第28話「猿真似」

文字数 4,541文字

 惨劇の中で廊下の壁に(とも)るランプの火が静かに揺れた。

 (みぎわ) 蘭丸(らんまる)の視線は無情で狒狒(ひひ)の動きを縛っている。視線を逸らしたら一瞬で斬られると思うと動けないのだ。

 剣術に置いてではあるが、これも縛呪(ばくじゅ)の一種である。

 人間の反応速度の限界はゼロコンマ一秒。狒狒なら充分に対応できる速さだ。しかし、蘭丸の居合いは狒狒の反応速度よりも速い。

「次は左腕を斬る」

 形の良い口から発せられた声は落ち着いて、しかし力強い意志を乗せて狒狒の耳へと届いた。

 どうせ心を読まれているのだ。わざと口にして、迷いの入り込む余地など捨て去ってしまったほうが幾分マシというものである。

「逃げれば足を斬る。最後には首を斬り落とす」

 蘭丸の技は闇に向けて放つときこそ冴え渡る。

 人にそれぞれ才能というものがあるならば、蘭丸は斬るという一点のみに特化している。

 刀と云う存在を愛し、妖を斬る。そういうふうに仕込まれたし、またそれが(しょう)に合ってもいた。

 狒狒は目の前の男に向けて何も言えなかった。心の内を読んでも、本当に斬ることしか考えていない。

 そして何よりも本能が告げているのだ。この男と戦ってはいけないと。

 狒狒は俊敏な動きで廊下に転がる自分の右腕を拾った。が、いつの間にか左足を斬られていた。切断までには到らなかったが方膝を突き、床に倒れた。

 蘭丸はもう反対方向へと過ぎ去り、(すで)に居合いの構えを取っている。

 速過ぎて太刀筋が見えない。刀身の残像が、まだ水のように美しく空間に残っていた。

 獅子丸(ししまる)の瞳には、狒狒よりも蘭丸のほうがバケモノに映っているかもしれない。そのくらい容赦なく、残酷で、絶対の嵐。

 まるで「死」そのものが姿形を成して目の前にいるかのようだ。

 獅子丸は浅葱(あさぎ)から「万が一、少しでも不利と感じたなら手段を選ばずに逃げなさい」と言われて此処(ここ)に来た。無謀と勇猛は別なのだからと。そんな浅葱に内心落胆したのを思い出す。

 自惚(うぬぼ)れかも知れないが、狒狒には勝てると思っていたのだ。

 それは自己の過大評価ではなく、狒狒と目を合わせた瞬間に納得した確信に近い感覚のはずだった。

 しかし、それが(ただ)の自信過剰であったことを、今まさに実感させられている。

 ――これが雨下石(しずくいし) 浅葱(あさぎ)が認めた男。渚 蘭丸。

「コイツは人の姿をしてはいるが……」

 独り言であるにもかかわらず、それ以上言葉が続かずに獅子丸は息を呑んだ。

「殺せ……」

 狒狒が力無く言った。本心である。

「お前の斬撃(ざんげき)は俺の意識の外から来る。どうしたって勝てない。だから好きにするといい」

 蘭丸に斬られた右腕の出血、それと獅子丸が付けた無数の傷が地味に体力を削っていたらしい。加えて左足を斬られ、満足に逃げることすら(かな)わない。

「では一つ質問をする。何故、あんな約束をした?」

 それは娘が十五になったら嫁に貰い受ける。という約束のことだ。狒狒にはあれそれ(・・・・)で話が通じるからラクでよい。

「お前は男が約束を破ることも分かっていたはずだ」

 心を読み、未来を予見するならば、この結末でさえ()えていたはずなのだ。

東次郎(とうじろう)はあの時、本当に娘を俺にやるつもりだったんだ。だから未来も違ったものが視えていた」

 狒狒は斬られた自分の腕を肘に付けながら語った。

「ところがどうだ。自分の望みが叶った途端、俺を殺そうと妖退治屋を集めた。自らの死まで考えていた純朴な青年が、まるで人が変わったように狡猾(こうかつ)で無情な男に成り果てていた」

 付けた右腕をそろそろと動かしながら、狒狒の短い過去話は終わった。

「俺から見れば、まさに人間こそが最強の化け者(バケモノ)だよ」

 それは蘭丸に向けられた言葉でもあったかもしれない。

「娘を欲したのは喰うためか? まさか本当に結婚しようなどと考えていたわけではあるまい」

 狒狒は(しば)逡巡(しゅんじゅん)した後、頼りない声を漏らす。

「そのまさかさ。俺は本気で娘を嫁に迎えるつもりだったんだ」

「俺たちにお前の心が読めないと思って適当言ってんじゃねーぞ! このゴリラ野郎!」

 獅子丸が叫んだ。たいぶ回復してきたようだ。さすがに浅葱の弟子は鍛え方が違う。

「妖が人を(めと)って何とする」

 蘭丸の問いは静かに続く。

「人の持つ家族というものが知りたかった。妖如きがと思うかもしれんがね。信じる信じないは勝手にするといい」

 人の心を覗き、人を知りすぎた結果なのだろうか。

 人の営みというものに憧れを抱いてしまった妖。例えソレが偽りの猿真似(さるまね)にすぎない行為だったとしても。

「家族……か」

 蘭丸が短く息をついた。

「家族……だ」

 狒狒の言葉も短く終わる。

「条件二つで見逃そう」

「おいおい! 何を巫山戯(ふざけ)たこと言い出すんだ。コイツが人をどれだけ殺したか分かっているのか? すぐに首を斬り落とせ!」

 蘭丸の声にすぐさま獅子丸が怒声を被せる。獅子丸だって殺されるところだったのだから無理もない。

「一つは娘の意志を第一に尊重すること」

 (あや)が嫌だと言えば諦める。

「二つ目は(みぎわ) 彩子(さいこ)という人間に手を出さないこと。もし約束を破れば、俺はお前を地獄の果てまでも追い駆けて必ず殺す」

 狒狒は蘭丸の心から彩子の姿を汲み取ってから頷く。そしてゆっくりと立ち上がると、よろめきながら廊下の闇に消えて見えなくなった。

「何考えてんだアンタ! 狒狒を討つために此処へ来たんじゃないのかよ?」

 獅子丸の(げん)はもっともだ。妖退治屋が妖を斬らずに何を斬るというのか。

「奴はきっとお前さんとの約束を破るぜ。妖を信用するなんて莫迦(ばか)げている!」

「あいつは約束を守るさ。破るのはいつだって人のほうなんだ」

 蘭丸は東次郎氏に嫌悪感を抱いた理由が分かった気がする。自分も闇子との約束を破った。彼の中に、醜い自身を見つけてイラついていたのだ。

「アンタの強さには舌を巻くがね。その甘さはいずれ自らを殺すことになるぞ」

 獅子丸は管狐(クダギツネ)の入っている竹筒を見た。何か思うところがあるのだろう。

「俺自身、まだまだ未熟なのは誰よりも承知している」

 獅子丸は呆れ顔で立ち上がると、折れた『小鳥丸(こがらすまる)』を拾い上げた。

「まったく、アンタから未熟なんて言葉が出たら俺の立つ瀬は()ぇぜ」

「何処へ行く?」

「帰るんだよ。みっともなくって、いつまでもこんな屋敷に居られるかい!」

 もう一度、始めから鍛え直しである。

「小鳥丸は浅葱さんから借りていた刀だったんだがな。こりゃ怒られっかなぁ……」

 最後にそれだけ言うと、獅子丸は下駄を踏み鳴らしながら成明(なりあきら)邸を出て行った。

 * * * * * * * * * * * * *


 娘を護るための大広間はガランとしていた。

 護衛するのに邪魔になるだろうからと、東次郎氏が家具やら何やら全てを部屋から運び出させたのである。

「何か?」

 彩子は少女の視線を感じて、その眠たそうな瞳を愛想無く合わせた。

 暖炉には炎が踊っているので、停電しても明るい。

「いえ、私は煙草(タバコ)を吸う女性の方にお会いしたのは初めてなものですから……」

「お嬢さんも一服いかがです?」

 もちろん冗談である。しかし綾は本気にしたようで、慌てたように首を横に振った。

「質問、宜しいでしょうか?」

「何だね、急に」

 彩子も退屈していたから、娘の言葉に乗ることにした。

「狒狒は何故、私を嫁にと父様に約束させたのでしょう?」

 半分は独り言なのだろう。彩子が答えを知るはずもない。

「考えられるのは結界の無効化ですかね」

 結界と云うのは、この世界の全ての人が利用する建物に施される「妖避け」のことだ。

 この屋敷には取り分け強力な結界が張り巡らされている。よほど高名な結界師に仕事を頼んだのだろう。

「ところがどんな強力な結界も、家族には何の効果も無い。貴女(あなた)が十五になった瞬間から、狒狒には屋敷の結界は無いも同然なのです」

「そんなことで結界を無力化出来るのですか?」

「出来ます。狒狒は既にこの家の家族。少なくとも大事な客の扱いですから」

 吸血鬼は家人の許可が下りれば家の中へと入ることが出来る。それと原理は同じである。

「それでは既に狒狒は……」

「屋敷の中へ侵入しているでしょう。しかし、心配は無用だ」

 彩子は娘を安心させるため、声と表情に柔らかい笑みを浮かばせた。

「私の優秀な弟子が狒狒を討つからです」

「蘭丸様が」

 少女の体から固い緊張が抜けてゆく。「殺す」と言わずに「討つ」としたのも、彼女の心痛を(おもんぱか)っての彩子の配慮だ。

「彼が本気を出せば狒狒など敵ではないでしょう。私の弟子は甘くない」

 その点は彩子自身、自信を持って断言できる。蘭丸には壬祇和(みぎわ)一心(いっしん)流、稀代の暗殺剣を充分に叩き込んであるのだ。負ける道理が無い。

「彩子さん、こちらの様子はどうですか?」

 音も無く、(かすみ) 月彦(つきひこ)が部屋に入って来た。

 この笑顔の剣客は気配の消し方が抜群に上手い。声を掛けられるまでは彩子も気がつかなかった程だ。

「御覧の通り、平和そのものさ。それよりも外のほうは?」

「集めた妖退治屋は全滅ですね。死体の中には使用人たちも混じっているほどの阿鼻叫喚(あびきょうかん)っぷりです」

 月彦は笑顔で残酷な表現をする。おかげで綾の不安は元に戻ってしまった。

「現在、獅子丸くんが狒狒と交戦中ですが勝率は五分といったところでしょうか」

「ふむ。蘭丸が上手く狒狒を見つけることが出来ればよいのだが……」

 状況は彩子の予想通り、狒狒の餌場と化しているようだ。彼女の妖刀使いとしての血が騒ぐ。

「ここはボクに任せて、彩子さんも戦線に参加したらどうですか? 待つのは(しょう)に合わないでしょう?」

「そうさせて貰おうかな」

 彩子も、妖刀『電光石火(でんこうせっか)』も、先手必勝を(むね)としている。後手に回るのは面白くない。

「彩子さん!」

 綾が震える声で叫ぶ。

「大丈夫ですよ、お嬢さん。私が出れば狒狒がこの部屋まで辿り着くことは万に一つも無い。それに月彦殿は頼りになる妖刀使いです」

 彩子は吸いかけの煙草を暖炉の中へ放り込むと、不敵な笑みを(たた)えて死臭漂う惨劇の幕の中へと出ていった。
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