第7話「小夜子の小夜曲」

文字数 4,148文字

 鍋島(なべしま)家のホールは、まるでがらんどう(・・・・・)の様である。広い床に転がるたくさんの縫いぐるみとグランドピアノが無ければ、殺風景極まりない。

 それでも廃墟のような印象は(ぬぐ)えないが、人が沢山(たくさん)(つど)うための場所ほど、人が居ないと異質に感じられるものだ。

 青い髪と瞳の青年は、その異質にこそ本来の居場所がある。

 普通に幸せな笑い声の中に彼の居場所は存在しないし、あっても(はなは)だ浮くだけだ。

 小夜子(さよこ)は、このただっ広い空間が嫌いだった。まるで自分の心の中がそっくりと現れたような、所在の無い場所。反響する声さえ、自分のものでは無いような錯覚に陥る。

 いくら縫いぐるみを作っても作っても埋まらない穴は、何か小夜子という存在を呑み込もうと待ち構えている怪物のように感じられて心細い。

 だから亜緒(あお)の存在は、(から)っぽの心に遅れてやって来た待ち人のように小夜子を安心させた。

 彼女にとって、アメンボ アイウエオという教師は特別な存在であった。

 ()ず、口(うるさ)くないのが良い。

 女学院の教師たちときたら、やれ規律を正しなさいとか、時間を守りなさいとか、いちいち小夜子を雁字搦(がんじがら)めにするくせに、一方では常に余裕を持った行動を心掛けなさいとか、淑女の(たしな)みというものは決して慌てず気品を持って言葉や行動に自重(じちょう)云々(うんぬん)とか、まるであべこべ(・・・・)な事を同時にさせようとするから訳が分からなくなって、何が大切なのかを見失ってしまう。

 目の前で何やら考え込んでいる教師は、そんな矛盾を押し付けるような言動は無かった気がする。

 小夜子が授業に遅刻して教室に入ってきた時も、見て見ぬフリをしてくれた。

 優しくて穏やかで、締め付けるばかりが教育ではないことを分かっている。

 それに鮮やかに薫るような青い髪と、深い湖面を覗くような神秘的な瞳の青色。清潔そうな洋装もとても良く似合っていて、こんな素敵な先生って、ちょっと居ないのではと思う。

 年上の若い男性というだけで、何やら頼り甲斐(がい)も感じるのだった。

「この子達、一つ一つ顔や体型が違うんだね。君の手作りなのかい?」

 亜緒は足元に転がる猫の縫いぐるみを一つ、拾い上げて言った。

「ええ。この子たちはミルクが寂しくならないようにって、作ったんです」

「ミルク?」

「飼い猫です。真っ白いから、ミルク」

「へぇ。なかなか洒落(しゃれ)た名前だ」

 亜緒は手に持っている縫いぐるみを一頻(ひとしき)り見つめてから、思いきり良く蹴り飛ばした。

「何をなさるの!」

 小夜子は目の前の教師の暴挙に慌てた。

「いや、可愛くない顔をしていたから、つい」

「酷いです。先生」

 悪びれもしない青年に向かって、少女が短い非難を浴びせる。

「まぁ、次はもっと可愛い奴を作ると良い」

 亜緒は数歩ごとに縫いぐるみを踏み潰しながら、広いホールをうろうろと歩き回った。

「こんなに縫いぐるみが転がっていると、歩き(にく)くないかい?」

 小夜子には不満を口にする教師が、ワザと縫いぐるみを踏みつけながら歩いているようにしか見えない。

 彼がわざわざ家を訪ねてきた理由を考えてしまう。学校へ行くよう注意の一つくらいはするものと思っていたのだが、そんなつもりは無いようだ。

 不可解な行動は、何一つ目的を持っていないようにさえ感じられる。

「君は平気なの? 歩き難くない?」

 不安な視線で見守る小夜子に、亜緒の(とぼ)けたような声音(こわね)が被さる。

「あの……先生は私に御話なり、御用なりがあって尋ねてらしたのでは――」

「おお! こんなところにピアノがあるじゃないか」

 白々(しらじら)しい声がホール中に響いた。今、気づいたようなフリをしているが、誰だってホールに入れば真っ先にグランドピアノが目に付くはずなのだ。

 ――なんだか、この人は妙だ。

 亜緒の一挙一動が、とうとう小夜子に不安を超えた不信感を抱かせ始めた。

 似非(エセ)教師は小夜子の許可無くピアノの屋根を上げてから、鍵盤蓋を開ける。

 そして椅子に座ると突然ピアノを弾き始めるのだった。

 モーツァルトの「トルコ行進曲」。だが、少しテンポが速い。

 曲を弾き終えると、小夜子が控えめな拍手の花を贈った。

「素敵! 素敵! 先生はピアノも達者でいらっしゃるのね!」

 亜緒の演奏が気に入ったのか、小夜子は子供のようにはしゃぐ。彼女の中に湧き上がった浅からぬ興奮は、芽吹き始めた不安の種を何処(どこ)かへと吹き飛ばす勢いである。

「でも、あんまりにも早弾きだわ。それじゃ行進というよりも、駆け足みたい」

 小夜子が楽しそうに小さく笑った。兄に甘える妹のようにも見える。

「猫は僕を見ると、いつも早足で逃げていくものだから」

「猫?」

「僕はどうも猫に好かれない性分(しょうぶん)みたいなんだな」

 小夜子はどうしてトルコ行進曲から猫の話になるのか訳が分からなかった。

 授業内容や先程までの行動を見るに限り、彼はどうやら変わり者であるらしい。

 それでも小夜子の亜緒に対する興味は尽きない。魂の()()を知る者が、普通であってはいけないとさえ思う。

「先生は猫、お嫌いですか?」

「いいや。大好きだよ。実は春先くらいまで一緒に居たんだ。君のと違って黒猫だったけどね」

「死んで……しまわれたのですか?」

 亜緒は唖然(あぜん)としたような表情を作った後、すぐに勢いよく笑い出した。

 反響してホール中の縫いぐるみが笑っているようにも聞こえて、気分が悪い。

「もう! 私は真面目に聞いていますのに!」

 ()ねているような声音とともに、少女は口を尖らせる。

「ごめんよ。だって、君があまりにも可笑(おか)しなことを言うからさ」

「可笑しなことですか?」

(ぬえ)は殺したって死なないよ。それは君だってだろ?」

 ふと、小夜子は目の前にいる青年に対して、漠然と感じる不安の正体が分かった気がした。

 彼は小夜子を見ていないのだ。

 会話をしているようで、していない。噛み合っているようで、合っていない。

 ちぐはぐ(・・・・)な不協和音は、少女の心を不安定に揺さぶり続ける。

 目の前の青年と話していると、(むな)しさばかりが(つの)ってゆく。それはとても大きな虚無(きょむ)で、まるで質量の無い津波に呑まれてゆく感覚に胸が詰まる。

 青年は自己の中で完結した言葉を使っていて、相手と会話を成立させようなどとは考えてもいないのだ。

 そう思うと小夜子は自分が何処にも存在していないような寂しさ、虚しさに襲われて不安になるのだった。

「小腹が()いたな」

 なんて言葉をわざわざ口に出しながら、懐から甘栗の袋を取り出す。

 小夜子の胸中(きょうちゅう)などお構い無しに、栗を一つ取っては器用に皮を()いて食べ始めた。剥いた皮は、その辺に捨てる。小夜子の表情が不機嫌に曇る。

「甘栗の皮を上手く剥くにはコツが要るんだ。君も食べるかい?」

「いいえ。私、甘栗なんて好きでも何でもありませんから」

 不機嫌を口調で表明した後、小夜子は何だか悲しくなる。

 (ばく)とした正体の分からぬ孤独から、小夜子は半ば無意識に亜緒の手を取った。

「先生。場所を変えましょう」

此処(ここ)は嫌いかい?」

「此処では何のおもてなしも出来ませんし、落ち着いてお話も出来ません」

 魂の在り処を尋ねるには相応(ふさわ)しい場所がある。少なくとも此処ではない。

 小夜子は亜緒を応接室へと案内した。雨下石(しずくいし) 桜子(さくらこ)の自由を奪った部屋だ。

 部屋に入ると、小夜子はレコードを掛けた。

「三つのジムノペディだね」

 小夜子はゆったりとした心に染み渡る曲が好きだ。落ち着く。

「さっき先生がテンポの良い曲を弾いてくだすったから、今度は静かな曲でもと思って」

「エリック・サティは『意識的に聴かれない音楽』という発想に到ったのが、エライと()えばエライ」

 それが成功したかは別として。と、亜緒は付け加えた。

「まるで音楽の先生みたいなことを言うのですね」

 クスクスと小夜子はご機嫌だった。好きな音楽の話題は、話すのも聞くのも楽しい。

「家具のように日常風景の一部であるための音楽という発想は、今後一部の音楽家たちの重要なテエマになってゆくと思うよ」

「でも、積極的に耳を傾けてもらえないなんて、なんだか音楽が可哀想……」

「存在はするけれど、誰も気に止めない。なんだか幽霊みたいだね」

「存在もなにも、幽霊は元々目に見えないものですわ」

「音楽だって人の目には映らないぜ?」

「でも楽器があって、演奏者は存在します。幽霊は意識的になろうとなるまいと、存在しません」

「なるほど。素晴らしい見解だ」

 小夜子は頬を染めて俯いた。熱く語った自分を恥ずかしいと思ったし、褒められたのも照れ臭かった。

 亜緒は再び取り出した甘栗の袋に手を突っ込む。

「あ、そんなものを食べるのはお()しになって」

 どうせまた、その辺に剥いた皮を捨てるに決まっているのだ。

「すぐにお茶を淹れてきます。椅子に座ってお待ちになっていてください」

 小夜子はパタパタと出て行った。亜緒には彼女の足音を明確に聞くことが出来た。



 ノコギリは仏間に転がりながら、階下に亜緒の「響き」を感じ取っていた。

「兄様は可愛い妹を放っておいて、いったい何をしているのでしょう?」

 此処にも亜緒に不信を抱く少女が一人、飢えと渇きに耐えながら、泣きたくなるような気持ちで沈んでいた。
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