第5話「雨下石 浅葱」
文字数 5,047文字
その離れの一つで、
正座に痺れたというわけではなく、改めて
広すぎず狭すぎない座敷の四隅には、髪の長い
「相変わらず趣味悪いなぁ」
「彼女らは家具みたいなものさ。気にするほうがどうかしている」
穏やかな所作で男は亜緒に茶を勧めた。長い
そんな
事実、群青と浅葱が一緒に居るところを亜緒は一度も見たことがなかった。
年の差がいくつ離れた兄弟であるのか知らないが、見た目も異常なほど若く二十代後半と言っても通るだろう。
亜緒は子供の頃から、この叔父の
雨下石家には比較的珍しいタイプの人間であることに加えて、まるで人と人形を掛け合わせたような存在感の透明に幻惑されていたのかもしれない。
しかしながら雨下石 浅葱という男は見た目と違って、実は大層厳格な人物であることを亜緒は身をもって知ってもいる。
「
すぐに菓子皿を二つ持ってくると、静かな動作で浅葱と亜緒の前へと置いた。
用が済むと楓と呼ばれる女人は無言で元居た隅に戻り、同じ姿勢で沈黙した。
「師匠は四人の区別、ちゃんと付いてるわけ?」
「愚問だね。それと私はもう君の師匠ではないよ」
彼女らは浅葱のお手製だ。
からくり人形を作るのが趣味の浅葱は、複数の人形に身の回りの世話をさせている。だから彼の住居には生きた人間が一人も居ない。人嫌いというわけでもなさそうだから、単に変わり者なのだろうと亜緒は思っている。
彼の
式の呪術を応用した人形たちは、人と
浅葱が彼女らを「家具」と称するのは、そういうことだ。
「君が
返答を無言に代えて、亜緒は茶碗に口を付けた。『
雨下石家の者にとって、鵺は
狂った家の狂った
「君は無茶ばかりする。神様に名前を付けるなんて
他人事な口ぶりで浅葱は栗きんとんに竹串を入れた。上品で濃厚な栗の甘みが亜緒のところまで漂ってくる。
そういえば師匠は甘党だったなと、記憶の海に思考の指で触れては思う。
「兄上も無茶ばかりしていたけど、それ以上に実力があったからいい。君は後先を考えていないのが駄目だね」
話題が小言めいた内容に傾いてきたので、亜緒は
「師匠、僕に剣術の稽古をつけてくれないかな?」
浅葱が声無く
「私はね、一度でも自分の元を去った人間には興味が無いんだ。それが才能に溢れた身内であってもね」
声音の
「そこを改めて頼んでいるんじゃないか」
亜緒とノコギリに武術を教えたのは浅葱だ。ノコギリのナイフも亜緒の体術も、みな彼の直伝である。
線の細い外見からは想像できないが、浅葱は雨下石家に伝わるあらゆる武芸の
「
表情も声も、先程から何も変わらず柔らかいままだ。しかし、見知らぬ他人のような距離を感じる。
強い意志を秘めた水色。それが雨下石 浅葱の本質だ。
亜緒にしても、今さら叔父が了承するわけがないと知って頼んでいるのだから始末に悪い。
ダメモトで言うだけは言ってみる。浅葱にはそんな浮ついた思考が手に取るように分かってしまう。
顔には出さないが、彼は亜緒のそういういい加減なところを好かないのだった。
「君がその瞳に頼っているうちは、強くなれないだろうね。まだノコギリの
当主の実弟とはいえ、浅葱の霊力は一族でも強いほうではない。彼が亜緒よりもノコギリに肩入れするのは、雨下石家の中で肩身の狭い思いをしてきたことと無縁ではない。
「例えば、君はあの花を見て何を思う?」
縁側から庭に咲く
「特に何も」
本音である。亜緒には花を
「花は心を映す鏡だ。その言葉は今の君自身を表している」
「それじゃあ、師匠はどう思うのさ」
「そうだね……」
浅葱は改めて茶を一口
「滅茶苦茶に壊してやりたい」
「師匠って、怖ーい」
本当に心から美しいと思えるものは壊してしまいたくなる。花は
だから自分の周りには中身
座敷に
その
首を傾げて避けていなければ、間違いなく亜緒の顔面を裂いたであろう鋭い四本の
ちょうど両眼、
「よくぞ
だから浅葱の弟子たちは最初に反射神経だけを徹底的に鍛えられる。
避けられなかった者は才能が無かったということで、
亜緒は教える前から常人離れした反射神経を持ち、絶対防御体術である『
当主の弟が次期当主を害するなどあってはならないから、亜緒の才能に浅葱は感謝をしたものだ。
まさに理想的な弟子であった。
「そんなことより、ノン子は何時ごろ帰ってくるのかな?」
壁に深く光るナイフの銀を見ながら尋ねる。亜緒が実家の門を
「ノコは
「……それって、ヤバイんじゃないの?」
亜緒が厚い板からナイフを一本だけ抜いた。
雨下石家では当主以外の外泊を厳しく禁じている。
ノコギリも当然例外では無い。考えられる可能性は一つ。
「
言葉に
空気を裂き、線形の殺気を
「何をイラついている」
亜緒の瞳の青が明るさを失い、深みを増してゆく。薄暗い世界の影が濃くなった気さえ、する。
浅葱は知っている。普段
「そうやってすぐ心の動きが霊力に出るのは、精神修行がなっていないからだ」
創造主の危機を感じ取ったのか、亜緒の異常な霊力に反応したのか、四隅の
「勘違いしてはいけないな。妖と戦って死んだのなら、雨下石の娘としてこれほど
浅葱の
それは亜緒だって充分、理解している。それでも譲れないものがあるのだ。
「僕はさ、雨下石家の名誉だとか仕来りとか、そんなものはどうでも良いんだよ。やりたいようにやる。師匠の気持ちも分かるけどね」
立ち上がって戸口へと向かう亜緒を浅葱が止めた。
「少し待っていろ。
人形の髪の毛を一本抜いてから
「ノコの髪の毛だ。響きを追うのに役に立つだろ」
亜緒は叔父の心遣いを受け取ると、無言で座敷を出て行った。
庭を見ると、いつの間にか金木犀の花がすべて散っている。
「アレは当主の器では無いかもしれんな……」
亜緒の言動は、およそ雨下石家に相応しくないと浅葱は思う。
ノコギリが生きて帰ってくるなら良し。もし死んでいたとしても良しだが、それなら自分が
きっと光る花びらのように、ソレは儚く
「だって、それが師弟愛というものだろう?」
浅葱は四隅に座する人形たちに語りかけた。
返らぬ返事に穏やかな笑顔を浮かべる。