第15話「蘭丸参戦」

文字数 5,179文字

 埃っぽかった境内(けいだい)の空気は雨ですっかり洗い流されて、澄んだものへと変わった。

 少し湿気が残る透明が辺りを揺らすと、ずぶ濡れの亜緒(あお)(むらさき)には肌寒さが重く圧し掛かる。

 吹いてくる風が何処か懐かしい声を紫の耳元へと届けては去っていく。

『兄様、痛くない?』

 殺子(さちこ)の声だ。

「そら痛いよ。せやけど殺子はもっと辛いやろ? 泣き言なんか言えん」

 紫は空を仰いだ。

 星ひとつ輝かない聖なる闇。

 それはきっと、自分に最も相応しい色であると思った。

「お前でも人の心配をするんだな。否、バケモノだったか」

 確かに沃夜(よくや)は人ではない。亜緒には紫が沃夜を遠ざけた理由が分かっている。

 己の大切なものまで斬ってしまう。その孤独な妖刀は所有者である銀髪の幼馴染みに似合っていて、何やら少し切ない気分になった。

「まだ続けるつもりかよ。こんなバカバカしい茶番……」

 闇に言葉は届かない。ただ、無意味に虚空を転がり落ちて消える。

(ぬえ)と亜緒くん、二人同時やて僕はかまへんよ?」

 赤紫の瞳の中に亜緒と鵺の姿を映しながら、紫は嬉しそうに笑む。

 自らの死を求めながらも、同時に誰かの死をも強く望む。紅桃林(ことばやし) (むらさき)はそういう人間だ。

 死ぬまで止まることが無いであろう願望と衝動に、亜緒は深いため息をついた。

 『客死静寂(かくしせいじゃく)』にはそれだけの殺傷能力がある。対峙する者の人数に縛られない妖刀。

 そんなところも、紫にとっては恰好(かっこう)得物(えもの)なのかもしれない。

「ここは鵺一人でやる。亜緒は下がっていろ」

 やや強引に前へ出る。鵺の口調はイライラしていた。

「分かった。あとは任せる」

 素っ気無く言うと、亜緒は境内にまだ(かろ)うじて立っている鳥居まで下がった。

『せっかくなんだから、二対一で戦っちゃえばいいのに』

 玉響(たまゆら)の声が他人事のような軽さで頭の中に響く。実際、亜緒と紫の私闘なんて当人たち以外には無関係だ。

「鵺の取った行動は賢明だよ。今の僕じゃ、ただの足手まといだ」

 事実、亜緒にはもう紫に対抗する(すべ)は無かった。呪符も底を尽いている。

 それに、鵺はやると言ったら亜緒がいくら止めても聞かない。見た目に反して強情な気性なのである。

『鵺ちゃん、機嫌悪かったねぇ。もしかしなくても私のせい?』

 玉響の薄ら笑いを感じる。そんなふうな口調が彼女の話し方であり、含むような悪気は無いのだ。

「よく分かってるじゃないか」

雨下石(しずくいし)家の異常性は飽きるほど見てきたからねぇー』

 鵺は玉響を受け入れた亜緒自身のことも気に入らないのだろう。

 それは所謂(いわゆる)、嫉妬という感情とは少し違う。

 鵺には霊力の強い雨下石家次期当主に憑き、護るという性質がある。

 亜緒の中に居る玉響の存在は、その矜持(きょうじ)を痛く傷付けるものだ。

 それでも鵺は、亜緒を護るという本能からは逃れることが出来ない。

 (まつ)る側と祀られる側は、互いに束縛が生まれる。これも一つの(しゅ)なのだ。



 紫は周囲に『客死静寂』を忍ばせながら、鵺を観察していた。

 迂闊(うかつ)な攻撃は出来ない。

 相手は祀られるモノである。

 紅桃林家が(まつ)(みずち)同様、何か得体の知れない能力があるはずだ。

「とは言うても、見合うとるばかりではどないもならへんなぁ」

 紫は鋼糸を慎重に鵺へと滑らせてみた。

 糸が着物の袖を切り裂き、両腕の肌を掠めてゆく。

 瞬間、紫の中を痛覚が駆け抜けていった。

「これは……」

 鮮血が細い腕に紅い線を引いてゆく。

 紫に出来た傷は、ちょうど『客死静寂』が鵺に触れた部分だ。

「なるほど」

 ――表面空間歪曲。

 すぐに理解する。

 受けた攻撃を相手にそっくり返す能力。

 もし『客死静寂』で勢いよく鵺を薙いでいたら、紫はぶつ切りになっていただろう。

 鵺を斬ることは、即ち自身を斬ることと同義。

「こいつは厄介やね」

 着物の袖は斬れているから、鵺の生身に危害を加えた者が対象となるらしい。

「せやけど、自らを攻撃して他者()にダメージを与えることは出来ひんわけや」

 それが可能であるなら、紫も沃夜もとっくに死んでいる。他者の殺意に反応して発動する能力なのかもしれない。

 ならば、()りようは(いく)らでもある。紫から薄笑いが自然に零れてすぐ、異変が起きた。

 立っていられなくなり、紫は両手足を地面に着いて動けなくなる。

 鵺が声のようなものを張り上げている。

 人が立ってバランスを取り、普通に歩くことが出来る要因の一つは耳の中にある器官のおかげだ。

 鵺の喉から発せられた音は特殊な高域まで伸びて、脊椎動物の半規管に作用して平衡(へいこう)感覚を狂わせる。

 今、紫は上も下も無い世界に放り投げられたようなものだ。

 歩くどころか、普通に立ち上がることさえ出来ない。

「こら、ヤバイなぁ」

 この状態で攻撃されたら、対処はサスガに難しい。『客死静寂』も紫の思うように動いてくれない。

 そもそも鵺は雨下石家の時期当主を護るために憑いているのだから、弱いわけは無いのだ。

 天と地が回る世界で、紫は視界の端に亜緒を捉えた。

 雨下石家次期当主候補は、情けなく鳥居に体を預けて座り込んでいる。これは鵺のせいではなく、極端な貧血によるものだ。

 鵺の弱点は亜緒である。

 亜緒が死ねば、鵺に戦う理由は無くなる。復讐すらも考えないだろう。

 ただ淡々と、次の当主候補に憑くだけだ。

 しかし、今の紫に亜緒を殺すだけの余裕は無い。やはり、鵺は強い。

 不吉な気配が迫ってくるのを感じる。

 殺気を孕んだ死神の足音だ。伸ばした爪の刃で紫の命を狩るために近づいてくる。

 紫は目を閉じた。鵺の足音だけに集中して自分との距離を計る。

 足音というものには一定のリズムがある。その律動は大抵心臓の鼓動と同調している。

 規則正しく音を刻む。

 歩調でおおよその体格や体調はもちろん、精神状態まで把握することが出来るのだ。

 しかし今、紫が注意を払っているのは純粋に音のみであった。

 石畳に鳴る編上げブーツに合わせて指を動かす。

 やがて嫌な金属音にも似た響きと共に、振り下ろされた鵺の爪が砕けた。

 鵺の足音を頼りに頭上に『客死静寂』の網を張ったのだ。

 そのためには規則正しいリズムの導きが必要だった。

「何でも、やってみるもんやね」高揚の息を吐く。

 そして、やはり紫は無傷だ。鵺自ら仕掛けた攻撃には、空間歪曲現象は起こらないことも分かった。

 こうして一つ一つ、相手の能力を見極めてゆく。

 妖刀は飽くまで道具に過ぎない。その力を己の実力と過信せず、自らを律し戦うところに紫本来の恐ろしさがある。

 もうボロボロになってしまった紫の着物の袖から、数枚の呪符が飛び出して四方へと散ってゆく。

 すると辺りから小豆を研ぐような音が鳴り出す。

「正直、使い道もあらへん思とったけど、何が何処で役に立つか分からんなぁ」

 小豆洗いは音の怪である。音に誘われて追いかけると川に落ちて、運が悪ければ死ぬ。

 方向感覚を狂わせるという点では、力の規模は違えど鵺の声と同質のものだ。

 小豆を研ぐ音が鵺の声に被さり、不協和音になる。

 相殺とまではいかないが、紫に多少のバランス感覚が戻ってくる。それで充分であった。

 雨下石家は妖を調伏(ちょうぶく)するが、紅桃林家は使役する。

 やはり、この差は大きい。

 紫の指が優美に空気を撫でると、鋼糸が生き物のように踊って鵺の両手足を縛り上げた。

 同時に紫の青白い手足には紅い鬱血痕(うっけつこん)が浮かぶ。鵺が受け取る繋縛(けいばく)の痺れは紫に押し付けられるのだ。

 『客死静寂』は斬るだけが能ではない。その特異な形態は対象を捕縛することも可能だ。

(ほど)け!」

「と言われて、解く者はおらんわなぁ」

 もがけばもがくほど、糸は鵺の体を締め上げてゆく。

「あんまり暴れんといて。僕の体がしんどくなるねん」

 『客死静寂』を切ることは出来ない。鵺に限ったことではなく、他の誰にも不可能だろう。

 紫は静かに立ち上がると、頼りない足取りを亜緒のほうへと向けた。

『亜緒ちゃん、狼藉者がコッチ来るよ。早く殺さないとー』

「鵺の様子がおかしい……」

 妖刀が相手とはいえ、普段なら簡単に捕まる鵺ではない。『客死静寂』も見えているはずだ。

 人の体が災いしているのか。それとも、何か亜緒には予想も出来ない事態でも起こっているのか。

 鵺の動きにいつものキレが無いのだ。

 それは亜緒のせいであるかもしれない。血を失い過ぎた。

 雨下石家の血は鵺にとって存在証明の一つでもある。

 鵺の霊格を落としたことと云い、ここまで一族が祀るモノをぞんざい(・・・・)に扱った次期当主もいないだろう。

 それでも鵺は亜緒を護る。一族の中で一番強い霊力を持つ者に憑いて護るのが鵺なのだ。

 これは本能のようなもので、感情の外での行動なのである。

 霊力云々(うんぬん)(かんが)みなければ、亜緒には雨下石家を継ぐ資格は無いのだろう。

「亜緒くん、絶体絶命やね」

「そうでもないさ」

「軽口はもう聞き飽きたわ」

 紫の両手から妖刀『客死静寂』が伸びてくる。

「墓参りくらいしたはるから、安心して死んだってや」

 亜緒が震えた。恐怖とか覚悟とか、そんな人間らしい感情ではない。

 紫の異質な殺気に触れて、体が自然と動いたのだ。

 同時に高揚と安堵(あんど)が交じり合って、亜緒自身もワケが分からなくなる。

 紫の指が虚しく宙を彷徨(さまよ)い、『客死静寂』の手応えが両手から消えた。

 何処か遠くで雷鳴を聞いた気がして辺りを探ると、夜に佇む墨黒色の着流しを着た影のような剣客を見た。

 男の手は刀の柄に掛かっている。

 ――『客死静寂』を斬った?

 紫が息を呑む。すぐに亜緒から離れて警戒する。

 ――沃夜はやられたか。

 『電光石火』だから『客死静寂』を斬ることができたのか? それとも他の三振りも同様に鋼糸を斬ることが出来るのか?

 紫が動揺するのは珍しい。『客死静寂』が刀を斬ったことはあっても、斬られたのは初めてなのだ。

「来るのが遅えよ。蘭丸(らんまる)、大遅刻だぜ!」

「私は蘭丸ではない! 生地獄巡(いきじごくめぐり) 吐血乃介(とけつのすけ)という者だ」

 般若(はんにゃ)面から聞こえて来る覚えのある声は、慌てていた。すぐに正体がバレたことに焦りを感じているのか。亜緒に空気を読めと(あん)に伝えようとしているのかもしれない。

「生き地獄なんだって? センス無ぇなぁ」

 そもそも、亜緒に空気を読めというほうが無理な話なのだ。蘭丸も(あきら)めたらしく、開き直る。

「うるさい! カッコイイ面を探すのに手間取ったのだ」

「それ、カッコイイか?」

 どちらかといえば、怖い。が、亜緒だって似たようなセンスなのである。

「オマエこそ、愉快な格好をしているではないか。仮装か?」

「やむを得ぬ事情ってやつかな」

『妖刀使い如きに言われたくないわ~』

 玉響の抗議は、もちろん蘭丸には届いていない。

 二人の会話を邪魔するように、般若面が気配無く縦に割れた。

「やっぱり、蘭丸くんやん。せやけど、勝負に水差すんは無粋(ぶすい)やで」

「勝負なら、もう着いているのでは?」

「決着が着くんは、どちらかが死ぬときや」

「ならば私は貴方を止めなければならない」

 蘭丸の長い指が淀みなく、『電光石火』の柄へと流れてゆく。

「残念やわ。僕はホンマに君んこと、気に入っとったんになぁ」

 紫も新たに『客死静寂』を展開させる。

 妖刀同士が刃を交えることなど、もしかしたら初めてのことかもしれない。



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