第17話「亜緒と闇子と三途の川で」
文字数 2,280文字
「馬鹿ね……」
水を打ったように静かな廊下の隅で、闇子 の声がやはり静かに響いた。
それは嘲笑 というよりも哀傷を多分に含んで揺れ動く、声のような心だった。
「貴方は確かに強いけれど、油断をしたら死ぬということよ」
闇子の傍 には蘭丸 が石榴 に刺されたままの姿で倒れている。
動かない。
「まったく、貴方は人の言うことを聞かないから」
言ってから、一呼吸ほど置いて闇子は自嘲 する。
「もっとも、私は人ではないのだけれど……」
蘭丸の血が闇子に触れた。
紅 い温もりが彼女の冷たい足元を照らして流れてゆく。
「人を斬らないとか、いつまでも貴方らしくないことを言っているからよ」
闇子の声は詰まらなさそうに蘭丸の中へと解けて染み込む。
誰かの足音が背後で止まった。
暫 くして振り返ると、青い髪と瞳を持った青年が立っている。
亜緒 は倒れている蘭丸を見てから、闇子へと青い視線を移した。
「まるで蘭丸の周りだけ時が止まっているみたいだ」
その表情も口調も、妙に落ち着いている。
「雨下石 亜緒……」
闇子が亜緒の名を口にするのは、おそらくこれが初めてのことだ。
「やって欲しいことがあるのだけれど」
闇子の口調も相変わらず抑揚 無いが、焦燥 で瞳の闇が震えている。
いつものような都市伝説然とした余裕が感じられ無い。
「蘭丸の魂を連れ帰って欲しい」
「心臓を貫かれている。蘭丸はもう生き返らない」
「身体は私が元に戻すわ。相方さんには蘭丸が三途の川を渡ってしまう前に、彼を連れ戻して欲しいの」
「自業自得でしょ? 蘭丸が死んだのは」
亜緒は二人とも斬れと忠告をした。それでも、刀を抜かなかったのは蘭丸の意思だ。
「アナタだって蘭丸には死んで欲しくないはずよ!」
静かな廊下を闇子の激昂 が駆け抜けてゆく。猶予 している場合ではない。
「君さぁ、何でそんなに蘭丸に拘るわけ? 気持ち悪いんだけど」
闇子の一つだけの瞳が亜緒を睨む。質問に答えるつもりは微塵も無いようだ。
亜緒にしたって、二人の関係をそれほど知りたいわけでもなかった。
「人にモノを頼むにはそれなりの態度ってものがあるんだぜ?」
亜緒は闇子の感情を逆撫でるようにニヤついてみせる。
闇子は単眼を歪めて亜緒を一瞥 すると、土下座した。
「お願いします。蘭丸の魂を連れ帰って……きて」
おそらく、闇子の心中は屈辱などという二文字で現せるほど単純なものではないだろう。
不服、悔恨、憂慮、悲嘆、不本意、そして殺意。
或 いはもしかして、何の感情も湧いてはいないかもしれない。
闇子が緩慢な動作で顔を上げると、もう亜緒の姿は何処にも無かった。
廊下には静寂が連なって続いているだけだ。
* * * * * * * * * * * * *
蘭丸はとても静かな川原にいた。
自分の歩く音と、衣擦 れ以外に音と云うものが皆目 無い。
風も無く匂いも無く、寒くもなければ暖かくもない。
生命の気配がしない場所。
空が霞んだ水色だ。地平線より少し上の辺りに、赤み掛かった色をした光球が浮かぶ。
そのコントラストが妙に郷愁を誘う。
蘭丸にとっては初めて目にする光景のはずだが、何処か懐かしいと思った。
枯れ草、枯れ木の影、彼岸花の赤が風も無いのに揺れている。
景色は何処までも終わりの無い荒涼が拡がっていて、色があるのにモノクロームの中にでも居るような感覚の錯覚。
隣を流れる川はとても広大で悠々 として、向こう岸が見えない。
――此処が三途の川という処なのかもしれない。
予感ではなく、確信を持って思う。
「そうか、俺は……」
蘭丸は自分が死んだことを自覚した。
既 に此岸 が別世界のように感じられる。
腰に手を当てると、有るはずの妖刀が無い。
「結局、俺は彼女の仇を討つことは出来なかったわけか……」
諦観 の思いで口にした言葉は、誰かに言ったものではない。
蘭丸自身が己の不甲斐 無さを確認するためのものだった。
気の向くままに歩いていると、やがて水際に一艘 の木舟が浮いているのを見つけた。
水面に不自然な波紋が生まれている。誰かが舟の上で寝そべっているのだ。
「遅かったじゃないか」
青い髪と瞳を持った見知り顔が上体を起こした。小さく伸びをする。
「此処は勝手が分からなくてな」
亜緒はともかく、蘭丸は初めて三途の川まで来たのだ。少し迷ったのかもしれない。
亜緒が木舟から岸へと跳び移ると、舟は不満気に揺れてから向こう岸へと流れていった。
「それじゃあ、帰ろうか。此処は静か過ぎる」
「手間を掛けさせてしまったな」
「僕は迎えに来ただけさ。そのセリフは闇子に言ってやれ。君の身体を治すと言っていたから、彼女のほうが大変そうだ」
「闇子に礼を言うのは気が引けるから、オマエに言っているんだ」
「君って本当に人の言うことを聞かないねぇ」
川原に伸びる二つの影がボンヤリとして、やがて消えた。
水を打ったように静かな廊下の隅で、
それは
「貴方は確かに強いけれど、油断をしたら死ぬということよ」
闇子の
動かない。
「まったく、貴方は人の言うことを聞かないから」
言ってから、一呼吸ほど置いて闇子は
「もっとも、私は人ではないのだけれど……」
蘭丸の血が闇子に触れた。
「人を斬らないとか、いつまでも貴方らしくないことを言っているからよ」
闇子の声は詰まらなさそうに蘭丸の中へと解けて染み込む。
誰かの足音が背後で止まった。
「まるで蘭丸の周りだけ時が止まっているみたいだ」
その表情も口調も、妙に落ち着いている。
「
闇子が亜緒の名を口にするのは、おそらくこれが初めてのことだ。
「やって欲しいことがあるのだけれど」
闇子の口調も相変わらず
いつものような都市伝説然とした余裕が感じられ無い。
「蘭丸の魂を連れ帰って欲しい」
「心臓を貫かれている。蘭丸はもう生き返らない」
「身体は私が元に戻すわ。相方さんには蘭丸が三途の川を渡ってしまう前に、彼を連れ戻して欲しいの」
「自業自得でしょ? 蘭丸が死んだのは」
亜緒は二人とも斬れと忠告をした。それでも、刀を抜かなかったのは蘭丸の意思だ。
「アナタだって蘭丸には死んで欲しくないはずよ!」
静かな廊下を闇子の
「君さぁ、何でそんなに蘭丸に拘るわけ? 気持ち悪いんだけど」
闇子の一つだけの瞳が亜緒を睨む。質問に答えるつもりは微塵も無いようだ。
亜緒にしたって、二人の関係をそれほど知りたいわけでもなかった。
「人にモノを頼むにはそれなりの態度ってものがあるんだぜ?」
亜緒は闇子の感情を逆撫でるようにニヤついてみせる。
闇子は単眼を歪めて亜緒を
「お願いします。蘭丸の魂を連れ帰って……きて」
おそらく、闇子の心中は屈辱などという二文字で現せるほど単純なものではないだろう。
不服、悔恨、憂慮、悲嘆、不本意、そして殺意。
闇子が緩慢な動作で顔を上げると、もう亜緒の姿は何処にも無かった。
廊下には静寂が連なって続いているだけだ。
* * * * * * * * * * * * *
蘭丸はとても静かな川原にいた。
自分の歩く音と、
風も無く匂いも無く、寒くもなければ暖かくもない。
生命の気配がしない場所。
空が霞んだ水色だ。地平線より少し上の辺りに、赤み掛かった色をした光球が浮かぶ。
そのコントラストが妙に郷愁を誘う。
蘭丸にとっては初めて目にする光景のはずだが、何処か懐かしいと思った。
枯れ草、枯れ木の影、彼岸花の赤が風も無いのに揺れている。
景色は何処までも終わりの無い荒涼が拡がっていて、色があるのにモノクロームの中にでも居るような感覚の錯覚。
隣を流れる川はとても広大で
――此処が三途の川という処なのかもしれない。
予感ではなく、確信を持って思う。
「そうか、俺は……」
蘭丸は自分が死んだことを自覚した。
腰に手を当てると、有るはずの妖刀が無い。
「結局、俺は彼女の仇を討つことは出来なかったわけか……」
蘭丸自身が己の
気の向くままに歩いていると、やがて水際に
水面に不自然な波紋が生まれている。誰かが舟の上で寝そべっているのだ。
「遅かったじゃないか」
青い髪と瞳を持った見知り顔が上体を起こした。小さく伸びをする。
「此処は勝手が分からなくてな」
亜緒はともかく、蘭丸は初めて三途の川まで来たのだ。少し迷ったのかもしれない。
亜緒が木舟から岸へと跳び移ると、舟は不満気に揺れてから向こう岸へと流れていった。
「それじゃあ、帰ろうか。此処は静か過ぎる」
「手間を掛けさせてしまったな」
「僕は迎えに来ただけさ。そのセリフは闇子に言ってやれ。君の身体を治すと言っていたから、彼女のほうが大変そうだ」
「闇子に礼を言うのは気が引けるから、オマエに言っているんだ」
「君って本当に人の言うことを聞かないねぇ」
川原に伸びる二つの影がボンヤリとして、やがて消えた。