第35話「通りモノのこと」~公演、左団扇の弐~

文字数 3,762文字

 人は何故肉体に縛られるのか時々考える。肉体に縛られるのは肉体があるからで、その殻を破らなければ本当の自由を得ることは出来ないのではないか。

 今や私は文字通りの水を得た魚だ。なのに何故か眠くて眠くて仕方が無い。



 やがて二人は、とあるカフェーのドアをくぐって席に座った。

 亜緒(あお)は依頼人の屋敷から店までの道中、一言も喋らなかった。

 ――コーヒーを二つ。

 女給にそれだけ伝えると、また黙ってしまった。

 どうやら一緒に蘭丸(らんまる)の分まで注文されてしまったようだ。蘭丸はコーヒーは香り以外、苦手である。

「大丈夫だ。ここには砂糖もミルクもある」

 青い髪と瞳の青年は煙草に火をつけると、溜め息と一緒に煙を吐き出した。彼が何を()たのか蘭丸は気になるが、重い態度から察するに面白くないものが映ったのだろう。

 レンガ作りの壁を静かなクラシックの音に乗って漂うコーヒーの香り。蘭丸の位置からは、ちょうど水槽の中を優雅に泳ぐ金魚が見えた。

「本当はこの店、まだ準備中なんだ。開店は夕方からだから、客は僕らだけ。そのほうが妖刀使いである君には幾分(いくぶん)気楽だろう?」

 妖刀使いは人混みを避ける。万が一にも他人に妖刀が触れれば大変なことになるからだ。路面電車の中には、妖刀使い専用の囲い座席まで()るくらいである。

「わざわざ店に入る必要はあったのか?」

 気遣いは嬉しいが、蘭丸は早く本題に入りたいのだ。

「大学には僕が依頼を受けると機嫌が悪くなる奴がいるからな」

 蘭丸の表情に疑問符が浮かぶ。彼は大学構内に居た黒猫が(ぬえ)であることを知らない。鵺は亜緒が民間レベルの依頼を受けるのを嫌がるのだ。

「そろそろ何が視えたのか話してくれても良いんじゃないか?」

「その前に一つだけ聞かせてくれ。君はどうしてもこの事件を解決したいか?」

「当たり前だ」

 大切な依頼である。金のためではなく、妖事(あやかしごと)で困っている人を助けたい。

「最初に言っておくが、この依頼には良いことが一つも無い。断ってしまうのが一番の良策かもしれない」

「それはまたどういう意味だ?」

「依頼人と娘、それと君や僕にとって、損はあっても得は無いという意味だ。妖退治をしても、誰も幸せにはならないということさ」

 コーヒーが運ばれてきた。白いエプロンをかけた女給は黙ったまま、コーヒーカップをテーブルに置いて去っていった。

 愛想も何も無い。まだ開店前だから、規則を守らない客は客にあらずという扱いなのかもしれない。

「君は通りモノというのを知っているか?」

「通り……何だって?」

 聞いたことが無かった。

「例えばそうだな。デパアトにある昇降機(エレベーター)の事故で人が死んだとしよう。一方で、ほんの少しの時間差で昇降機に乗ることが出来ずに命が助かった者が居たとする。この者は運が良いか、悪いか。どちらだと思う」

「それは運が良かったのだろう。事故に巻き込まれずに済んだのだから」

 考えるまでもない。

「では昇降機の事故が無かったという仮定で見たらどうだ?」

「それは……」

 返答に詰まる。乗りたい昇降機に数秒の差で乗り遅れたとしたら……たかが数秒であったとしても。(いや)、数秒であれば(なお)のこと。

「時間的に大した差は無いとしても、彼はこう思うだろうね。――ああ、もう少し待ってくれても良いじゃないか。今日の僕はツイてないのかな」

 亜緒は一度、コーヒーカップに口を付けた。砂糖もクリームも入れない。

「これが通りモノだ。事故に巻き込まれた場合、昇降機に乗り遅れた場合、どちらのパターンでも当て嵌まるモノだ」

「つまり、不運に遭う現象そのものだと云いたいのか?」

「理解が早いじゃないか。今回の事件はそういうものだ。本人が望まずに(わずら)ってしまう病みたいなものなんだ」

「それは……妖といえるのか?」

「立派な妖だ。ちゃんと記録にもあるぜ。というより、妖とは元来そういうモノなのさ。なんでもかんでも斬れば良いというわけじゃない」

「では、あれは病気ということなのか」

 目を開けたまま横になり、何の反応も示さない少女。瞬きもするし、心臓だって動いている。

「違う。彼女の魂を抜いた者は、ちゃんと居る。それに()ったから通りモノなんだ」

 蘭丸は首を捻った。目の前の青年の言っていることは、分かるようで分からない。何やらペテンにも聞こえる。

「とにかく妖の仕業なら通りモノだろうと何だろうと、斬る!」

「落ち着け、蘭丸。()おうと思って()えるモノじゃない。探すのだって困難なんだ」

 亜緒がコーヒーを勧める。蘭丸のカップの中は砂糖とクリームでコーヒー牛乳のようになっていた。

「なんとかならないのか? 雨下石(しずくいし)家は妖退治において不可能は無いと聞いているぞ」

「まぁ、本家当主様なら何とか出来るのだろうけどねぇ。君には払うことの不可能な対価を平然と要求してくるだろうからなぁ」

 性格が悪いのさ。と、亜緒はカップの中のコーヒーを飲み干した。

 蘭丸は腕を組みながら天井を見た。店内の灯りは(わず)かにくすんだオレンジで、蘭丸には少し眩しい。

「雨下石家が(まつ)っている御神体が何か知っているかい?」

 知らなかった。蘭丸は彩子(さいこ)から、雨下石家は妖退治の大家(たいか)としか聞いていない。祀るとか祀らないとか、そんな話は初耳だ。

「鵺だよ」

「鵺? あの平家物語に登場する?」

「そうそう。顔は猿、胴体は狸、虎の手足を持ち、尾は蛇という化け物だ」

 亜緒が意地の悪い笑みを浮かべた気がした。

「しかしね。君の認識は間違っている。平家物語では化け物の鳴き声を鵺のようだと表記しているだけで、化け物の名を鵺だと云っているわけではないんだ。鵺とは、つまりトラツグミのことだ」

「トラツグミとは何だ?」

「スズメ目ツグミ科に分類される鳥類の一種さ。この鳥の鳴く声が、昔は不吉の前兆とされて騒がれた。トラツグミは夜間に鳴くから姿が見えず、鵺という想像上の化け物を人々は想像したんだね」

「では鵺というものは存在しないのか」

「するよ。人が祀ればソレは何であれ存在し得るんだ」

 蘭丸はまたも首を捻った。青年の話は、まるで禅問答のようだ。

「例え漬物石でも人が祀れば神になる。実際、石を祀っている神社もある。中には鬼を祀っている神社なんかもあるんだぜ」

「しかし、鵺というのは実体すら曖昧なものなのだろう?」

「だから得体の知れない、何だか良く分からないもの……なのさ。否、雨下石家そのものと言い換えてしまっても良いかもしれない」

 亜緒は追加のコーヒーを注文してから話を続けた。

「歴史のいつ頃からこの世に存在するのか。家系図どころか創始者の名前すら不明。あんなに広い屋敷と敷地に、蔵だって(いく)つも()るというのに何を調べても……雨下石家は文字通り良く分からない(・・・・・・・)。何だか鵺みたいだろう?」

「お前は……一体、何の話をしているんだ」

「茶飲み話さ」

 蘭丸は息を呑んだ。目の前の青年は今、とんでもないことを口にしたのではないか?

「そんな得体の知れない何か(・・)の協力を(あお)ぐなら、それなりの対価というものが要るのは至極当然ということさ」

「では、俺が君の協力を得るための対価は何だ?」

 亜緒が薄笑いを浮かべた。物分りが早くて助かるといった表情(かお)だ。

「通りモノが何者であったとしても、君自身がソレを斬ること」

「臨むところだ」

 目の前の青年は、蘭丸の知りえない情報を知っている。そんな口振りだ。

 それでも蘭丸は彼と取り引きせざるを得ない。これは始めから不公平な交渉なのだ。

「では契約成立だな」

 亜緒が指を鳴らしてから女給を呼び止めた。

「ところで君、追加注文したコーヒーがまだ来ていない」

「注文は溜め込んだツケを綺麗に支払ってから聞くそうよ。それまでは、もう店に来なくてもいいって」

 女給は言い終えるや()慳貪(けんどん)な態度で足早に遠ざかっていった。

「あー、えーっと……」

 亜緒の視線が壁や天井へと(せわ)しなく泳ぐ。体裁よく蘭丸の依頼を受けたまでは良かったが、最後が締まらない格好になってしまった。

「一体いくら溜めたんだ?」

「百円……くらいかな」

「二百円(※現代基準で十万円くらい)だ!」

 いつの間にかマスターが亜緒と蘭丸のテエブルの前まで来ていた。そろそろ開店時間だから帰って欲しいということだった。

「仕様のない奴め。今日のコーヒー代だけは俺が払ってやる」

 女給が愛想無いワケが分かった気がして、蘭丸は苦い息をついた。やはりコーヒーを出す店は苦手だ。
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