第27話「獅子丸の実力」
文字数 4,834文字
己の姿を見て叫んだり、あるいは刀を抜いてかかって来なければ、殺すことも無かったろうにと思う。また、やはり殺していたかもしれないとも思う。
狒狒にとって、人は食料にすぎない。
人が鳥や牛を殺して食べるのと同じだ。もちろん、生きるために食べる。
人を食べなくても、鹿や猪などの動物を食べても生命活動を維持することは出来る。しかし人だって、例えばタンパク源を動物性から植物性に変えても命は繋げる。
そこは「好み」の一言で済ますことの出来る問題だ。否、問題にすらならない。食べたいから食べるのであって、そこに深い意味など無い。
闇は良い。と、狒狒は思う。醜い自分の姿を隠してくれる優しさが好きだ。そこが何より気に入っている。
人の心を読み人語を解するということは、即ち「人」を知るということだ。嫌でも知ってしまうと云ってもいい。だからといって、価値観が人に順ずるわけではないが。
狒狒は人を喰いながら「ヒヒ」と笑うから狒狒なのだ。
ただし、それは人間が勝手に付けた名称であって、彼そのものを表す言葉には遠く足りない。
では、自分とは一体何者であるのか? それが血に塗れた妖を悩ませる一つの大きな疑問であった。
パチ……パチ……パチと控えめな拍手が間を置いて闇を伝ってきた。音の方向を見やると一人の剣客が立っている。狒狒に気配を感じさせないのだから、かなりの
「また、たくさん殺しましたね。殺しすぎな気もしますが」
「お前は……妖刀使いか」
さすがの狒狒も妖刀使いの心を読むことは出来ない。妖刀の加護は強力である。
「御名答。妖刀『
「
威勢を張るでもなく、一見して弱そうに見える。こういう手合いが一番危険だということを、狒狒はよく知っている。
「お前も俺を殺しに来たか」
ふふ。と、月彦は珍しく笑顔から微かな声を漏らした。
「貴方の相手はボクの後ろに控えているこの人」
物陰から派手な出で立ちの男性が姿を現す。年の頃は少年以上、青年未満。女性らしさと男性らしさが共存している奇妙な男だ。
そして、この男も狒狒に気配を
「俺一人で
「名声が欲しかったんでしょう? ここは譲りますよ」
「へっ。ありがてぇ。感謝するぜ月彦さん」
「ボクは他にやることがありますから」
月彦は音も無く、この場から消えた。
獅子丸は月彦に一目置いている。と云うよりも、「妖刀使い」に敬意を払っている。だから先程会った
「妖刀使い」は彼の憧れではあるが、なろうと思ってなれるものではない。だから獅子丸は日本一の妖退治屋を目指すのだ。
「そういうことだゴリラ野郎! 俺は
「ヒヒ……」
獅子丸を
「随分と余裕じゃねぇの。俺様を足元に転がっている連中と一緒にしたら死ぬぜぇ」
「コイツらも充分強かった。特にこの男は
狒狒は鬼の面を被った男を獅子丸に向かって蹴りつけた。飛んで来る死体は獅子丸の体をすり抜けて、廊下の向こうへと消えてゆく。
「面白い技を使う」
「
死体が獅子丸の体をすり抜けたように見えたのは
《負けたら承知しませんよ》
「それじゃあ、そろそろ狒狒退治を始めるとすっかね」
獅子丸が名刀『
「アンタが人の心を読むってなぁ聞いてるぜ。けど刀の
これも先程と同じ目の錯覚である。
浅葱が獅子丸に教えた雨下石流歩術の一式『
狒狒が獅子丸の攻撃を予見して後方へ跳ねた。右腕を狙ってくるのは分かっていたから、足の俊敏なバネを利用して間合いを大きく取ったのだ。どこから攻撃が来ようとも、刀の届かない距離まで離れてしまえば意味が無い。
ところが狒狒は斬られていた。首から感じる線形の鋭い痛みと赤い血の
「雨下石流剣術、『
得意げな獅子丸に対して、狒狒は何も喋らない。多少驚いているのかもしれないが、表情から感情を読み取ることは出来ない。
「意外か? 俺様の狙ったところ以外が斬られているのが」
その通りであった。狒狒にとって、初めて覚える得体の知れない感情。それは不可思議と好奇心と危機感が
獅子丸が絨毯を蹴って連撃を加える。狒狒の迷いから生じた隙を見逃す男ではない。
何度も何度も、彼が
狒狒からすれば
「なんだよ。大したこと
秘密は獅子丸の持つ刀、『小鳥丸』にあった。
『小鳥丸』の刃長は六十二・七センチ。標準的な打ち刀の長さと云える。
他の日本刀と比べて変わっているのは、切っ先から柄に向かって峰の部分にも三十センチほどの刃が付いているのだ。つまり、先半分は両刃なのである。
この一風変わった日本刀を持って、狒狒に向かって振り抜くと同時に戻す動作でまた別の部分を斬りつけているのである。
浅葱が普段から重要性を
「オラオラ! 未来の剣聖様のお通りだぁ! さっさとくたばりやがれゴリラ野郎!」
獅子丸が
戦況は獅子丸にとって優勢。にもかかわらず、
唯一の弱点と思われる顔は、狒狒が両腕でガッチリと護っている。他の部分は硬い体毛が邪魔をして刃が深く入らない。
――仕方が無ぇ。
「
獅子丸が腰に下げた竹筒の蓋を開けると、二匹の
獅子丸が左手の人差し指と中指を立てて、何やら呪文のようなものを口にすると、狒狒の両腕が顔から離れてゆく。
「そいつは特別製の管狐でな。
毒が入っている皿を教えてくれたのも、エレベーターから抜け出すことが出来たのも、この管狐のおかげである。
「何の策も無しにゴリラ野郎を退治できる。なんて、
浅葱直伝の『
「なるほど。お前は憑き物筋の人間か」
「だったら何だ?」
獅子丸の表情が露骨に曇る。
「そうかそうか。家族は皆、その管狐に喰われたか。気の毒になぁ」
「俺様は文字通りツイてるんでね。生き延びたってわけよ」
狒狒が嗤った。
「たった独り生き残って辛かったろう。いっそのこと、自分も一緒に死んでいたら良かったと思っているのだろう?」
狒狒は獅子丸の心を読んでいる。惑わせて動揺させ、集中力を乱す言葉を探っている。
「妹を喰らったコイツらの力を借りてまで生き長らえるとは、なんとも浅ましい男よのう」
「テメェはもう死ね……」
獅子丸が無表情に刀を構える。無防備になった狒狒の顔面を刺し貫いて、いい加減この
「俺よりも先に家族の仇である管狐のほうを始末したほうが妹も喜ぶんじゃないのかい?」
「貴様には分からないだろうがな。今じゃあ、
獅子丸は全身のバネを使って名刀『小鳥丸』を狒狒の顔面目掛けて押し込んだ。が、彼の殺意は気迫一枚分剥がされてしまっていた。
狒狒に向かって家族を語っている時点で、相手の術中に
狒狒は獅子丸の一撃を、その大きな両手で挟んで止めてしまった。
「くっ……」
押しても引いても動かない。突きの白刃取りなど聞いたこともない。
狒狒の腕に絡み付いていた管狐は、床に転がって伸びている。獅子丸の集中力が弱まったせいだ。
今度は獅子丸が瞬時に刀から手を離して、距離を取った。狒狒と力比べをして
日本一の妖退治屋を夢見る青年は、たった一瞬で切り札を三枚とも破られてしまった。
圧倒的なる狒狒の実力を前にして、獅子丸は自分の甘さを呪った。
「
何とか起死回生の一手を考えてみる。死んでしまったら、何もかもが終わりになってしまう。
獅子丸の目の前で、狒狒が『小鳥丸』を折って捨てる。彼は最後に残った刀までも失ってしまった。
そして狒狒の岩のような拳が唸りを上げながら獅子丸に迫る。
――これは……空気を裂く音か。
さして意味の無いことを考えながら、獅子丸の脳裏で走馬灯が回った。
久遠 獅子丸の戦いは終わったのだ。あとは死んで、人生という名の戦いも終わる。
突然、空気を切り裂く音が止んだ。
獅子丸は生きているのか死んでいるのか区別の付かない意識の中で、黒衣の袴姿の嵐を見た。
その
交差する互いの視線は鋭く重く、まるで殺気が質量を持っているかのように獅子丸の呼吸を不規則に荒くする。
うずくまる彼の目の前に、狒狒の右腕が丸太のように転がってきた。
「音よりも速く斬るから、花のように潔く死ね……」
嵐は静かに