第5話「奇想曲」

文字数 3,086文字

 成明(なりあきら) (あや)狒狒(ひひ)と結婚するために生まれた娘だ。

 父親が狒狒と契約した瞬間、彼女はこの世に生を受ける前から避けられない運命を背負ってしまった。

 爪先から髪の毛一本に到るまで、狒狒に全てを捧げる。

 それが綾という少女の存在理由であり、それ以上も無ければ以下も無い。

 生贄とは、そういうものであった。

 (みぎわ) 彩子(さいこ)が狒狒を退治したことで運命は変わったが、狒狒の呪いは残った。

 過程はどうあれ、運命に(そむ)けば何かしらの反動がある。

 綾は成金とはいえ富豪の家の一人娘だ。その富は父親が狒狒に綾を捧げることで約束されたものだから、狒狒が死ねば財も消える。

 結局、家も商社も衰退して両親も死んでしまった。

 そうなると周囲から人は離れてゆく。元々、成明氏の金が目当てで寄ってきた連中である。

 使用人だって、給金が支払わなければ出て行くのは当然だ。

 律儀(りちぎ)に残ったのは借金くらいのものであった。

 彼女は急速に歳を取って、心は十六歳のまま、たった五年間で年老いた姿に変わり果てた。加えて弱った体は病魔に侵され、あと数ヶ月の命。

 医者は何も云わないが、綾本人は自分に残された時間があと僅かということを知っている。

 それは仕方のないことだと綾自身、諦めてもいる。

 彼女に心残りがあるとすれば、(かすみ) 月彦(つきひこ)に対してだ。

 妖の呪いを受けた綾を、月彦は五年間面倒を見た。借金を肩代わりして、住む家と日々の生活、そして何より温かい心の入った言葉の色とりどりで彼女を支えた。

 綾も最初は月彦に悪態をつくなどして不満や憤懣(ふんまん)をぶつけていたが、一年も経たずに()めた。怒るというのはエネルギーを使う。要は八つ当たりというものに疲れたのだ。

 人間不信に陥った綾が恐々(きょう きょう)理由を尋ねると、「これから呪いと戦う勇気ある貴女のために」と云って月彦は笑った。そして綾は泣いた。そういう(たぐい)の優しさを今まで体験してこなかった分だけの涙を零した。

 そうして分かってしまったのだ。

 月彦は絶えず笑みを絶やさない妖刀使いである。困ったときも、嬉しいときも、等しく笑っている。それはつまり無表情と同じことで、だから彼は笑うことが出来ない。

 自分と同じで孤独な人だと思ったのだ。

 とてもズレた感情であるが、それから綾は月彦に親近感を抱くようになった。



「今日は調子が良いのよ」

 マフラーを編みながら、綾は自然と笑顔になった。

「それは何よりです。今日は少し散歩でもしてみますか?」

「そうね。少し外の空気を吸いたいわ」

 車椅子を押して、病院の庭を散歩する。

 病室には火鉢が置いてあるが、外はやはり寒い。

 綾の体を冷やさないように、月彦は自分の羽織を彼女の肩に掛けた。

 綾が月彦と出会った日も寒い季節の頃だった。

 最初は彼が怖かった。どんなときも絶えず笑顔でいるなんて、感情が壊れているとしか思えなかったからだ。

 でも、今は彼の笑えない笑顔が愛おしい。

 月彦が綾の呪いを妖刀『月下美人』で斬らないのには理由がある。

 ――定められた運命を無理に変えようとすれば災いが伴う。

 『月下美人』で呪いを斬っても、また別の歪みが綾を襲うことになる。

 神と結んでしまった縁や、妖との約束などを無かったことにするには強いリスクが付き纏う。

 そのことを長い歴史の中で月彦は知りぬいているから、彼は綾の呪いを解くことはしない。

 亜緒(あお)が右目を失っただけで済んだのは、神との縁を無理に解くことを留まったがゆえだ。

 世の中、受け入れるしかない理不尽というものはある。

 雨下石(しずくいし) 群青(ぐんじょう)なら、(ある)いは解呪(かいじゅ)が可能かもしれない。しかし彼の力を借りるということは、また違った意味でのリスクが付き纏う。

 それは、きっと綾に今以上の不幸を呼ぶ。

 月彦は車椅子に座った綾の存在の軽さに同情を禁じえない。

 存在の不確かさは月彦とて同じなのだ。妖刀の能力(ちから)によって生きているように見える死人(しびと)

 せめて最後は人らしく、安らかに。その程度を望む権利は、彼女にもあるはずであった。



 薄闇の中に(わず)かな気配を感じて、闇子(やみこ)は読んでいた本を閉じた。

「レディーの部屋にノックもせずに入ってくるなんて、紳士のすることではないわね」

「これは失礼しました」

 部屋というよりも此処(ここ)は異空間のようなもので、ノックの必要性がどれだけあるのか不可解ではあるのだが、とりあえず伯爵は深々と頭を下げた。オリーブ色の髪が柔らかく垂れる。

「一人? よくあの妖刀使いの監視を誤魔化(ごまか)せたわね」

 久遠(くおん) 獅子丸(ししまる)は甘くない。眠らずに吸血鬼を見張っている。

「彼は優秀ですね。今も私の(そば)を離れずに妖刀を抜く機会を(うかが)っています」

 闇子の大きな瞳の中に小さな疑問符が宿る。伯爵の云っていることがよく分からない。

「私は分身なのですよ。本体は依然として妖刀の監視下にあります。貴女に頼みたいことがあって、今日は失礼を承知で参上しました」

「何かしら」

「雨下石家の終焉を見たくありませんか?」

 エンペラー=トマトケチャップは穏やかな笑顔でとんでもないことを口にした。

「貴方に出来るの? それ」

 闇子も微笑む。が、彼女の表情には嘲笑(ちょうしょう)の色が濃く浮かんでいる。それが如何(いか)に無理難題であるのかを理解しているからだ。

「もちろん私だけでは無理です。しかし貴女が指先を少し動かす程度の協力さえしてくれれば……この一族は簡単に滅びますよ」

 (ぬえ)が人と融合したため一族全体の霊力が落ちていること。

 次期当主の跡目(あとめ)問題で不協和音が生じていること。

 そして瑠璃姫(るりひめ)の存在。とある少女の想い。

 これらが絶妙に調和して、美しい滅びの序曲が完成するのだという。

「厄介なのは妖刀使いたちですが、『客死静寂(かくしせいじゃく)』は参戦してこないでしょうから残りの四振り……」

 まるで指揮棒を振るうような手振りで、伯爵は話を続ける。

「『月下美人』と『名残狂言(なごりきょうげん)』のほうは私が何とかできます。『落花葬送(らっかそうそう)』と『電光石火』の二振りは貴女が私の言うことを一つ聞いてくれるだけで無力化できる」

 闇子の表情が動いた。

「一つだけ確認するけど、貴方の策で『電光石火』の使い手が死ぬ……なんてことはないでしょうね」

「その辺は大丈夫です。あくまで足止めであって、殺すわけではない。もっとも、私に引っ付いている獅子丸とかいう妖刀使いだけは死ぬかもしれませんが」

「それでも雨下石 群青を()れるとは思えないけど」

 彼とは戦いません。と、伯爵は即答した。

「御当主一人が生き残っても、どのみち雨下石家は終わりだからです」

「分かったわ。一つ貸しよ? 伯爵……」

 短い思案の後、闇子は儚げな返事を返した。
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