第1話「回り道」

文字数 4,801文字

 鍋島家(なべしまけ)の化け猫騒動が終わると、すぐに亜緒(あお)(かすみ) 月彦(つきひこ)の居所を千里眼(せんりがん)で調べてもらうようノコギリに頼んだ。

 そもそも亜緒が雨下石家(しずくいしけ)に寄った目的はノコギリに会うためだったのだ。さらに言えば月彦に会うためだ。

 それがノコギリ不在のため、予期せぬ回り道になってしまった。

 薄暗い座敷に揺れる行灯(あんどん)の灯り。そのしじま(・・・)揺蕩(たゆた)うように落ち着いた紅葉柄(もみじがら)(あわせ)が浮かぶ。

 ノコギリの表情は(りん)として氷のように厳しく、千里眼には深い集中力を必要とするのが分かる。

 方角を示す文字盤の上には漆塗りの小さな木片(もくへん)が十二ほど散らばっていて、それぞれに十二支を象徴する絵が彫られている。

 ノコギリはその文字盤と木片の位置を見て探しものを言い当てるのだ。

「兄様の探し人は雨下石家の敷地内、此処(ここ)から西へ二百メートル程離れた座敷に()ります」

 情け容赦の無い結果に、亜緒は思わず畳の上に()してしまう。

 「なんじゃい……そりゃあ」なんて一言も漏れてしまうほど、体中から気も力も抜けてしまった。

 しかしノコギリの千里眼は絶対だ。月彦が近くに居ると出れば、確実に居るのだ。

 もしかしたら、霞 月彦は亜緒が妹の行方不明を知ったときには(すで)に目と鼻の先に居た可能性が高い。

 だとしたら回り道どころか、とんだ遠回りである。

「響きとやらで感じ取れませんでしたの?」

 何やら含みを持った言い方であった。

 ノコギリは「響き」を上手く使うことが出来ない数少ない雨下石家の人間だから、自分の取り得が御家(おいえ)御株(おかぶ)を奪ったことに多少の優越感を覚えたのかもしれない。

 事実、妹の千里眼には亜緒も一目置いているのだ。

 「響き」という能力を普段から当たり前のように使っている彼らは、感知できぬ相手に出会うと少し戸惑う。

 突然、外国人に外国語で話しかけられた感覚に似ている。

 妖刀使いの厄介なところは多々()るが、やはり「響き」が通じないことは大きい。

「では遠視代(とおみだい)、金八十五(約五万円)頂きます」

「金取るのかよ!」

「そりゃあ、取りますわよ」

 ノコギリは当然のような口振りで呆れた。

 これでも身内価格で勉強しているのだというが、鍋島邸で小夜子(さよこ)にかまけてすぐ助けに来なかったことを根に持っている可能性もある。

 亜緒は当然(ただ)で調べてもらうつもりだったから金など一銭も持ち合わせておらず、結局妹に借金を作る形となってしまった。




 そんなわけで亜緒は(ただ)でさえ居心地の悪い邸内を足取りも重く、月彦が居るという離れ座敷へと歩いた。

 良く晴れた晩秋の空は、もう夕方である。

 といっても黒い太陽が世界を(あお)く照らすこの世界の夕に、(あかね)は差さない。

 金環日食(きんかんにっしょく)のように周りを光で縁取(ふちど)られた黒球が、世界を鮮やかな紺碧(こんぺき)に染め上げながら西の稜線(りょうせん)へと沈みゆくだけだ。

 それでも、ある種の風情が人々の心を優しく刺すのだから、夕暮れというのはどんなものであれ、人の心に触れてくる時間帯なのかもしれない。

 (だいだい)の灯りが揺れる赤い細身柱の灯篭(とうろう)に導かれながら、石畳に靴の音がコツコツと鳴る。

 頬を秋の風に当てながら空を仰ぎ見ると、名も知らぬ鳥が綺麗な「くの字」を作って何処(どこ)かへ(せわ)しなく泳いでゆくところだった。

 池に掛かる橋を渡り、竹林のざわめきを聞きながら夕闇を抜けると、(ようや)く月彦の居るという離れ座敷に着いた。

 敷地内でも一番大きな座敷である。屋敷といったほうが相応(ふさわ)しい建物だ。

 何故、月彦が雨下石家の私有地にいるのか。こうも特別扱いを受けているのか。

 亜緒には分からないが、気にするようなことでもなかった。生来(せいらい)、細かいことには無関心な性質(たち)だ。

 戸を叩くが返事がないので勝手に開けると、神経に(さわ)る不快な音が部屋中に響いており、亜緒を圧倒させる。

 聴くに堪えない雑音だ。座敷内の音声は絶対外に漏れないようになっているから、入るまでこの騒音に気がつかなかった。

 (さなが)らおぞましい(あやかし)の鳴き声のような狂音が収まると、やっと奥から孔雀緑(くじゃくみどり)の着流しを(まと)った青年が静かな物腰で歩いてきた。整った顔には相変わらずの営業スマイルが張り付いている。

「さっきの破壊音は何だ?」

「秋風のヴィオロンの、(ふし)長き(すすり)泣きもの、(うれ)き哀しみに我が魂を痛ましむ。ってヤツです」

 月彦がヴィオロンに弓を当てると、さっきの怪音が流れ始めた。

「ヴェルレーヌも君を哀れんで涙を流しそうだ」

 ヴィオロンとは所謂(いわゆる)ヴァイオリンのことだ。ヴェルレーヌは詩人である。

 古い詩と、ヴィオロンは(なお)古い。

難儀(なんぎ)なもので、僕は昔から自分が出来ないことに憧れるんですよ」

「ストラディヴァリじゃないか。こんな名器、どこで手に入れたんだい?」

此処(ここ)の座敷に転がっていました。浅葱(あさぎ)さんに弦を張り替えてもらって試しに練習しているんですが、これがなかなか難しい」

 ヴィオロンが月彦から亜緒の手に渡った。弾いてみろと仕草で(うなが)される。

 弓が弦に触れたとたん、もの凄い勢いで空気が震えた。それはまるで空間に電撃が走っているような演奏。

 パガニーニの二十四の奇想曲作品一、第五番アジタート、イ短調。

 四分の四拍子の稲妻は二分三十秒弱の命を使い果たして灯りの向こうへと消えた。

「素晴らしい演奏です!」

 月彦が静かな拍手を送る。

「技巧で誤魔化(ごまか)しているだけさ」

 この曲は人の感情に触れるというよりも、超絶技巧で関心を引くことに重心が傾いている。

「それでも大したものです。亜緒くんにこんな特技があったとは」

 感心しながら月彦は亜緒のために座布団を置いた。

 音楽はこの世で最も美しい(しゅ)である。

 人は音楽に魅入られて、良かれ()しかれ縛られるのだ。

「ところで蘭丸(らんまる)くんはどうしています?」

 亜緒の演奏で妖刀『電光石火(でんこうせっか)』を持つ同業者を思い出したらしい。

何処(どこ)かへ出掛けると言っていたな。二、三日は帰らないとか」

彩子(さいこ)さんのお墓、ちゃんと御参りしているんですねぇ」

「彩子?」

 初めて耳にする名に興味が湧く。

「さて、亜緒くんはどんな御用件でボクを訪ねて来たのでしょうか」

 誤魔化されたと思ったが本題を切り出す良い機会でもあったので、亜緒はこの話題に深入りするのを避けた。

「実は君に頼みがあって来た」

「頼み?」

「ある神様と僕との間に出来た(えん)を斬って欲しい」

 月彦の持つ妖刀『月下美人(げっかびじん)』は、形無く存在する概念(がいねん)を斬る。

 亜緒が()()く名前を付けてしまった稲荷神(いなりがみ)玉響(たまゆら)との関係さえ斬れるかもしれない。

「出来るかい?」

「結論から言うと、可能です」

「では、是非とも頼みたい!」

 亜緒の声音(こわね)が期待に跳ねた。

 玉響との縁が切れれば(ぬえ)の機嫌だって直るだろうし、稲荷寿司の悪夢からも開放されるのだ。

「けど、あまり気が乗りませんねぇ……」

 逆に月彦の声音からは意気が感じられない。困惑が笑顔に出ている。

「何故だ? ちゃんと報酬は払うさ。そこのストラディヴァリを君にあげよう。売るなり弾くなり好きにすれば良い」

 当然、そのヴィオロンは亜緒の持ち物ではない。

 (しば)し間を置いてから月彦は改めて口を開いた。

「ボクは亜緒くんよりも多少長い時間を生きているので、まぁ滅多にお目にかかれない場面に立ち会う機会も多いのですが……」

 死にながら悠久(ゆうきゅう)を生き続けている美丈夫(びじょうぶ)は語る。

「普通は神様と人の間で深い縁が生まれるなんてことは、有り得ないものなんです」

 それが例え雨下石家の人間であっても。と、月彦は付け加えた。

 それはそうだろうと、亜緒も(うなず)く。基本、神は人の世に関心を持たない。

「その異例中の依頼。詳しく(わけ)を聞かせてくれませんか?」

 柔らかい物腰を崩さない妖刀使いに、亜緒は稲荷神の名付け親となってしまった経緯(けいい)を聞かせた。

 もともと手短かな話なので、夜の入り口あたりで話は終わる。

「神様を名で縛るなんて、禁忌(きんき)じゃないですか」

 笑顔の向こうで、月彦は呆れているようだった。

「それにしても、紅桃林(ことばやし)の若当主様にも困ったものだ」

 野点(のだて)の席で会った。あの不吉を(はら)んだ赤紫色の瞳が月彦の頭の中を通り過ぎる。

「だろう? 僕はあんまり悪くない」

「本来なら亜緒くんの命は、その夜に終わっていたはずなんですね」

 亜緒の言い訳は軽く流された。

 月彦から見れば、原因よりも結果が問題なのだ。つまり、亜緒は神を利用して自分の運命を変えてしまったことになる。

「まぁ、客観的に見るとそうなるかな」

 主観的に見ても同じである。

「そういう命に関わる縁を一方的に切ると、後々(ろく)なことがないですよ?」

 考え込む亜緒に「相手が神様なら(なお)のこと」と、月彦は珍しく神妙な声と表情を作って念を押した。

「ボクの経験では――」

 月彦の影がゆらりと陽炎(かげろう)のように揺らぐ。

「神と縁を結んだ者は碌な目に遭いませんでしたし、縁を切ろうとした者は尚更(なおさら)酷い結末が待っていました」

「つまり、『月下美人』で縁を斬ることはお勧めしかねる。と、月彦先生は忠告してくださるわけだ」

「力になれず、申し訳ありません」

 柔らかいが、硬い笑顔で月彦は頭を下げた。

「まぁ、いいさ。無理を言って済まなかったね。確かに虫の良すぎる話だったよ」

「差し出がましいことを言いますが、群青(ぐんじょう)くんに相談してみたらどうでしょう? 彼はそこらじゅうの神様や鬼神の(たぐい)に貸しを持っていますから、何とかしてくれるかもしれません」

「それは名案だ」

 どの世界においても、例外というものは存在する。ただ、その息子も同じとは限らない。

 仮に父に相談したとして、「自分の不始末は自分で何とかしろ」と言われるに決まっているのだ。その答えは正解であると亜緒も思う。



 外へ出て空気を吸い込むと、冬の匂いがした。肌寒さに持っていた外套(コート)を着る。

 もう息に白い色がつく時期になったのを実感して溜め息をつく。それもまた白の余韻を残して消えてゆく。

 今年は例年より寒くなるのが早いのかもしれない。

「いつまでもそんな所に居ると冷えるぞ?」

 降り始めた夜の藍色に紛れて立つ、妹の影に話しかける。

「今、夕餉(ゆうげ)の支度をさせております。兄様の分も……食べてから帰られますわよね」

「出来れば御土産用に包んでくれると嬉しい」

 いつものことながら、兄の態度は()()無い。

「鵺も狐も、食べなくたって死にはしませんわよ」

 家でのノコギリの食事は、広い座敷にいつも独りだ。味気無い。

 自分だって、たまには誰かと一緒に御飯を楽しみたい。

 子供の頃はよく兄妹差し向かいで食べたものだ。嫌いな食べ物を兄に押し付けて困らせた思い出も、懐かしい。

「兄様は御自分が雨下石家の次期当主であることを、もっと自覚なさるべきですわ」

 好き勝手している亜緒だが、いずれはこの屋敷に戻って来なければならない。回り道を歩いていられるのも今だけなのだ。

「もしも僕が当主にならなければ、次の候補が継ぐだけさ」

「それは逃げです! 兄様は格式や仕来(しきた)りや、そういった御自分の責任から逃げようとしているだけです!」

 語気(ごき)も荒く、白い。

「この世に呪は多くあれど、仕来りや格式伝統の(たぐい)ほど下らない呪もそうそうあるもんじゃないんだぜ?」

 もちろん、中には尊重すべきものもあるだろう。だが、雨下石家は狭すぎる世界だ。世間的には閉鎖されている。

「でも……」

 ノコギリは言い淀んだ。息の白が喉に詰まる。

 人としての倫理が通用しない家にあって、唯一彼らを縛り規制するのが仕来りや家訓だ。

「それを忘れてしまったら、私たちは人では無くなってしまうような気がするのです。兄様……」

「心配しなくても――」

 亜緒は着ていた外套をノコギリの肩に羽織らせた。兄の温もりが、冷えた体に少し遅れて伝わる。

「ノン子は此処で誰よりも人だよ」

 亜緒の言葉はノコギリを(かえ)って不安にさせた。何故かは分からない。

「少しだけ、回り道して帰りませんか」

 家の外まで見送る時間を伸ばすくらいの()(まま)は許されるだろう。

 亜緒の指が静かにノコギリの髪に触って、銀の髪飾りを優しく鳴らした。

 音はキラキラと冷たい空気に(またた)いてから消えた。
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