第12話「霧の中のトロイメライ」

文字数 3,898文字

 神様には罰が必要だと思います。
 人間の欲望は気味が悪いと思います。
 人は誰だって心の中は醜いと思います。



 最後の階段は病院の屋上へと続いていた。

 ソルト・アンは扉を開けて夜風にそっと触れると、自然と目の前に立つ人物の名前を口にしていた。

「獅子丸……」

 長い白百合色の髪。派手な(あけ)色の着物と赤い下駄。

 眉根を不機嫌に寄せて、線の細い知的な顔立ちの中の目つきは鋭い。

 そして腰に差した小太刀、妖刀『名残狂言(なごりきょうげん)』。

「随分と派手にやってくれたな。俺の見ていないところでの吸血行為は明らかな規約違反だ」

 ソルト・アンは(あや)と数人の看護婦の血を吸っている。綾を中心にパンデミックを起こすことが目的であったが、新たな同士が何故か全ての犠牲者の首を切り落としてしまったのは誤算だった。

「世界ってね、とても残酷に出来ているものよ」

 ソルト・アンの言葉に獅子丸は重く深い息で返した。

「俺は伯爵のほうを()りたかったんだがなぁ」

 そのほうが従者のソルト・アンよりも報酬が良いから。という理由ではない。

 獅子丸は妹を(クダ)キツネに喰われている。吸血鬼とはいえ、少女の姿をしたモノは出来れば斬りたくなかった。

「悪いな。お前たちのことは嫌いじゃなかったんだが、俺はこれでも人間のつもりだから人側に立った身勝手な正義しか振りかざすことが出来ねぇ」

 妖刀は妖を斬るためだけに存在している。それを扱う者もまた(しか)り。

 獅子丸は腰から鞘ごと小太刀を抜いて、手の平の中で一回転させた。

「名残狂言……」

 ソルト・アンが小さく呟く。

「コイツの能力は聞いているな?」

 伯爵が五振りの妖刀の能力を全て知っているであろうことは、今までの発言から容易に想像できる。当然それはソルト・アンにも伝わっているに違いない。

「降参しろ、ソルト・アン。雨下石(しずくいし)家には俺から取り成してやる。俺にコイツを抜かせるな」

 感情表現の下手な不死の少女が珍しく微笑んだ。

「俺を信じろ! 悪いようにはしねぇ」

「その髪の色……貴方(あなた)は信用できない」

 正確には信用したくないという意味だ。ソルト・アンにとって、神は()むべき存在。

 獅子丸の髪の色は、わずかに黄色み掛かった白色だ。欧羅巴(ヨーロッパ)では白百合色はリリー・ホワイトといって聖母マリアのシンボルカラーであり、純潔や処女性という意味を持つ。

 もちろん獅子丸はそんな事情を知る(よし)も無いが、妖刀使いというだけで信頼されない理由には充分だ。

「俺も嫌われたもんだな。まぁ、当然か」

 一瞬、ソルト・アンが酷薄(こくはく)な笑みを浮かべると、その姿が突然霧に変化した。

「モーン・マッドネス……」

 『叫ぶ白き闇(モーン・マッドネス)』は相手の物理攻撃を一切無効にする。しかし、本人も攻撃することが出来ない。

「仕方無ぇ! 本気でいくぜ!」

 獅子丸が妖刀を鞘から解き放つ。

 妖刀『名残狂言』は刀長五八・八センチの小太刀である。五振りの妖刀の中で一番短い。

 そもそも小太刀とは太刀の補助として身に付けたり、儀礼用として用いるものが多い。屋外の斬り合いでは実践的ではないかもしれない。が、妖刀を見かけで判断するような愚かな者は、妖含めてこの世界にはいないだろう。

 ――妖刀を前にして逃げないのは、伯爵から「俺を殺せ」と命令を受けているからか? 何であれ()(がた)い。

 あっという間に獅子丸の四方は白い闇に囲まれて何も見えなくなってしまった。ここが病院の屋上であるということさえ忘れるほどだ。

 おそらく霧は屋上全体を取り囲んでいるのだろう。迂闊に動き回れば足を踏み外して地上へ真っ逆さまだ。

 試しに獅子丸は妖刀『名残狂言』の刃を霧の中で何度か振ってみた。やはり手応えが無い。しかしソルト・アンも獅子丸を攻撃することは出来ないはずである。

 獅子丸は思案する。このままではお互い不毛な睨み合いが続くだけだ。

 ――時間稼ぎか?

 何か別の目的があって、この場に獅子丸を足止めしておきたい理由があるのかもしれない。あるいは単に伯爵の到着を待っているのか。どちらにしても、獅子丸のほうから動かなければ(らち)()きそうもない。

「なんだ?」

 霧の中からピアノの音が聴こえてくる。空耳ではない。四方八方というより、霧の中全体から響いているようだ。

 シューマンの「トロイメライ」という曲だが、獅子丸には単にピアノの曲という認識しかない。音は大きくなったり小さくなったりと不安定だが、それが一層獅子丸の聴覚に張り付いてくる。

「調子が狂うな」

 あるいはそれが目的なのかもしれない。

 すぐに霧の向こうから黒い影が近づいて来るのが見えた。正直、動くにもどうしてよいのか考えあぐねていたから、向こうから分かり易い反応があるのは助かる。念のため、腰に下げた竹筒を抜いて二匹の管キツネを開放する。

 霧の世界から姿を現したのは一匹の黒犬だった。狼のようにも見えるが、それは犬というよりも獣のような形をした別の何かと表現したほうが納得のいく姿をしている。

「ブラックドッグってヤツか」

 吸血鬼の中には使い魔のようなものを使役する者もいると聞いた。獅子丸は今回の任務にあたり、雨下石家から吸血鬼についての情報を提供されている。

 ブラックドッグは黒い犬の姿をした不吉な妖精のことだ。ヘルハウンドとも呼ばれるモノで、死の先触れや死刑の執行者としての側面を持つ……らしい。

有耶(うや)無耶(むや)、アイツと遊んでやれ」

 ブラックドッグを管キツネに任せて、獅子丸自身はその奥から近づいてくる四人の看護服姿の女性と向き合った。

 金髪に痩せた体、目つきの悪さも含めて何処(どこ)かソルト・アンに似ている。

「院内の犠牲者が吸血鬼になった……わけではなさそうだな」

 看護服と左腕に付けた赤十字マークの腕章、格好のシルエットからは軍服のような雰囲気がある。明らかに日本のものではない。

 ――従軍看護婦?

 看護婦達は皆、医療用のメスを握っている。

「アレで名残狂言(コレ)とやり合うつもりなのか」

 獅子丸が呆れながら深い息を吐くと、彼の体が四つに分かれた。

 雨下石流歩行術の一式、「空蝉(うつせみ)」。特殊な足捌きで相手を幻惑する技だ。()ってしまえば目の錯覚であるのだが、それはソルト・アンが隙を突いて獅子丸の首に牙を立てられないことを意味する。

 従軍看護婦? 達は一斉に獅子丸に跳びかかるが、皆同時に斬られて倒れた。

 獅子丸が四人居るわけではなく、あくまで残像であるから倒れるタイミングには僅かに誤差が生じるが、(はた)から見れば同時である。

「妙だな……」

 鮮やかに敵を斬り伏せておきながら、獅子丸の表情には違和感が残った。納得がいかないといった表情である。

 手応えが無さすぎるとか、そんなありきたりな理由ではない。妖刀『名残狂言』は一撃必殺。その能力が発動しないことへの違和感であった。

 看護婦達は傷つきながらも、虚ろな表情で立ち上がってくる。獅子丸は舌打ちと同時に今度は首を斬り落とした。

 しかし彼女達は立ち上がってくる。落とされた首を自分で拾って元に戻しながら。

 妖刀『名残狂言』の能力は本体が相手でなければ発動しない。

「つまり奴等は現象に過ぎない……ということか」

 獅子丸の周囲に漂う霧が現在のソルト・アンの姿ならば、斬ることは出来ない。彼女も獅子丸に攻撃することは出来ないが、おそらくは彼女の中の分身、ドッペルゲンガー、空間同時存在、第二の自我、呼び方は何でもよいが、攻撃は彼女らにさせる。

 つまりは、そういうことなのだろう。

 妖刀は必ずしも妖相手に無敵ではない。相性が悪い場合は普通の刀と大差ない状況にまで押さえられてしまうこともある。

 獅子丸はこの先、飲まず食わずで休むことなく、やがて死ぬまでこの霧が渦巻く限定空間で戦い続けなければならず、その結果はおのずと明らかだ。

 加えて彼は吸血鬼の見張りでここ最近ろくに睡眠が取れていない。体力が限界に達するのにそう時間はかからないだろう。

「なんか俺、いつも追い詰められてねぇか?」

 修行時代、狒狒(ひひ)退治に失敗した獅子丸が、自分よりも明らかに格上の敵と戦って勝つ方法というものを浅葱(あさぎ)に訪ねたことがある。



「それはね。獅子丸くん、自分よりも強い相手とは戦わないことです」

 浅葱の返答は獅子丸が期待していたものとは違っていた。最強の剣客の言葉とも思えなかった。

「どうして君が同じ弟子でありながら、亜緒(あお)より格が下なのか分かりますか?」

「そりゃ、アイツは雨下石家の人間だから俺には見えないものが色々と見えるからだろ?」

「違います。亜緒は自分よりも強い相手とは決して戦わない。その見極めが異常に上手いからです」

「それでも妖退治屋なら戦わざるをえない。という局面もやってくるだろう?」

「そのときは逃げることですね」

「あのさぁ。俺は勝つ方法を聞いているんだぜ?」

「逃げて逃げて、最終的に殺せば『勝ち』です」

「逃げられなかったら?」

「好機を待つ」

「好機……」

「いいですか獅子丸くん。余程の実力差というものがなければ戦い、特に殺し合いにおいて一方的という展開はありません。双方等しく、相手の息の根を止める好機は巡ってくる。より強い方がその機会が多くやってきますが、要はたった一回の好機でも見逃さなければ勝てるという道理です」

「たった一回の好機を逃さない……」

「そのための修行ですよ」

 最強の剣客は穏やかな笑顔でそう云ったのだ。

「好機、果たして巡ってきますかね。浅葱師匠……」

 獅子丸は妖刀『名残狂言』を器用に手の平の中で一回転させてから呟いた。

 彼が浅葱を「師匠」と繋げて呼んだのは今回が初めてで、しかも本人の前ではない。

 照れ屋で不器用な彼の、おそらくは精一杯の敬意の現われだった。
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