第10話「夜を支配する者たち」

文字数 4,122文字

 寒い冬の夕暮れである。夕暮れといっても、この世界の空に郷愁を誘う赤は映らない。

 黒く輝く太陽が町の谷間に沈んでゆくだけだ。

 ガス灯が照らす煉瓦(レンガ)道を三人の異端者たちが歩いていた。

 一人は紳士的な気品を漂わせたオリーブ色の髪をした東欧人。

 一人は目つきの悪い痩せた身体つきの少女。

 もう一人は(あけ)に染めた派手な着物を着た妖刀使い。

 彼らは食事を終えて帰るところだった。

「どうやら今のところ、神は私に味方しているようだ」

 獅子丸(ししまる)は伯爵の言葉から感じた違和感をそのままにできず、聞き返さずにはいられなかった。

「おかしなことを()うんだな。神にとって伯爵は涜神(とくしん)者ではないのか?」

「それは見解の相違というものだよ。神というのはね、背徳者をこそ愛すのさ」

 伯爵の態度はいつも楽しそうだが、今夜はとりわけ機嫌が良さそうだ。高揚が何気ない仕草からも伝わってくる。

「そこまで慈悲が深いからこその神なのだよ。捉え方を変えれば、ユダを生んだのはその慈悲の深さゆえとも云えるが……君には退屈な話だろうから、ここまでにしようか」

 伯爵は楽しげに始めた話題をすぐに締めくくった。正しい判断である。獅子丸は聖書に興味が無い。

「どのみち俺みたいな一介の剣客には神の考えることは分からんし」

 そう云いながら欠伸(あくび)をする妖刀使いに、貴族は好意的な笑みを向けた。

 伯爵は獅子丸の竹を割ったような性格を結構気に入っている。それは監視者と監視対象という関係をも超えた奇妙な親しみなのであった。

「ソルト・アンはどう思うかね」

「嘘つき野郎……それだけ」

 いつも乾いた声に言葉を乗せる少女だが、この時ばかりは悲しみに湿った声音を発す。獅子丸はそこが気になったが、表情には出さずに歩を進めた。

「ま、神の解釈は人の数だけ存在するということかな」

「おいおい、お前達は人ではないだろう」

 吸血鬼。永遠の時の散歩者。夜を支配する者。

「私達だって元は人だったのだよ。遠い昔のことだが」

 遥か彼方を懐かしむような表情は一瞬で消えた。

 獅子丸は長く伸びている前髪をかきあげた。あからさまに剣を(はら)んでいる切れ長の眼光が薄闇に光る。その視線はまるで鋭い刃のようでもある。

「しかし音楽にしろ絵画にしろ文学にしろ、芸術というものにはやはり神の息吹を感じざるをえない瞬間が存在することも確かだ」

 彼らの才能が生み出した世界は不死だ。と、伯爵は付け加えた。

 例えばモーツァルト、例えばクリムト、例えばドストエフスキー。

「俺には芸術とやらも神と等しく、理解の範疇(はんちゅう)外だよ」

「では君の好きな剣術に例えてみようか。雨下石(しずくいし) 浅葱(あさぎ)の剣はまさに芸術の域だと思うのだが」

「人や妖を殺す技術の何処(どこ)が芸術なんだよ。理解に苦しむぜ」

 獅子丸は深みを増してゆく闇の中でせせら笑った。それはもちろん、自分に向けた皮肉でもある。

「しかし彼には神業という言葉がピタリと当て嵌まると思うのだがね」

 何か納得したような獅子丸の沈黙を見て、今度は伯爵が笑った。獅子丸の冷笑とは違って、温かみのある笑顔だ。

「ともあれ、これで最も厄介な『落花葬送(らっかそうそう)』は封じたも同然だ」

「どういうことだ?」

 獅子丸が問う。彼は雨下石家の中で何が起こったのかを知らない。

「ついさっき、彼は雨下石家の禁を破ったのさ。斬ってはならない者を斬った。これは重罪だ」

「厳格な師匠がそんな過ちを犯すとは思えないが……」

 しかし伯爵が嘘を吐いているようにも見えない。

「今頃は座敷牢かな。これで一人は戦線離脱ということだね」

 瑠璃姫(るりひめ)甘言(かんげん)を囁いたのは伯爵だ。

 彼の手口に獅子丸は後味の悪さを感じたが、雨下石家が切り札の一枚を見す見す捨てるとも思えない。

 無敵の剣客は、いずれ吸血鬼退治に乗り出してくるのではないだろうか。

 充分にありそうな話である。



 橋の途中で伯爵の優雅な足取りが止まった。目の前に立つ、やはり異質な三人の姿が原因だ。

 外套(コート)姿の洋装に鮮やかな青い髪を(なび)かせた青年。右目には眼帯。

 白い死装束(しにしょうぞく)の自動人形。

 そして漆黒の着物と羽織りを着た美貌の剣客。

 彼らもまた、違う形で夜を支配している者たちだ。

「やぁ、伯爵」

 洋装の青年が口を開く。三人の真ん中に立ち、なにやら一番偉そうな雰囲気を纏っている。

「何処かで会ったかな?」

「雨下石家の若様だ。次期当主の……」

 亜緒(あお)の代わりに獅子丸が答える。

 名は教えない。

 雨下石家は呪術を生業(なりわい)とする陰陽師の家系だ。真名(まな)は伏せて紹介するのが常識であり、作法でもある。

 獅子丸は吸血鬼の味方ではない。妖が蔓延(はびこ)る世界で、迂闊に名前を教えるなど敵に塩を送るような真似はしない。

貴方(あなた)のことは噂で聞いただけだ。遠い国からやってきた貴族」

 青年の青い左目が闇に映えて輝く。

「なるほど、雨下石家の慧眼(けいがん)というやつか。たいしたものだ」

 伯爵の声音から優しさが消えた。橋の下は川である。流れる水は吸血鬼の弱点だ。その地形的優位性を計算して待ち伏せていたのだとしたら、(あなど)れない。

 それともこれは偶然の出会いであるのか。どちらにしても、獅子丸はこの状況を予期せぬ好機と捉えることにした。

 雨下石家次期当主の隣に立つ剣客に見覚えがあったからだ。

 ――確か(みぎわ) 蘭丸(らんまる)といったか。

 狒狒(ひひ)退治の(おり)、獅子丸に圧倒的な強さを見せつけた妖退治屋。彼がソルト・アンを抑えてくれれば、自分は伯爵を斬れるかもしれない。

 ――いやさ、必ず斬るさぁ!

 妖刀使いの救いがたい血が騒ぐ。

「おい、雨下石家からは大至急と云われている。寄り道はまた今度にしろ」

 蘭丸が消極的な態度で亜緒に耳打ちする。

「この紳士こそ僕らが呼ばれた理由だよ。彼は吸血鬼だ」

「なるほど……な」

 いつのまにか蘭丸の指が妖刀に伸びている。もはや橋全体が彼の間合いであり、逃げ場は何処にも無い。

「彼が刀を抜けば、貴方は一瞬で首と胴がさようなら(・・・・・)だ」

「だろうね。『電光石火』は尋常ならざる(はや)さが取り得の妖刀だ。私でも避けられるかどうか……」

 獅子丸は蘭丸の持つ刀が妖刀であることを初めて知った。好機が確信に変わる。

 ――殺れる。それも確実に!

「気が変わったぜ伯爵。俺も神を信じる気になった。ヤツの気紛れってのをな」

 獅子丸も妖刀の(つか)に手を伸ばす。

「やれやれ、お仲間の『名残狂言(なごりきょうげん)』も私を()る気満々だ。しかし困ったな」

「命乞いか?」

「いやね。闇子(やみこ)から『電光石火』には手を出さないようにと云われていてね」

 蘭丸の剣気が増す。彼に取って「闇子」は禁句だ。

「まさかこの状況で勝てるとでも?」

 いつの間にか周りから人が居なくなっている。亜緒が人払いの術を使ったのだろう。

「勝てるとは思っていないが、どうやら負けることもなさそうだね」

「たいした自信だが、勘違いしないでほしい。少なくとも僕は貴方に敬意を払っている。一日一人の契約も守っているし、何と云っても騒がしくないのが良い」

「雨下石家の次期当主が私の吸血行為を認めるのかね」

 伯爵が細い顎先に指を当てた。薄い笑みを薄闇の中に浮かべている。

「人だって鳥や牛を食っている。命をどうこう云えやしないさ」

「失礼だが君は相当変わっているようだ。自分が人と家畜を同列に扱っていることに気づいていないとも思えないが」

 この場に居る誰もが亜緒の言葉に違和感を感じていた。特に蘭丸と獅子丸の二人は亜緒の意見に同意できない。妖を滅する妖刀を持つ立場として。

「ただね、こちらにも困った事情があって、君が狙っている娘は僕の妹なんだな」

「おやおや。結局そういう話になってしまうのかい」

「今後ノン子に付き纏わないと約束してくれれば、僕達は君に手出しはしない」

 当然、「今は」という注釈がつく。やはり吸血鬼は討伐対象であることに変わりは無い。

 蘭丸も目を(つむ)る。それは亜緒の意見に反対しないという意思表示だ。

「次期当主、お前本気で云っているのか?」

 獅子丸が吼える。やっと巡ってきた千載一遇の機会を逃すのは莫迦(ばか)げている。

 そもそも、この場で吸血鬼を(たお)してしまえば大事な妹が狙われる危険も同時に消せるのだ。

 ――この男、やはり何を考えているのか分からない。

「こちらにも問題の優先順位というものがあるんだよ。伯爵は後回しだ」

「有り難い申し出だが、残念ながら君の妹を諦める気は私には無いんだ」

「なら此処(ここ)で死んでもらうしかなくなるが?」

「無論、死ぬ気もないんだな」

 伯爵がステッキで橋をコツコツ二回叩くと二体の吸血鬼の姿が消えた。

 妖刀使いたちは目の前で何が起こったのか分からなかった。それほどに一瞬だったのだ。

蝙蝠(こうもり)だ!」

 亜緒が叫ぶ。空には無数の蝙蝠の群れが二手に分かれて羽ばたいてゆく。

「どっちが伯爵だ?」

 獅子丸が迷っている隙に亜緒と蘭丸は一方の群れを追い駆ける。

「チッ、頼むからこっちがアタリであってくれよ」

 舌打ちの後、白百合色の髪を靡かせながら獅子丸はもう一方の蝙蝠を追う。

 彼の長い夜は始まったばかりだ。
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