第11話「ナイトメア・エア」
文字数 2,633文字
持ちようがないと
彼は妖刀使いになる前の記憶が無い。
分かっているのは自分が
月彦という名前さえ本名ではない。『月下美人』を受け継いだ者が代々名乗る
『月下美人』に選ばれた時点で、その者は選択の余地なく「霞 月彦」となるのだ。
だから妖刀『月下美人』の月彦という存在は、平安よりもっと以前の時代から居たことになる。
襲名に近い。
不死に近い。
彼岸に近い。
死者に近い。
妖に近い。
それでも妖を斬り続ける者。それが妖刀『月下美人』の霞 月彦である。
月彦が
日々仕事に忙殺されているほど依頼を受けているわけではないから昼間でもよいと思うのだが、何故か気がつくと陽が落ちている。
今日も結局、暗くなってから月彦は病院のドアーを
病院に入ると、すぐに院内の異変に気づいた。
人の気配がしない。
患者はもちろん、看護婦、事務員の存在さえも消えている。
代わりに血の匂いと異様なるモノの気配。しかし彼がうろたえることはない。もう何百回も、
月彦はゆっくりとした歩調で薄暗い廊下を進む。
暫く行くと人が倒れていた。着ている服から看護婦であることが分かる。死体の首は切り離されて、数メートル先に転がっていた。
首には牙の
「獅子丸くんの後始末にしては妙ですが……」
獅子丸には吸血鬼が食事を終えた後に犠牲者の首を刎ねて吸血鬼化、ないしは
「これは……伯爵との密約は
月彦は、やれやれと小さな溜め息を吐いた。
綾のことが心配ではあったが、おそらく彼女も死体となって
それでも遺体を供養してやるために、月彦はさらに病棟の奥へと進む。
「見ているか神……あるいは神と呼ばれる無数の欠落からなる
廊下の向こうの闇から声が近づいてくる。
「私はお前達から与えられた悪意という運命の
「綾?」
月彦は興奮気味の声に話しかける。
そこには二十歳前後と思える姿の綾が立っていた。黒い髪、艶のある肌。老体から若返っている。
「今の私の姿こそ、神が残酷で
花唐草柄の着物を着て、髪を三つ編みに結って、吸血鬼の牙によって狒狒の呪いが
この場合、呪いの上書きというべきだろうか。狒狒よりも、血の盟約を交わすぶんだけ吸血鬼のほうが強いのだろう。
「これで、やっと私も役立たずではなくなりました」
綾の声は憑き物が落ちたように晴れやかだ。
「何故、こんな
逆に月彦の声は落胆している。
「
月彦には永遠に叶わない夢。
「月彦さん。私、これで
堕ちていた。彼女は人の抜け殻といってもよい邪悪で奇形な存在へと堕ちていた。
綾が人であることが月彦には救いであったのに、目の前の彼女は
生からも死からも見放された存在。永遠に救われない魂。
「月彦さんは死ねない妖刀使いなのでしょう? 今までも独りで、これからもずっと独りなのでしょう?」
妖刀『月下美人』の能力を知っている。
教えたのは伯爵か、従者のほうか。もっとも、そんなことは今更どちらでもよいことだ。
「そんなの寂しいわよね? でも、これからは私がずっと一緒だから寂しくないのよ」
「この御婦人方は貴女が?」
周囲の死体を見渡しながら、月彦は
「だって病院の連中、ずっと私を憐れみの目で見ていたから。妖の可哀想な被害者という視線で……だから」
殺した。という言葉を綾は口に出さなかった。月彦にふしだらな女と思われたくない。
「安心して。
綾は手刀を自分の首の前で横に
淡い炎がガス灯のように、彼女の瞳の奥で不安定に揺れている。
何故、綾をマトモな人間だと思ったのか。
物心ついた頃から狒狒の不安に
日常からの
奇妙だが、綾は人でなくなる事と引き換えに人としての歓びを得たのかもしれない。
「貴方まで、そんな目で見ないで!」
病院の連中と同じ目。哀れみの籠もった瞳。深い
「残念です。僕が望む憧れを、せめて貴女には全うして欲しかった」
妖刀『月下美人』が静かに
斬ったのは
「月彦さん、どうして? 私、貴方の為に若返ったのよ? 貴方がこれから寂しくないように……それなのに」
「昨日までの貴女のほうが、よほど素敵で魅力的でしたよ」
綾が優しく
「ああ、私の中の夜が……貴方への想いが消える。無くなっていく」
綾は踊るように一回りすると、灰とともに霧散した。後には花唐草柄の着物だけが残り、それは月彦が綾に買ってやった
「苦しみは……無かったですよね。綾さん……」
月彦は刀を鞘へ納めると、着物を拾って肩に掛けた。
「そういえば、もう寒い季節だというのを忘れていました」
懐かしい匂いに触れた気がして、彼もまた小さく笑った。