第5話「虚心の欠片」

文字数 3,535文字

 紅桃林(ことばやし) 殺子(さちこ)にとって、病院はもう一つの家のようなものであった。

 それでも今年は入院せずに済みそうということだから、多少滅入る気持ちがラクになったせいもあるのかもしれない。

 薄暗い影の中に身を任せながら、殺子は珍しく子供の頃を思い出していた。

 洋灯の燈色が揺れる紅い瞳の奥には、過去の思い出が幻燈(げんとう)のように映り込んでいる。




 まだ彼女の体が今ほど(とこ)に縛られることが少なく、外出も出来た頃の話だ。

 外出といっても(むらさき)と一緒に屋敷の周りを散歩する程度のものであったが、殺子にとってその時間は特別なものであった。

 毎日異なる空気の匂いと風の音。

 (わず)かだが昨日とは確実に変化している四季折々の風景の色。

 踏み出す足から体に伝わってくる心地良い振動。

 体感する刺激の全てを、殺子は豊かな感受性をもって愛した。

 その日も兄に手を引かれながら、ゆっくりと道を歩いていた。

 いつもと同じようで、それでも何かしら小さな発見のある散歩道。

 しかし、当日の発見はいつもと違って異質なものであった。

 そろそろ屋敷に戻ろうかというところで、怪我をした子猫を見つけたのだ。

 深い傷はおそらく馬車に轢かれたのであろう。

 苦しんでいる。けれど、もう助からないことを二人は理解していた。

「兄様、どうしよう……」

 殺子は動揺しながらも紫に不可能な救いを求める。

「大丈夫や。僕に任しとき」

 まだ黒髪であった頃の兄は利き手を左手に打ちつけるような仕草で音を一つ鳴らすと、腕の中から刃長三十センチほどの短刀を抜いた。

「兄様?」

 初めて(やいば)のギラギラした光を間近で見た殺子は少し震えた。

 兄が切っ先を自分に向けることは絶対にあり得ないと確信していたが、何故今此処で刀が登場しなければならないのか。

 その意味を考えて心が恐怖に触れたのだ。

 (むらさき)は手にした刀を道に横たわる猫の頭部に刺した。次に心臓。狙いは正確無比である。

 猫はすぐに生命活動を停止した。

「殺しちゃったの?」

「苦しむ時間を取り除いただけや」

 その表現を殺子は優しいと思った。

 同時に死というものが心地よい眠りのようならいいと思った。

 それから間も無くして、日ごと殺子は床に伏す時間が長くなっていった。

「病院で死にたくないと泣き喚く大人を見たわ。本当に馬鹿みたいに泣くの」

 年の頃も十三になると、殺子は入院も珍しくなくなっていた。

「死は優しいものであるはずなのに」

「殺子の与える死なら、(なお)のこと夢のようなのにな」

 紫の体には既に十四の武器が外科手術によって仕込まれ、黒かった髪は薬の副作用で銀に染まり、体の成長は十五歳のまま止まっていた。

 五歳年上の兄は紅桃林家の跡継ぎとして多忙な日々を送っていたが、それでも殺子の話し相手になろうと(つと)めて時間を作った。

 父である紅桃林 鬼灯(ほおずき)は体の弱い殺子を一族の恥であり、お荷物であると紫に幾度か語ったことがある。

 だからこそ、紫には期待をしているのだと。

 ところが、殺子に特別な力が宿っていることを知ると態度を一変させた。

 蝶よ花よの例えの如く、殺子を壊れ物のように大事に扱い始めたのだ。

 紅桃林 殺子は夢の中で予知をする。それだけでなく、他人の夢の中へと入り込むことができる。

 夢の中へと侵入された者は殺子に逆らうことが出来ない。

 殺子が突きつける質問や疑問には嘘偽り無く答えてしまう。

 だから殺子は他人の夢から世間と云うものを学び、他人の秘密というものを知り、父に言われるがままに国家や企業の機密というものを盗んだ。

 紅桃林家の長い歴史の中でも類を見ない特殊な能力。

 父、鬼灯がもっとも殺子の持つ能力で重宝したのが人殺しの力だった。

 夢の中で殺子と接吻(せっぷん)を交わした者は、眠ったまま目覚めることなく死んでしまう。

 (はた)からは自然死にしか見えない死の口づけ。

 何処からも殺人の痕跡が出ないこの能力を父は愛し、殺子は嫌った。

 それでも当主である父には逆らえないから、殺子は言われるがままに紅桃林家と敵対する家や政治家、財界人等に死の接吻を与え続けた。

 そのうちに紅桃林家は秘密裏に要人の暗殺も請け負うようになる。

 紅桃林家は妖退治だけでなく、大企業や政財界にも顔が利くほどの強い権力を持つ大家(たいけ)になっていった。



「ねぇ兄様、私のやっていることは良いことなのかしら?」

「どうしてそないなことを聞くん?」

「父様が私のやっていることは良いことなんだって。私のやることで、皆が幸せになれるんだって言うけれど、私は夢の中とはいえ見知らずの他人と口づけを交わすのは嫌なの」

 紫は妹の嫌がることを強要する父が嫌いだった。情の欠片も無い(だいだい)の瞳と言動を憎んだ。

「そら、誰かに恨まれるんは悪い奴や。悪い奴を殺せば、誰かが幸せにはなるんかもなぁ」

 しかし、父に勝てないことを紫は分かっていたから、殺子の意思を無視した返答しか用意できない。

 今はまだ――。



 誕生日ごとに体の中に武器を仕込まれるのは、因習とはいえ辛かった。

 拒否反応。増える薬と副作用。施術(せじゅつ)後は自分の体ではないような違和感と痛み。

 まるで自身が人ならざるものへと変化してゆくような不安と恐怖。

 けれどもこの程度の苦しみで強くなれるのならば、紫には安い対価と云えた。

「ほんで亜緒(あお)くんはどうなった?」

 鬼灯には当然、雨下石(しずくいし)家の血筋も殺しの標的であったが、当主である群青(ぐんじょう)には決して手を出さなかった。正確には出せなかったのだ。

 大事な切り札をバケモノにぶつけて失うわけにはいかない。

 ただ、嫡男(ちゃくなん)である亜緒は別だ。

「父様に殺すよう言われてんのやろ?」

「あの人、夢を見ないの。だから私には殺せない……」

 殺子の表情が悲しげに曇るのを見て、紫は薄く笑んだ。

「まぁ、亜緒くんの相手は僕いうことやろね」

 いずれやって来るであろう殺し合う日を想像して、紫は破顔した。

 少年らしいあどけなさと狂気が混じり合って溶ける。

「兄様、明日は誕生日ですわよね」

 紫の狂気の色が増す。

「今度はどんな武器を身体の中に仕込まれるのかしら」

「それは施術が終わるまで分からへんのや」

 咳をする。

 殺子は薬へと手を伸ばした。

「紫様、薬のお時間です」

 いつから居たのか紫の後ろに沃夜(よくや)が控えていた。

「兄様も薬を飲むのね」承知のことをわざわざ口にする。

 家族という血の繋がりだけでも充分過ぎる絆であるのに、自分たちにはそれ以上にも結びがある。

「そうや。僕も殺子と同じやね」

 殺子はそれを、たったそれだけの些細なことを沃夜に見せつけたかった。

「でも、兄様の薬はいろんな色があって綺麗だからいいな……」

 殺子は沃夜が嫌いだった。

 眉目秀麗(びもくしゅうれい)だが無愛想で、まるで感情を忘れた面でも被っているような紫専属の付き人。

 以前、まったくの私事から殺子は沃夜の夢に忍び込んだことがある。

 しかし、それは無理であった。否、意味が無かったと表現したほうがより正確であるかもしれない。

 そこには何も無かったからだ。

 光も闇も無い完全なる無の世界。

 夢を見る見ない以前の問題で、それは殺子に雨下石 亜緒とはまた違った異質を感じさせた。

 それならそれで殺子には収穫であった。沃夜が人では無いと確信が持てたからだ。

 人でなければ(すなわ)ち人外である。

 紅桃林家にとって人外は使役するもの。便利な道具と同じだ。

 沃夜とはつまり、そういうものなのだ。

 おそらくは、兄である紫にとっても。




 紅桃林 殺子は夢の中に棲む。夢の中は殺子の世界の大半だ。

 彼女は体が弱く、一日の大半をベッドの中で過ごす。過ごさざるを得ない。

 それでも、ずっと眠りっぱなしというわけではないから、起きている間に食事と湯浴(ゆあ)みをして残った時間は紫と会話をして過ごす。

 他愛無い話から、依頼の話まで。

 その時間は殺子をまだ人たらしめる唯一絶対の安寧(あんねい)であった。
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