第13話「悪魔を憐れむ歌」

文字数 3,467文字

 久遠(くおん) 獅子丸(ししまる)は決して弱くない。

 剣術にかけては浅葱(あさぎ)に見込まれるだけの才能と実力を持ち、雨下石(しずくいし)流中許しの腕前である。

 「中許(なかゆる)し」とは下から数えて二番目の伝位だが、それ以上は門外不出となるから仕方が無い。

 それでも妖を斬ることに特化した雨下石流であるから、妖怪退治屋としては一流ということになる。

 ただ、相手が吸血鬼となると分が悪い。黒い太陽が輝くこの世界で、吸血鬼は特級に位置する妖である。

 それでも妖刀持ちは破格の強さを誇るのだが、獅子丸は妖刀使いになってまだ日が浅い。少々荷が勝ちすぎる相手であるのは仕方のないところだ。

 それにしてもピアノの音が耳障りだった。外界の音は遮断されているのかもしれない。

「まるで結界だな」

 獅子丸は速攻で勝負をつけるつもりだったから、この展開は面白くない。

 妖刀の能力を過信しすぎた感もあるし、思ったよりもソルト・アンが獅子丸の嫌がる戦い方をしてくるのも予想外だった。

 敵を甘く見ていたということだろう。この状態が続けばジリ貧である。

 獅子丸は足を止めた。空蝉(うつせみ)は体力の消耗が激しい。

 ソルト・アンの狙いが獅子丸の体力と精神に疲労を蓄積させることならば、今は無駄に動かずに敵の攻撃を(さば)いたほうがいい。

 体がいうことを利かなくなったら、好機が訪れても取りこぼすだけだ。それは獅子丸の死を意味する。

 この霧では院内へと戻る扉の位置さえ掴めないし、デタラメに音量が変わるピアノの音も聴覚、おそらくは平衡感覚(へいこうかんかく)も乱されているだろう。

 さっきまでメスを振り回しながら迫ってきた従軍看護婦たちの動きが止まったのは不気味だが、これで少しは休むことが出来る……わけでも無さそうだ。

 白い闇の四方八方から、獅子丸に向かってメスが飛んできた。一本ではない。次から次と絶え間なく、何十本ものメスが狙ってくる。

「師匠のナイフに比べたら児戯(じぎ)だな」

 紙一重でメスを(かわ)し、時にはしなやかに妖刀で弾きながら、昔のことを思い出す。

 いつ、どんなときでも突然ナイフを投げつけてくる異常な師匠の下で獅子丸は剣術の修行をした。

 向かってくるナイフを避けられなければ重症を負い、そこで破門という無茶苦茶な毎日は気を抜く暇など与えてはくれない。

 運よく軽傷で済んだとしても、その出鱈目(でたらめ)過ぎる環境の中で精神を病み、多くの門下生達が脱落してゆく中で獅子丸だけが残ったのだ。

 その狂った状況に比べたら(ぬる)い不意打ちである。

 浅葱のナイフはもっと速く、鋭く、的確に急所を狙ってきたのだから。

 獅子丸自身、あの常軌を(いっ)した訓練がこんなところで役に立つとは思ってもみなかった。何でも経験しておくものである。

「それにしても、向こうはよく俺の位置が正確に分かるな」

 獅子丸だって気配や殺気を消している。この霧の中で、敵だけが獅子丸の位置を特定できるのは明らかにおかしい。

 ――もしかすると、奴等は五感に頼っていない?

 この霧はソルト・アン自身のようなものだから、彼女から信号のようなものを受け取って動いている可能性が高い。

「だとしたら、操り人形のようなものなのか」

 それならば妖刀『名残狂言(なごりきょうげん)』の能力が発動しないのも納得がいく。この妖刀は、本体へ斬りつけなければ意味がないのだ。

 思考する霧、というのは厄介である。獅子丸の持つ妖刀との相性は最悪だ。

 ――奴なら、この状況をどう乗り切るだろうか。

 奴というのは(みぎわ) 蘭丸(らんまる)のことである。

 彼の持つ妖刀『電光石火(でんこうせっか)』も(はや)さが取り得の、直接斬るタイプの妖刀だ。苦戦はするだろうが、それでも奴なら何とか乗り切ってしまうだろう。明確な理由は無いが、何故かそんな確信を持ってしまう。

 さっき蘭丸から感じた剣気は、それだけの信頼を預けるに()るだけの説得力があった。

 ――!

 突然、獅子丸の膝が折れる。足に何本かメスが刺さっていた。痛みなど感じないほどに疲労の度合いが激しい。

「これまでか……」

 追い討ちのメスが今度は上半身に突き刺さり、倒れこむ獅子丸を従軍看護婦達は手にした医療用の大型メスで切り裂いていく。

「やった」

「殺した」

「妖刀使いを」

「始末した」

 たどたどしい口調で言葉を漏らしながら、緩慢(かんまん)な動作は止まることなく、人形たちは容赦がない。

 が、歓喜は一瞬で動揺に変わった。獅子丸の体が消えたのだ。血の跡すら無い。

「居ない」

「消えた」

「逃げた?」

「何処に?」

 人形たちの声は、すなわち霧に姿を変えたソルト・アンの言葉だ。

 刹那(せつな)、看護婦たちの首が一斉に()ね跳ぶ。

「霧とはいえ『名残狂言』の刃に触れている状態だから、少なからず影響が出たんだな」

 霧の一部がソルト・アンの首だけを実体化させ、白い闇の中に浮かばせている。

「幻覚を見せる能力……」

「って、()われているみたいだけどな。俺の振るう『名残狂言』はちょっと違う。幻覚もすぐにバレちまうし」

「どういうことなの?」

「妖刀は所有者によって、その能力を変える」

 基本能力こそ変わらないが、持ち主の個性によって多少の能力変化が生じるのだ。

「例えば前の所有者は幻を使って感覚を操作する能力を使ってた。絶対に幻を幻と(さと)らせない能力だ」

 「ま、俺の方が強かったわけだが」余計な一言など云える余裕も無いはずなのだが、そこが何といっても久遠 獅子丸なのであろう。

 自ら妖刀の能力の話をするのは、もちろん時間を稼ぐためだ。どのみち彼女は伯爵から五振り全ての妖刀の情報を聞いている。

「早い話、幻覚にもいろいろあるってことだな」

「それでも貴方(あなた)はもう体力の限界でしょう?」

 しかし幻覚の影響を受けた今のソルト・アンでは、人形たちに獅子丸の正確な位置を伝えることが出来ない。

 双方手詰まりの状態だ。

「お前も人だった頃があるんだよな」

 寡黙な吸血鬼は沈黙を守っている。

 獅子丸の言葉だけが、静謐(せいひつ)な霧の中に強く響き渡ってゆく。

「神は慈悲深く、皆に平等だという。どうして神が都合よく人にだけ優しいのか分かるか?」

「それは……神が贔屓(ひいき)をするから」

 たどたどしく(つむ)ぐ声は、白に溶けるように頼りない。

「違う。神を創ったのが人間だからだ」

 ソルト・アンは再び沈黙した。

「だから人間だけに見返りを求めない慈愛を注ぐ」

 ソルト・アンが何かを云おうとして動かした唇からは、結局沈黙しか生まれてこなかった。彼女の中で葛藤が続く。

「神は人が創った人形なんだ。お前の云う通り、嘘なのさ。まやかしだ。その証拠に誰にも平等なんて世界、あるわけがない」

「神は……まやかし」

 ソルト・アンが大人しく獅子丸の云うことを聞いているのは、彼が持つ妖刀の能力と無縁ではない。獅子丸の声は、ソルト・アンの意識の深部にまで侵入してゆく。

「結局、人を救うのは人なんだ。神じゃない」

 (かじ)りかけの硬いパンと(こぼ)れたミルク。そのイメージを爆音が吹き飛ばす。

「知っていた。でも、人は私を救わなかった。伯爵様がいなければ、私は今頃――」

 突然、頭を抱えながら(うめ)く看護婦たち。ブラックドッグが霧の外に向かって吼えている。

「なんだ?」

 獅子丸がソルト・アンへと視線を戻すと、さっきまで霧の中に浮かんでいた首が消えている。

 看護婦たちも、犬も、いつの間にか消えている。

 何が起こっているのか、獅子丸には見当がつかない。分かるのは今、ソルト・アン自身に何か非常事態が起こっているらしいということだけだ。

「霧の外からの干渉(かんしょう)……」

 それ以外は考えられなかった。やがて霧が渦を巻きながら空間の一点目指して収束してゆく。

「ああ……」

 屋上の扉から突き出た刃が、実体に戻されたソルト・アンの胸を背後から刺している。

 まるで(はりつけ)にされたように動くことができず、少女は冷たく光る銀に視線を落とした。

月下(げっか)……美人(びじん)……」

 扉の向こう側では(あや)を吸血鬼にされた笑顔の妖刀使いが、彼には珍しく怒りの感情に支配されながら刀を握っているに違いなかった。

 獅子丸がソルト・アンの元へ駆け寄ると、刀は引き抜かれて扉には刃の跡さえ残ってはいない。

 妖刀『月下美人』は目に映る実体は斬れない。物質を無視して概念(がいねん)のみを斬る。

 斬ったのは吸血鬼の能力か、記憶か、存在そのものか。それは月彦(つきひこ)にしか分からない。

「おい、ソルト・アン。意識はあるか?」

 獅子丸の声に反応して少女の瞳が動いた。

 獅子丸は彼女の腕を取ると、妖刀『名残狂言』の刃先で白く細い指先に少しだけ傷をつけた。

「お前は女の子だからな……」

 体に傷痕が残らないように。なんて言葉があまりにも無意味に思えて、途中から声を飲み込む。

 妖刀『名残狂言』の能力が発動する。
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