第19話「寂しい遊びの終わり」

文字数 3,082文字

 整然とした学院の昇降口で北枕(きたまくら) 石榴(ざくろ)は困惑していた。

 どうしても校舎から外へ出られないのだ。

 強靭な鬼の力で押しても、引いても扉が開かない。鍵は掛かっていようが問題ではない。

 爪で切り裂こうにも効果は無く、まるで力そのものが吸収の後、飛散してしまっているようだ。

 亜緒(あお)が張った結界は人なら出入り可能の、鬼だけを閉じ込める檻である。

 (すで)に石榴は人では無かった。自ら人であることを辞めたと云うべきかもしれない。

「その結界は貴女では破れないわよ」

 背後から薄暗い声がした。

 振り返る石榴は信じられないものを見て、腰が砕けたようにその場に座り込んでしまう。

「や、闇子(やみこ)さん……」

 石榴が震える唇で名を呼ぶと、異形は狂気が宿った瞳を大きく歪ませた。

「御機嫌よう」

 闇を引き連れて闇に彷徨(さまよ)う単眼の都市伝説。『闇子さん』。

 彼女の瞳を二回見た者は永遠に闇の中に捕らわれるという。

 その噂は当然、石榴も知っている。

「貴女は蘭丸を傷つけてしまった……」

 闇子の声には珍しく倦怠の中に憂鬱が含まれていた。そして高揚に音が取って代わる。

「彼を傷つけて良いのは私だけなのにね」

 石榴には闇子が何を言っているのか分からないが、そんなことは現在の状況に比べたら些細(ささい)なことだ。

 闇子が石榴の頭の上に、そっと華奢(きゃしゃ)な手を置く。

 戦慄の中で石榴は自分の運命を覚悟した。本能が逃げられないことを強く告げている。

 まるで足場の狭い崖の上から底の無い闇を覗き込んでいるような、救いようも無い絶望感。

 都市伝説というものは人が創り、人を縛る。消えることの無い呪いのようなものだ。

 今日も何処かで誰かが彼女の話を口に乗せるだけで、闇子の存在は保証される。

 消しても消しても、決して消えない影。

 それが闇子という人格らしきものを持った存在意義だ。

 石榴は声も消え去る永遠の静寂と暗闇の中へと堕ちていった。



 ボロボロになった血だらけの女袴。割れた眼鏡のレンズ。

 三つ編みの片方が解けた乱れ髪を引き()りながら、鬼が廊下を這っていた。

 その姿はおぞましくも痛々しい。

(かすみ) 月彦(つきひこ)……人間が聞いて呆れる」

 息も絶え絶えに鬼がほざく。

 不死の体で妖刀を振るうなど、どちらがバケモノか分かったものではない。

 妖刀と(あやかし)に相性というものがあるならば、実体を持たない(おぬ)にとって『月下美人』は最悪の相手だ。

 斬り付けられさえしなければ、青い髪の人間が使った体術にも引けを取らない自信はあった。

 今更考えたところで無意味な仮定の話でしかないが。

 ――さて、何らかの原因によって受信機が壊れたとします。心が何も感じ取ることが出来なくなった状態です。

「人を殺しても平気でいられるほうが、それはもうバケモノよ」

 (るい)の声だった。相変わらず、か細くて弱い。

「まだ消えていなかったのか……」

 鬼の存在が揺らぎ始めたことで、誄の意識が切れ切れに浮かんできたのだ。

「私たちはもう終わりだわ」

「冗談ではない。まだ我には生き延びる手立てがある」

 誄の体を捨てて、別の()(しろ)を手に入れる。

 新しい体の中で休めば、もしかしたら回復できるかもしれない。

 もちろん状況は変わらないかもしれないが、何もしないで消えてゆくなら試してみる価値は充分にある。

 そのための眷属(けんぞく)、北枕 石榴であった。

 だが、既に誄の代わりは永遠の闇の中に居ることを鬼は知らない。

「あはは。私、もうボロボロだね。こんなんじゃあ、もう蘭丸(らんまる)さんは私を見てくれないよね」

「誄?」

 様子がおかしい。

 バルコニーまで来て、鬼はやっと違和感に気づいた。体が己の意思に反して動いていることに。

 ――それでも発信機のほうは生きています。思考して肉体に命令は出来る状態です。

「雨先生が教えてくれた。心が死んでも思考は生きているって」

「何を言っている? 何をする気だ!」

 誄の心(受信機)は壊れても、思考(発信機)は(かろ)うじて生きていた。

 誄は最後に残された時間を使って自らの体を動かしている。

 バルコニーへの扉を開けると、風がもう一方の三つ編みを解いた。誄の髪が儚げにゆるゆると流れる。

「ここから飛び降りても死ぬことは出来ぬぞ! オマエの体は人のそれとは違うのだから」

「そう。私はバケモノだから、殺してもらうの」

 なけなしの力を振り絞って手摺りをよじ登ると、下には墨色の着流しを着た剣客の後姿があった。

 薄暗い世界の中心のように佇む青年は、さながら黒い沈黙だ。

「妖……殺し……」

 天敵を前にして鬼は誄の中で震えていた。ただ、ただ、震えて縮こまっていた。

 偶然ではない。蘭丸は鬼が出てくる場所を亜緒に教えられて知っていたのだ。

 逆に誄がバルコニーまで来たのは偶然だった。何となく、此処(ここ)へ来れば会える気がした。

「蘭丸さん、私……」

 続く言葉を飲み込んで、誄はバルコニーから身を投げた。

 同時に蘭丸の白く細長い指が『電光石火』の(つか)に掛かると、誄は何処(どこ)か遠くで雷鳴の音を聞いた気がした。

 それは誄にとって、祝福の鐘の音と同義だったかもしれない。

 電光一閃。彼女の体は地に衝突する前に霧散して無くなった。

 蘭丸は少しだけ目を閉じた後に刀から指を離すと、振り向くこともせずにゆっくりと場を立ち去ってゆく。

 目的は済んだ。最早(もはや)この学院に蘭丸の居場所は何処にも無くなったのだ。



「これでやっと(がら)にも無いことから開放される」

 帰り道で亜緒は安堵(あんど)の息をついた。

「残念ですわ。教卓に立つ兄様、なかなかサマになってましたのに」

 ノコギリが亜緒の背におぶさりながら含み笑う。

 『渦潮』を使った体力が回復せず、まだマトモに歩くことが出来ないのだ。

 闇子と月彦は、事が済むなり何処かへ消えてしまった。

 二人とも用件の無くなった場所にいつまでも留まるタチではない。

 それは亜緒や蘭丸も同じだ。

 『左団扇(ひだりうちわ)』という彼らの居場所へ帰る頃合いだった。

 ――果たして鬼は誰だったのか。

 自身の弱さに負けて契約した誄か。

 イジメを行った一部の生徒か。

 見て見ぬふりをした周囲か。

 知っていて何もしなかった担任か。

 (ある)いはその全員か。

「人間なんて弱くて当たり前なんだ。だからこそ、弱さを克服することに価値が出るのさ」

 ノコギリは救われる思いで亜緒の背に顔を埋めた。

「オマエが言うと説得力が無い気もするが……」

 蘭丸がいつものように相方へ呆れたような言葉を返す。

 何処からか吹いてきた風に夏の気配を感じて、蘭丸は一度だけ来た道を振り返った。

 鬼は誰の心にも、自分の心の中にも棲んでいることを自覚しながら。
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