知らない。

「では紫の体に武器を埋め込んだ執刀医に直接聞くことにしましょう」

 殺子の(あか)い瞳が不安に揺れた。逆に亜緒の青い瞳は不敵に(わら)う。

「僕にも出来るんですよ。貴女と似たようなことが」

 それは嘘であった。

 亜緒に出来るのは他人の夢を覗くのが精々だ。予知夢も殺子と違って滅多に見ることは無い。

 他人の夢に爪を立てることができるのは、やはり殺子だけなのだ。

 しかし、許しも無く自分の夢に現れた亜緒を殺子は疑うことが出来ない。

 もしかしたらという不吉な可能性が、思考の中に居座って離れてくれない。

 殺子の能力は生まれ持った才能だ。それだけに()っている。

 努力をして身に付けた力では無いから、どうしても自信に欠けてしまう。

 それが彼女の弱点であった。

 殺子はブランコを降りた。

「本当に貴方は私と同じことが出来るのですか?」

「何故、出来ないと思うのですか?」

 質問に質問で返してくる。

 やはり『質問』の強制力は効かない。これは前に何度か試して分かっていたことだった。

 ――今、此処で死の接吻(せっぷん)を使って雨下石 亜緒を殺す。

 殺子は自分の夢の中で人を殺したことがない。口づけを交わすのは、いつだって相手の夢の中だった。

 果たして夢を見ないこの男に対して、死の接吻が効くのかどうか。

 それでも試してみる価値はあると思った。

 上手くいけば紫と殺子、二人の望みが叶うことになる。

 それに、どうしても兄の秘密を知られることだけは阻止しなければならない。

 さり気なく、殺子は軽い足取りで亜緒へと近づいてゆく。

「そうそう。依頼料は振り込んでくれましたか?」

「既にお支払いしました。後で御確認くださいませ」

 しかし、二人の距離は一向に縮まらない。殺子が近づくぶんだけ、亜緒が離れてゆくからだ。

「何故、お逃げになるのですか?」

「何故、僕に近づこうとするのです?」

「離れていては落ち着いてお話も出来ませんわ」

「そうですね。実は貴女にもう一つだけ、聞きたい事があるのです」

「何かしら?」

「紫は年に一度、体に武器を埋め込む施術をするでしょう?」

 さっきまで軽やかなステップでも踏んでいたような亜緒の足が止まる。

「その月日にちを教えてください。これなら貴女でも御存知のはずだ」

「そうですねぇ……」

 殺子は白いしなやかそうな指を細い顎に当てて考えるフリをする。

 何とか亜緒に接吻を与えられる距離まで近づかなければならない。

「それなら確かにお教えできますわ」

 殺子は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、亜緒を傍に寄せる手つきで呼ぶ。

 そのとき、殺子の帽子が突然の風に乗って空に舞った。

 一瞬、気を取られて隙を見せた亜緒の唇へ自分の唇を重ねる。寸瞬の手馴れた所作であった。

 甘美と危険の狭間を切り取った刹那に(しば)し溺れる。

 長いようで短い時間が過ぎた。

 都合の良い風はもちろん、殺子自身が起こしたものだ。此処は彼女の夢の中なのだ。

 そして亜緒は力無く芝生へと倒れ込むのだった。

「教えるわけがないでしょう? 施術の日は誕生日ですもの。それを知って何らかの(しゅ)でもかけるつもりだったのでしょうけれど、残念ですわね」

 空に飛んでいた帽子が殺子の手の中へ戻る。

「やはり、狙いは僕の命でしたか」

 殺子の足元から伸びる影が、青い髪と瞳を持った青年の姿を浮かび上がらせる。

 同時に目の前の亜緒だったモノは、人形(ヒトカタ)の小さな和紙となって彼女の足元で微風に踊った。

 ――この男は他人の夢の中でも符術を使えるのか。

 雨下石家は闇を制する。影もまた闇だ。

 光が強ければ強いほどに闇は濃く輝き、亜緒に夢への入り口と余計な力を与える結果となってしまった。

 皮肉にも殺子の生命への憧れという原風景は、裏を返せば殺子本人が抱える闇の深さを反映したものに他ならないのだから。

「勘違いして欲しくないのは、僕は別に怒ってはいないということです。それどころか当然の行為だと肯定の念すら感じているのですよ」

 殺子の能力を知る者の口振りだった。

 そして、亜緒の声音からは殺子を軽蔑するような調子が含まれている。少なくとも殺子の耳にはそう聞こえた。

「やはり僕たちはこうでなければいけない」

 つまるところ、雨下石家と紅桃林家は相容れることの無い因縁浅からぬ仲ということになるのだろう。

 殺子は自分の見果てぬ夢を利用されたことに気づいて、悔しさから憤りを感じていた。

 加えて一番大切にしている場所を汚された気分でもある。

 殺子は解消しきれなかった殺意を表情に残して亜緒を睨んだ。

「貴女は聡明な人だけれど、知らないこともある」

 そんな気持ちを知ってか知らずか、亜緒は愉快そうに言葉を続けた。

「それは……何かしら」

 殺子にとっては最早(もはや)、亜緒の言うことなどどうでも良い戯れ言に過ぎないのだが、言いたいことが終わらない限りこの男は帰ってくれそうもない。

 不本意であっても対応せざるをえない。

「紫と沃夜(よくや)の関係は誰よりも深い絆で結ばれている」

 殺子は沈黙した。

 華奢な体が怒りに震えている。それは殺子にとって、触れてはならない禁句であった。

「あれ? もしかして、本当に気づいてませんでした? 僕なんて(ぬえ)としょっちゅう色々な事してますよ?」

 亜緒が無遠慮に花壇から一輪のダリヤを手折る。

「それは貴方が節操無い外道の(やから)だからですわ!」

「そうかもしれませんが、この狭い世界ではよく聞く話ではないですか。人と人外の人目を忍ぶ関係など」

「お黙りなさい! この下郎!」

 亜緒の手の中の花が急速に萎んで枯れた。

「おお、怖い。それじゃあ、僕は御暇(おいとま)するとしますよ」

「雨下石 亜緒! 私はお前を絶対に許さない!」

 どこか蜻蛉(かげろう)のように儚げな殺子に枯れた花で手を振ると、亜緒は夢の外へと姿を消した。
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