第12話「太刀振る舞い」

文字数 4,413文字

 黒く輝く太陽の下では、空は抜けるような青ではなく、吸い込まれるような群青色だ。そして夕暮れは深い深い藍色に沈む。

 だから薄桃色に霞んだ空を、蘭丸は生まれて初めて見た。

 すぐ隣には大きな川の流れが雄大で、自分が河原を歩いているのだと分かる。

 目に付くものといえば、枯れ木と水草ばかりの殺風景な場所。

 ポツリポツリと咲く彼岸花の(あか)が鮮やかだ。

 久しく忘れていた荒涼と無常とが、蘭丸の心に奇妙な安堵(あんど)の雫を落とす。

 ――寂しい場所であるが、自分の原風景とは案外こんなものかもしれない。

 蘭丸の心中は不思議と穏やかだった。

 夢を見ながらにして、「ああ、これは夢の中なんだ」と意識することがある。

 現実にはありえない光景を前にして蘭丸は今、自分が夢の中の住人であることを自覚していた。

「そう。これは君が見ている夢だ」

 その声は彼岸花の群生(ぐんせい)から、煙草(タバコ)の煙に混じって現れた。

「正確には此処(ここ)三途(さんず)の川で、僕が君を夢の中から連れ出したというのが正解……なんだけど」

 声の主が体を起こし、その特異な姿を現す。

 鮮やかな青い髪。妖しく揺れる瞳の青。煙草を(くゆ)らせた洋装の少年は、蘭丸と然程(さほど)変わらない年齢のように見える。

「だから半分夢で、半分現実。別に死んでいるわけではないから安心したまえ」

 夢にしては妙に鮮明な登場人物に戸惑う。

 煙草の香りが蘭丸の鼻に届いた。彩子の吸っているものと比べるとキツさが無い。おそらく高級な銘柄(めいがら)なのだろう。

(ちな)みに僕は現実側の存在だ。三途の川を選んだのは覗かれ(にく)いから。僕を含めて、世の中には他人のプライバシーを尊重しない困った(やから)も多いからね」

 本来、亜緒にそこまでする力は無い。他人の夢を覗くのが精々(せいぜい)なのだが、今回は浅葱(あさぎ)の存在を能力増幅のブースターとして利用した。もちろん、本人には未承諾(みしょうだく)だ。

雨下石(しずくいし)家の者か」

 形の良い口が自然と動いた。青い瞳と目が合ったとき、彼は自分の夢が創り出した幻ではないと何故か確信した。それだけの存在感と、同じ分量の違和感。

「話が早いな。君に忠告をしに来た」

「忠告?」

「久しぶりに予知夢を視てね。君、この女を斬れよ。でないと、ちょっと厄介なことになるぜ」

 少年の口から吐き出された紫煙(しえん)が、少女の像を結ぶ。「傀儡子(くぐつ)」と書かれた(ふみ)を手渡してきた女学生だ。

「彼女は人の形をしてはいるが、人間じゃない」

「夢のお告げというヤツか?」

「ああ、まぁ。そういうわけさ。(みぎわ) 蘭丸(らんまる)くん」

「俺の名を?」

「僕の師匠が世話になっているだろ」

 亜緒が吐いた煙の中に、今度は一瞬だけ浅葱(あさぎ)の顔が浮かび上がる。

「と、偉そうに忠告をしてはいるがね。本当は君が(あやかし)といえども、女性を斬れないことも分かっているんだ」

 未来を変えるのは、そうそう容易(ようい)なことではない。

「何か君の過去にトラウマのようなものがあるんだな」

 蘭丸は今でも彩子(さいこ)闇子(やみこ)の首を()ねた瞬間を夢に見ることがある。

 夢の中ではその一瞬がとてもスローモーションで再生され、闇子の言葉までも聞こえてくるのだ。

 どうして――。

 その記憶は、今でも蘭丸の心をゆっくりと締め付けてくる。

「それは(しゅ)だぜ」

 自分で自分を縛る呪い。

「君は何者だ? 名前ぐらい名乗ったらどうだ!」

 偉そうな物言いと、まるで何でも見通しているかのような青い瞳に対して蘭丸は叫んだ。

「此処で僕の名前を聞いても、目が覚めたら君はすぐに忘れてしま――」

 突然、少年の言葉が止まる。まるでゼンマイの切れた茶運び人形の如く、動きまで固まってしまった。

 無音の中で彼岸花の群生が風も無いのに一頻(ひとしき)り揺れた後、少年の口から再び発せられた言葉もまた突然だった。

「ああ! そうか! 君のほうは忘れてしまうんだったな。これじゃ忠告の意味が無いじゃないか!」

 (うずくま)って頭を抱える少年を、蘭丸は呆れた視線で射抜く。

「君は……阿呆(あほう)なのか?」

 チラリと蘭丸を(にら)みつけると、少年は勢い良く立ち上がって距離を縮める。

「仕方がない。時限式の爆弾を仕掛けさせてもらうか」

 物騒なことを言うや否や、亜緒の唇が蘭丸の唇に重なった。

 二人は刹那(せつな)、殺風景の中の(えん)だった。彼岸花も頬を染める。

 沈黙から解き放たれると、蘭丸が亜緒の襟首に掴みかかった。

「この変態野郎、何てことしやがる」

「嫌よ嫌よもお互い様さ。これしか君を救う手を思いつかなかったんだ」

 とはいえ、亜緒は蘭丸が美少年で良かったと思うのであった。

 突然、霧が出てきた。それは瞬く間に辺りを覆い尽くして、すぐ近くにあるはずの互いの顔が見えなくなるほど濃さを増してゆく。

「何だ?」

「君が眠りから覚めようとしているんだ。やるべきことはやったし、縁があったらまた会おう。蘭丸先生」

「誰が先生だ! お前のような変態とは二度と会わん!」

 そうして青い髪の少年は白い闇の中へと消えた。



 蘭丸が布団の中で目覚めると、時計の針は早朝五時を差していた。

 いつもの起床時間である。

 何やら嫌な夢を見た気がするが、思い出せない。唇に残る嫌悪感を吹き飛ばすように、勢いも良く布団の温もりから抜け出す。

 今日の朝食と弁当は昨夜の残り物だから、食事の支度は必要ない。

 蘭丸は着替えるため、行灯(あんどん)に火を入れた。外はまだ暗い。

 道着、袴に着替えようと寝間着(ねまき)に手をかけた途端、部屋に見慣れない異様を感じて手が止まった。

 女人形(にょにんぎょう)の一体が、行灯の(だいだい)の中で蘭丸を見つめている。相変わらず、表情といえるものは無い。

貴女(あなた)は浅葱殿の……」

 人形。と、言おうとして止めた。

 どう見ても人間にしか見えない対象に、「人形」は失礼だと思ったのである。

 しかし浅葱が言うのだから、間違いなく人形なのであろう。

「蘭丸様。我が主が道場でお待ちしております。大事な御用件ゆえ、道着に着替えてお越しくださいませ」

 それだけ伝えると、人形は足音も立てずに部屋から出て行った。

 一体、どんな原理で動いているのか。蘭丸には理解の及ばぬところだが、人形の声を初めて聞いた。喋れることにも驚いたが、それにも増して驚いたのは自身が彼女の気配をまるで感じ取れなかったことだ。

 蘭丸は昔の癖で眠りが浅い。眠っていても、彩子の足音で目が覚めたりする。それでも彼女の存在には、目が覚めても()ぐには気がつかなかった。

 足運びからもしや(・・・)と思ってはいたが、間違いない。

 人形達は戦闘、暗殺を目的に作られている。家事全般をこなすのはついで(・・・)なのだろう。

「暗殺……か」

 何とは無しに言葉が漏れた。

 直ぐに道着に着替えて道場へ向かう。サスガにこの季節は寒い。冬の夜気(やき)で冷えた廊下は素足にジンとした痛みを伝えてくるが、そんな刺激など感じないほどに蘭丸の心は(はや)っていた。

 雨下石 浅葱が道場で待っているのは、何か大きな意味があるはずだ。もしかしたら、自分の腕前の未熟を正す助言の一つも貰えるかもしれない。

 蘭丸は行灯を手に()げながら、慣れた廊下を急いだ。

 道場の扉を開けると、問答無用で飛んで来た木刀を受け止める。

「よく受けた」

 奥には眼鏡を掛けた浅葱が座っていて、水色の瞳を鋭く光らせていた。

「朝は道場の雑巾掛けからと決まっているのですが」

「それなら私の人形たちが済ませたよ」

 蘭丸が一礼をしてから道場へと入る。四隅には行灯を持った女人形たちが、空間に光を与えていた。

「闇は暴力だと思わないか? 私は全ての暴力というものを憎む」

 いきなり訳の分からないことを言い始めた浅葱を放って、蘭丸は準備運動を始める。まだ覚めきっていない体を目覚めさせるためだ。

「るるるはしろい。

 ほのおになって。

 るるるはいない。

 うつくしいるるるはもういない。

 ひかるはなびら。

 るるるにそそげ。

 ひかるはなびら。

 るるるにそそげ……」

 今度は草野心平が紡いだ詩の一節を読み始めた。浅葱が朗読すると、まるで呪文のようにも聞こえる。

「美しいものに触れれば、人々の心が本当に必要としているのは一遍(いっぺん)の詩であると理解できる」

 また訳の分からないことを口にする。雨下石家は変わり者と聞いていたから、いちいち相手にしても詮無(せんな)いことだ。

「大事な用件とは詩の朗読のことですか? 浅葱殿」

 浅葱は薄い笑いとともに、熱のこもった白い息を一つ吐いた。

「師匠が言っていました。貴方(あなた)は誰よりも強いと」

「彼女は昔から私を買い被り過ぎなんだ。勝負なんて水物だろう?」

「そうかもしれませんが、貴方の実力はそんな言葉の中に納まってしまうほど容易(たやす)くないのでは?」

「まぁ、若輩(じゃくはい)ながら雨下石家の武術指南役(しなんやく)といったものを任されてはいるがね。……(たわむ)れだ」

「私を呼びつけたのも戯れですか?」

「いや、君に壬祇和(みぎわ)一心(いっしん)流の限界を知ってもらうためだ」

 浅葱は読んでいた本を床に置くと、掛けていた眼鏡を一体の女人形の衿合(えりあ)わせの中へと押し込む。

 心なしか、人形の視線が恥じらいを持って闇へと泳ぐ。

「その限界、是非とも教えてほしいものです」

 蘭丸の声に影が落ちた。壬祇和の剣を愚弄(ぐろう)された気がしたのだ。

「いいだろう。それじゃ、見せてもらおうか。彩子の弟子の太刀(たち)振る舞いってやつを」

 浅葱が木刀を持って立ち上がった。蘭丸も相手に一礼してから構える。

 相対する者の実力が自分より遥かに格上であったとしても、(せん)(せん)で勝負する。それが壬祇和一心流だ。

 一番鳥が鳴く前に決着を付けるつもりで、蘭丸は間合いを取った。
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