第2話「雨下石 群青」

文字数 4,413文字

 左右に広がった枝垂(しだ)れの麒麟(きりん)桜に挟まれるように、石畳が長く続いている。

 先は見えない。

 これより先はもう雨下石(しずくいし)家の私有地だ。

 天には西へと傾きかけた黒い太陽が辺りを薄暗く照らし出しているが、雨下石の土地に一歩足を踏み入れるとどういうわけか視界が開けて、桜も鮮やかに薄闇に()えるのだった。

 点々と設置された灯籠(とうろう)(だいだい)に導かれながら亜緒(あお)(ぬえ)蘭丸(らんまる)の三人は会話も無く静かに歩みを進めている。

 蘭丸の気は重い。彼は唯一、ついでのとばっちりで呼ばれたようなものだ。

 それに午後は厳密に定義すれば十二時間。

 一般的に考えても十二時から十八時までの六時間を指すわけだから、気まぐれに尋ねて行って相手の気分を損なうことになりはしないだろうか。

 石畳を一定のリズムを取って無言で歩いていると、余計な心配事が頭の中を過ぎては去ってゆく。

 蘭丸は真面目な性分ゆえに心配性だ。

 風も無いのに桜がザワザワと耳に騒がしい。

 やがて向こう側から、一人の少年がやってくるのが蘭丸の視界に入った。

 黒い袴姿に刀を差した女子のような少年。

 世間で言うところの美少年というやつだが、表情には愛嬌というものが無い。

「おい、亜緒――」

「幻だ。話しかけるなよ?」

 亜緒が忠告する。

 幻と言葉を交わすと精神を蝕まれるのだという。

 ヒタヒタと擦れ違う少年を、蘭丸は何処かで見た顔だと思った。

 それは思い出の中の自分。幼少の頃の記憶に()む己自身だ。

 ――あの頃の俺を取り巻く世界は闇だった。

 刀を振るう理由が明確な形を成した日。

 忘れることの出来ない嗚咽(おえつ)と衝動。

 そして、殺意。

 闇に生き、闇を斬った。それでも尚、闇を斬り続けている。

 蘭丸は僅かな眩暈(めまい)と共に過去へと少しだけ浸り、また帰ってきた頃には石畳も終わった。

 そして鳥居を抜けると、品の良い庭の向こうに古いが立派な木造の屋敷が見えた。

「屋敷内では僕と鵺の後に付いて決して離れるな。必ず迷子になるから」

 亜緒の二度目の忠告は、蘭丸には大袈裟に聞こえた。

 確かに大邸宅だが、入ったら出られなくなる程の広さには見えない。

 そもそも子供ではあるまいし、そんなことがありえるのだろうか。

「理屈じゃない。そういうふうになっているんだ」

 なってしまったというのが正しい。と、亜緒は言い直した。

 結界が幾重(いくえ)にも張り巡らされていて、空間が歪んでしまっているのだという。

 慧眼(けいがん)か強い霊力を持った者でないと、必ず迷って野垂れ死ぬのが関の山なのだと。

 実際に迷って死んだ者を片付ける番人を雇っているということだった。

「蘭丸は妖刀の加護を受けているから迷わずに済むかもしれないが、念のためだ」

 どのみち勝手の分からぬ他人の屋敷内を、好き勝手に動き回るわけにもいかない。

 蘭丸は真摯(しんし)に亜緒の忠告を受け入れることにした。

 なんといっても、これから(また)ぐのは雨下石家の敷居なのだ。

 既に異界と認識したほうがよい。

 玄関で履物を脱ぎ、亜緒、鵺、蘭丸の順番で一列になって歩く。

 廊下は大人が横に四、五人は並んで歩けるくらいの幅があるが、亜緒が(おど)かすから蘭丸は慎重になって鵺の後ろを追うように歩いた。

 鵺は鵺で亜緒の後ろを付いて行くので、まるで横断歩道を渡る子供のようである。

 壁に掛けられた行灯(あんどん)皓々(こうこう)と三人の行く先を照らしている。

 蘭丸は鵺の頭を越えて、亜緒の青く輝くような艶を持つ髪を注視していた。

 廊下を渡る際の良い目印というだけでなく、改めて共に(あやかし)相手に商売をする相方のことを考えているのだ。

 雨下石といえば妖退治の元締めのような家柄である。

 その嫡男(ちゃくなん)でありながら、蘭丸は亜緒が妖の(たぐい)を滅したところを見たことが無い。

 結局、黄泉帰りの少女も鵺を使って心身共に保護してしまったようなものだ。

 今回はそのために面倒なことになっている。

 ――雨下石 亜緒なら自分以上に上手く妖を死滅させることが出来るのではないか?

 そんな疑問が最近蘭丸の中から湧き出て止まらない。

 何故、鵺を連れ出して家を出たのか?
 
 何故、妖を手に掛けないのか?
 
 何故、闇子(やみこ)は亜緒を嫌いながらも直接手を下さずにいるのか?

 目の前を歩く青い瞳の術士は、どれ一つとして蘭丸の疑問に答えることは無いだろう。

 まともに取り合いもせず、いい加減な口調で話を逸らす。

 漆黒の剣客はそれについては誰よりも充分に彼を理解していた。

 やがて(ふすま)の前で亜緒の足が止まった。

 壁には籠文字(かごもじ)で『無間(むけん)の間』と書かれた木札が掛かっている。

 この襖一枚隔てた向こうに、最強にして最凶の退魔師。

 妖は当然、人でさえ出来ることなら逢わないが吉と呼ばれる雨下石 群青(ぐんじょう)が居るのだ。

 襖を開けて入る部屋は思いのほか広かった。

 七十七畳の座敷の奥に二つの人影が動く。

「入ってきなさい……」

 落ち着いた声が静かに響いた。

 囁くような口調が届く距離ではない。

 蘭丸たちからは、まだ相手の顔すら判別出来ないほどに離れているのだ。

 亜緒が一礼してから座敷へと足を入れた。

 蘭丸も亜緒に習うが、鵺だけは頭を下げない。

 (まつ)られるモノであり続ける彼女? だけは、やはり特別な存在なのだ。

 座敷にはいくつかの行灯が灯っているが、部屋そのものが広いせいなのかやはり薄暗い。

 群青の容姿が確認できるようになったのは、本人のすぐ近くまで寄ってからのことだった。

 その形姿(なりかたち)に蘭丸は一瞬動揺した。

 深藍(ふかあい)色に染められた着物に身を包んだ男の顔には目隠しが(ほどこ)されていたからだ。

 アイマスクなんて可愛いものではない。

 草書体(そうしょたい)で書かれた呪文のような文字で埋め尽くされた布が、幾重にも巻かれて男の目を覆っている。

「三年ぶりだな。群青」

「鵺も変わりないようで何よりだ。着物似合ってるね」

 闇に深く溶けていくような、声。落ち着き払っていて、耳に残る。

 二人はまるで旧知の間柄のように話す。(いや)、旧知の間柄なのだ。

 鵺は群青が産まれる以前から、この世に鵺としてあったのだから。

 二人にしかない時間の共有が存在していて当然なのだ。

 女子高生の姿をしていても鵺はやはり鵺であり、決して人ではない。

「亜緒君も元気そうで何より」

 父の言葉に亜緒は軽い会釈で応えた。

 会話に繋がらない。繋げたくないのかもしれない。

 奈落のように深い群青色の髪を細長い指でかき上げながら、男は意味深な笑みを浮かべた。

 隠れた瞳もきっと髪と同じく、深く沈んだ青なのだろう。

 蘭丸は着物の帯に差した刀を外して脇に置き、正座して群青と向かい合った。

(みぎわ) 蘭丸と申します。此度(こたび)はお招きに預かり、過分なるご配慮に拝謝いたします」

 言葉を終えると深くお辞儀をする。

「そんなに(かしこ)まる必要は無いよ、蘭丸君。今日は私のほうから無理を言って来てもらったんだ。言うなれば君はお客様。顔を上げてください。それと鵺に着物を仕立ててくれて、ありがとう」

 柔らかい声音が緊張している蘭丸を優しく包んだ。

 顔を上げると『電光石火』が群青の手の中にあった。

 いつの間に刀を取られたのか蘭丸には皆目(かいもく)見当も付かない。

 そして、ありえない。

 蘭丸以外の人間が『電光石火』に触れると、妖刀の呪いで四肢が吹き飛ぶ。

 あたかも落雷に打たれるが如く、衝撃を受けて絶命するのだ。

 そんな凄惨な光景を慣れてしまうほど何度も見てきた。

 自分以外の手の中にある『電光石火』を見るのは蘭丸にとっては初めてのことで、驚愕を通り越して唖然(あぜん)とした。

 ――後に襲ってくる戦慄!

「ふむ……良いね。良い具合に妖を斬っているようだ」

 まるで骨董品でも見定めるかのように触れてから、満足した様子で蘭丸に刀を返す。

 『電光石火』が戻った後も蘭丸には先ほどの光景が実感を(ともな)って認識できず、悪い夢でも見ているような気分であった。

 何が起こったかは分かっているのだが、何が起こっていたのか理解できない。

 現実との差異が埋められないのだ。

 猜疑(さいぎ)愕然(がくぜん)、そして畏怖(いふ)

 ――そう、畏怖!

 分かっていたつもりだったが、雨下石 群青はやはり只者(ただもの)ではないのだ。

 蘭丸の中で様々な感情が綯交(ないま)ぜになって、混乱が収まるまでに少しの間が必要だった。

「見えて……いるのですか?」

 蘭丸の声は震えていた。

「うん?」

「いえ、目隠しをされているようなので」

 今となっては()えて触れる必要の無い話題だったかもしれない。

 目の前の男には常識など無意味であることを、今しがた実感したばかりではないか。

「ああ、やっぱり気になるよねぇ。コレ」

 自ら目隠しに触れて()む男はどこか嬉しそうだ。

「父様と目が合うと死んでしまう人もいますから」

 (そば)でノコギリの声がした。

 そういえば、座敷には群青の他にもう一人分の影が揺れていたことを蘭丸は失念してしまっていた。

 それほどまでに極度の緊張状態にあったのだ。

「蘭丸君が私の目を見て死ぬとは思えないけれど、君の出生や過去、未来まで視られてしまうのは気分の良いものではないだろう?」

 そういった映像が勝手に視覚に飛び込んできてしまうのだという。

 目隠しは()わば配慮というやつらしい。

「君の今際(いまわ)(きわ)まで知ってしまったのでは、私も面白く無いからね」

「まぁ、自分の最後など(ろく)なものではないでしょう」

 それは皮肉でも何でもない。蘭丸の本心である。

「いやいや。それはどうかな? 人の生とはなかなかに侮れないものだよ。特に妖刀使いの最後は」

 薄明かりに縁取られた量感のある髪がザワザワと揺れている。

 目隠しの男が浮かべた意味深な笑みは、すぐ闇に溶けて消えた。
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