第16話「人で無し」

文字数 4,725文字

 蘭丸(らんまる)が校舎に足を踏み入れると、一歩目から(すで)に異様な空気が辺りを包んでいるのが分かった。

 肌に纏わり付いてくる禍々(まがまが)しい気配と、精神をピリピリと()してくる瘴気(しょうき)

 まるで鬼が目の前に居るような錯覚さえ覚える。

 此処はもう日常から切り離された異界だ。

 二歩目を踏み出すと、異変が起きた。

 突然、目の前が真っ暗になって上下左右の判断がつかなくなる。

 蘭丸は最初、自分が眩暈(めまい)を起こして倒れたのだと思った。

 しかし、違う。この感覚は――。

「御機嫌よう……」

 気だるそうに響く声の向こうに単眼の瞳が浮かんでいる。

闇子(やみこ)……何のつもりだ」

 鬼に気を取られるあまり、蘭丸は闇子の存在をすっかり忘れていた。

 まったくもって迂闊(うかつ)である。

「通せんぼ……なんちゃって」

 抑揚(よくよう)の無い声と緩慢な動作。

 蘭丸の目が闇に慣れる頃には、闇子がもうすぐ(そば)まで来ていた。

 彼女には気配と云うものが全く無い。

「漆黒の鞘と柄。墨黒色の着流し。夜を溶かし込んだような長い黒髪。蘭丸、貴方はまるで闇そのものだわ」

 声に倦怠(けんたい)を抱えて闇子が()む。自分たちは似たもの同士なのだと。

「貴方の相方さんは少しだけ未来が視えるときがあるみたいね。群青ほどのバケモノでは無いようだけれど」

「今はお前に構っている場合ではないのだが……」

「あら? 構いたい気分のときなんてあるのかしら」

 闇子の気が変わらない限り、この闇から出る手段を蘭丸は持たない。もちろん、斬るなら話は別だ。

「そんなに邪険にしないでよ。私は貴方に良いことを教えに来たのだから……」

 彼女が瞳を嬉しそうに歪ませると、闇そのものも誘われたように(うごめ)く。そんな気さえする。

「鬼は小山内(おさない) (るい)のほうよ」

 名を教えられても、蘭丸は誄の顔を知らない。

「昨日の昼にガゼボで貴方と一緒にお弁当を食べた生徒。知っているでしょう?」

 闇の中に一人の女生徒の顔が()ぎる。

 三つ編みに丸い眼鏡、太めの眉が印象的な少女。

 卒業したら結婚するのだと言ってしょげていた。

 ――そんな無垢な生徒が鬼の宿主。

「斬りづらくなった? 慣れないことはするものじゃないわね」

 闇子が蘭丸の耳元で囁く。その声は彼の良く知っている尊い者の声にそっくりだ。

「そうか……。貴重な情報をすまない」

 蘭丸の顔色は何も変わらない。彼女が鬼なら、斬るまでだ。

 闇子がいい加減なことを言っているとは思わない。

 不思議なことに、今まで闇子は蘭丸に嘘を言ったことは無いのだ。

「それと一つ忠告を。今回だけは相方さんの言う通りにしたほうがいいわ」

 闇子が亜緒(あお)を肯定するのは珍しい。否、初めてのことだろう。

「此処には貴方以外に人は居ないのだから、遠慮することはないのよ。なんなら、この校舎の連中すべてを斬り捨ててしまっても良いくらいだわ」

「何を言っている?」

雨下石(しずくいし)家なんて、とても人とは云えないでしょう? 貴方の相方さんは貴方が思っている以上にバケモノなのだから」

 蘭丸は何も言わない。此処で闇子と問答を繰り返しても詮無(せんな)いことだ。

「私は蘭丸のことがとても心配なだけ。ただ、それだけ……」

 闇が晴れて、人工の灯りの世界に蘭丸は帰ってきた。



 三階の空き教室。

 ノコギリは息も荒く、床に座り込んでいた。

 倒れてしまったら、もう起き上がることが出来ないような気がして椅子に体を預ける。

 外傷があるわけではない。霊力、体力、共に消耗し過ぎて動けないのだ。

 『誘蛾(ゆうが)の舞』は霊力を、体術である『渦潮(うずしお)』は体力を、ノコギリから相当に削り取ってしまう。

 加えて彼女には、どちらも不慣れで不向きな技なのである。

 『響き』の代わりの千里眼。呪符(じゅふ)術の代わりの操刃(そうば)術。

 雨下石家の血が色濃く現れることの無かったノコギリにとって、一介(いっかい)の妖と殺り合うのにも苦闘が付き纏う。

 相手が鬼の気を受けた人間であっても、それは変わらない。

 おかげで北枕(きたまくら) 石榴(ざくろ)には逃げられてしまった。

「ツノが……無かったですわね」

 石榴は外道。本命は小山内 誄のほうだ。

 吸血鬼(しか)り、鬼の気というものは伝染する。

 石榴は何らかの理由で、(ある)いは鬼の気まぐれから気を貰ったのだろう。

 その力を彼女が自ら望んだのかどうかまではノコギリには分からない。

 元々、友達と云うわけではないし、どんな人間かもよく知らないのだ。

「やっぱり、まだまだ修行不足……」

 ノコギリは自身の髪の一部である青い部分に指で触れた。

 もしも自分が青い髪だけを持って産まれていたならば、鬼の亜種など数秒で捻じ伏せていただろう。

 そんな思いは常に彼女の何処かにあるはずだが、その手の考えに取り憑かれてしまうほどノコギリは弱くない。

 彼女は仮定の願望が人の中の鬼を呼び覚ましてしまうことを知っている。

 初めから無いものを頼っても仕方がない。

 ノコギリはノコギリの手札で勝負するしかないのだ。

「兄様、あとは頼みます……」

 亜緒に後を託してノコギリは床に倒れ込んだ。

 * * * * * * * * * * * * *


 石榴はおぼつかない足取りで、どうにか二階まで下りることが出来た。

 階段は下りたというよりも転げ落ちたと云ったほうが近く、満身創痍(まんしんそうい)だ。

 ノコギリの放った『渦潮』は、屈強な大男でも喰らえば内臓が破裂して即死する。

 それほどの衝撃を正面からカウンターで受けたのだ。

 まだ生きているのは、(ひとえ)に石榴が鬼の気を体内に宿しているからに他ならない。

「雨下石……桜子……」

 石榴は息も絶え絶えに、委員長らしくない委員長の名前を口に出した。

 声にすることで自分が今まで持っていた彼女のイメージを再確認する。

 成績は常にトップ。スポーツ万能。何でも卒なくこなし、教師からの評判も良いお嬢様。

 石榴が知っているのはせいぜいその程度の、一面とも云えない桜子の姿だ。

 世に(あやかし)が存在して、それを退治する人間がいるのは知っていた。

 余程の世間知らずでなければ誰でも知っていることだ。

 しかし毎朝顔を合わせるクラスメイトの中に、そんな(やから)が混じっているとは夢にも思わなかった。

 ――雨下石 桜子さんに勝つことが出来る力を貴女にあげる。

 一ヶ月ほど前、小山内 誄は人の心を見透かしたような表情で石榴に言った。

 思えば、それが始まりだった。

 半ば強引に鬼の力を押し付けられたときには、流石(さすが)に悩んだ。

 人で無くなったのが問題ではない。殺される可能性を持ってしまったことが問題だった。

 しかし、三日もすると考えが変わった。

 便利なのだ。

 眠らなくても疲れない体と集中力はより勉強に身が入るようになったし、成績も上がった。

 苦手だった運動も苦にならない。

 何よりも、嫌いな人間をいつでも始末できるという立場は心地が良かった。

 (すで)に石榴は何人か人を殺している。

 むやみに体を触ってくる無神経な家庭教師。

 父親の浮気相手。

 母親の浮気相手。

 それと気まぐれに何人かの老若男女。

 生きるために、食べるために殺すのではない。

 自身が嫌悪を感じる対象へ向けた純粋な殺意だけの行為。

 雨下石 桜子だって、そのうち殺すつもりでいた。そうすれば学年トップは自分になる。

 要は人外の力を持っていることが周囲にバレないよう、上手く立ち振る舞えば良いのだ。

 そして、ゆくゆくは社会的な権力を手に入れる。 

 誰からも強要されることなく、指図されることのない立場。

 そう成ればきっと、自分は(ようや)く幸せになれるはずだ。

 そう成ればきっと、寂しくない。

 それが石榴の願望であり、そのためには人を超えた能力は必要不可欠だった。

 しかし今、そんな野望は儚く消えようとしている。

 明らかに自分を殺そうとする者たちが校舎内を動いている。

 それは疑いなく妖退治の専門家であり、それも複数だ。

 小山内 誄を刺した(かすみ) 月彦(つきひこ)もその一人だろう。

 もしかしたら、今日という日はもう前から周到に計画されたことであったのかもしれない。

 石榴は危機感で全身が震えた。

 間違いなく、自分も標的の一人だからだ。

 罠に嵌ってしまったと思った。同時に小山内 誄を殺す好機かもしれないと思う。

 石榴が最初に殺そうと思ったのは、自分に力を与えた誄だった。

 人を超えた力を持つ者は一人でも少ないほうが良いし、元々頼んで貰ったものでもない。

 誄は石榴にとって、一番の邪魔者であったのだ。

 ところが、どういうわけか殺すことが出来ない。

 殺しても死なない。という単純なものではなく、誄を殺そうと考えると思考がひっくり返ってしまい、体が動かなくなるのだ。

 心は正常に動くのに、思考が働かない。

 体を動かす命令が途中で消えてしまうのだ。(ある)いは消されているのかもしれない。

 どちらにしろ、自分が誄を殺すことは出来ないのだと石榴は悟った。

 ならば妖退治屋に殺してもらえば良い。

 もちろん、自身は生き延びる前提での話だ。



 一階へ辿り着く頃には、石榴のダメージは大分マシなものへと回復していた。

 それでも体を廊下の壁に預けながら正面玄関を目指す。

 時折視界がぼやけるのは、視神経か脳にまだダメージが残っているのだろう。

 足が(もつ)れ、倒れた。否、倒れるところを誰かに抱えられた。

 細いがしなやかな筋力を感じさせるその腕の温もりは、おそらく男性のものだ。

 黒い着物を着た影のような、闇のような美しい青年の姿が石榴の瞳の中に映る。

 石榴は少しだけ見惚れてから、しまったと思った。

 此処には誄を除いて敵しか居ないはずだ。否、石榴にとっては誄すらも敵である。

 男性が何か言っている。

 今の石榴には良く聞き取ることが出来ないが、どうやら安否を気遣う言葉のようだ。

 妙であることは、すぐに分かった。石榴は利発な少女だ。

 もしかしたら黒尽くめの男性は、自分のことを人だと誤認しているのではないだろうか。

 ――だとしたら。

 石榴は自分の体を支える腕の持ち主目掛けて鋭く、さらに鋭く爪を伸ばした。

 人の体に突き刺さる爪の感覚は、もう何度も経験している。いちいち数えてもいないほどに。

 その経験の中で覚えた死の手応えを確かに実感する。

 たいした間も置かずに両腕からゆっくりと力が抜けていったかと思うと、漆黒の青年が床に伏す音が伽藍堂(がらんどう)のような廊下に虚しく響いた。

 渚 蘭丸の最後はあっけなく、孤独であった。
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