第21話「雪女」

文字数 4,969文字

 蘭丸(らんまる)は音楽が嫌いというわけではない。ただ、積極的に耳を傾けるほど好きではないというだけだ。

 クラシックも歌謡曲も童謡も、彼の中では分け(へだ)てなく同価値に分類される。ジャンルも何もあったものではない。

 彩子(さいこ)が気分の良い朝に、思わずパッヘルベルの『カノン』の主旋律を口ずさんでも、「カチューシャの唄」を鼻歌まじりに晩酌の(さかずき)を傾けていたとしても、蘭丸には同じ歌であって気にもならない。

 ただ、彩子の口から曲らしきものが流れ出たことは無いので、そこは驚くかもしれないが。

 つまり、あっても無くても良い。どうでも良いものと()ってしまえば、それまでなのだ。

 だから女学生の練習とはいえ、聴けば聴いたで蘭丸はそれなりに演奏を楽しめる。もっとも彼の場合、弾き手が学生でもプロの音楽家でも同様に聴こえてしまうというレベルの話になってしまうのだが。

 ただ、雪の淡い光に溶けるヴィオラの音は綺麗だった。

 少女が次に弾き始めたのはマックス・ブルッフの『コル・ニドライ』だが蘭丸には美しいというよりも、どこか(かな)しげに聴こえてしまう。

 哀しいものは、ただ哀しい。それだけだ。その中に美を見い出すことは、彼の感性では不可能であった。

 演奏の途中で、上からチラチラと揺れながら()りてくるものがあった。

 見上げると空から再び雪が降り始めている。

 手の平で受け止めると儚く融けて散る。まるで温もりを拒否する白い花のように。

 これもまた、哀しきものである。

 少女は気にすることなく演奏を続けている。月彦(つきひこ)も笑顔の仮面を貼り付けたまま、曲に聴き入っていた。

 二人は本当に心から音楽と云うものが好きなのだろう。どこまでも夢見心地で、雪が降ろうが御構(おかま)い無しだ。

 ――夢。

 目標と言い換えても良いが、蘭丸には将来に対する展望というものが無い。

 このまま大学へと進学して就職し、彩子の面倒を見る。そんなことを(ばく)として考えている。

 彩子が結婚でもすれば話は変わるが、妖刀使いには恐らく結婚は無理だろう。

 本人の意思の問題ではなく、国が結婚を許さないという意味だ。

 平安時代よりも昔、妖刀とその使い手は国に厳しく管理されてきた。

 『電光石火(でんこうせっか)』『月下美人(げっかびじん)』『客死静寂(かくしせいじゃく)』『落花葬送(らっかそうそう)』『名残狂言(なごりきょうげん)』、それぞれ五振りの使い手が現在何代目の所有者であるのかも記録されている。

 もちろん、妖刀というものが初めて(おおやけ)に確認されてからの話で、それ以前の記録は無い。

 そして一度妖刀使いになってしまうと、途中で辞めることは許されない。

 解放されるのは死ぬとき。おそらく畳の上で最後を向かえた妖刀使いはいないだろう。

 平凡ではあるかもしれないが、人としての普通で幸せな人生と引き換えに得るには、割りの合わない取り引きだ。

 しかも、この取り引きには人側に選択の余地が無い。妖刀に選ばれてしまったら最後、もう妖刀使いになるしかない。

 人知を超えた特別な力を得るということは、多分不幸なことなのだ。

 加えて(みぎわ) 彩子(さいこ)は優しすぎる。

 無料で見廻(みまわ)り組に参加したり、依頼があったわけでもないのに妖を退治したり。住民の平穏を護るために、頻繁に妖刀を抜いている。クールに見えて、実は情に厚い人間だ。

 彩子は妖刀使いには向いていないと蘭丸は思う。

 雨下石(しずくいし) 浅葱(あさぎ)などを見ていると、余計にそう思ってしまうのだ。彼は普段、妖刀を持ち歩かずに自分が妖刀使いであることも隠している。

 浅葱なりの様々な事情があるのだろうが、自分の妖刀を安売りしないという意味合いも含んでいるのだろう。

 相応の報酬、または対象の妖が自らの妖刀で斬る価値があるのかどうか。依頼内容で折り合いが付かなければ、この話はお(しま)い。

 これが妖刀使いの最も標準的な仕事の取り方だ。使い手の人となりで多少の差異はあるのだろうが、交渉の仕方はさほど変わらない。

 ――だから、せめて自分だけは最後まで彩子の(そば)に居よう。

 そんなことは頼んでいないと彩子は蘭丸を(いさ)めるだろうが、それでも蘭丸の居場所は渚 彩子の(もと)なのだ。

 音楽が終わった後に、蘭丸は残る二人に背を向けると静かにその場を離れた。傘を忘れて出てきたので、雪が本降りになる前に帰りたかった。



 家に着いた頃にはもう雪が本降りになってしまった後で、外套(コート)に纏わり付いた雪を払ってから蘭丸は玄関の扉を開けた。

「お帰り……」

 半纏(はんてん)羽織(はお)った彩子が、珍しく蘭丸を出迎えた。

「ただいま戻りました」

「なんて顔をしているんだい」

 どんな顔をしているのか。蘭丸は思わず自分の頬に触った。きっと、詰まらなさそうな表情で途方に暮れているように見えたのだろう。

「外は寒かったろう。早く(だん)を取ったらどうだ?」

 彩子が居間の(ふすま)を開けてくれた。

「やはり開いている店など一軒もありませんでした」

 火鉢に当たりながら、収穫無しの報告をする。

「ん、そうか……」

 煙草(タバコ)に火をつけながら、彩子は()気無(けな)い返事をした。

「夕食は御飯を炊きましょう。香の物と味噌汁くらいしか出来ませんが」

「いや、雑煮でいい。無理を言って済まなかったな」

 紫煙(しえん)がグルグルと部屋の中を回っている。この煙だって、時間とともに失せてゆく。外に積もった雪も、春が来れば消えて無くなるのだ。

 人の命とて同じこと。ましてや見廻り組である。積極的に妖と対峙(たいじ)する者たちは、早死にして当然である。

 それでも彩子は自分を責めてしまうのだろうが。

「師匠は何かを美しいと感じたことがありますか?」

「何だい? 急に」

 彩子は意味ありげな笑みを浮かべたまま、答えなかった。

「そういえば、浅葱(あさぎ)殿は?」

「もう帰ったよ」

 雨下石 浅葱はナイフを美しいと言った。蘭丸は彩子の感じる「美しい」も知りたかったのだ。きっと月彦の云う「美しい」よりも容易に理解できる気がしたから。

「花束?」

 それは部屋の隅に、ひっそりと隠すように置かれていた。渚家では見慣れぬ異質な存在である。

「ああ、浅葱が持ってきたんだ。なぁに深い意味は無い。ただ家に余っているものを持って来ただけなのさ」

 花では酒の(さかな)にならん。と言って、彩子は照れ臭そうな声を紫煙とともに吐き出した。

「何か意味があるのではないですか?」

「意味?」

「例えば師匠のことを好いているとか」

 彩子は一瞬信じられないという顔をした後にすぐ呆れた表情になって、とうとう(こら)えていた笑い声を上げた。

「そんなに可笑(おか)しいことですか」

「可笑しいかだって? 君がそんな冗談を口にするとは思わなかったからさ。全く持って素晴らしい不意打ちだよ。よりにもよって、浅葱殿が私に気があるかもしれないなんてね」

 彩子はまだ笑っている。

「師匠、いくら何でも笑い過ぎですよ?」

 余計なことを言わなければ良かったと蘭丸はタメ息をつく。今日だけで、何度目のタメ息だろうか。

「だって彼は生きている人間には、まるで興味が無いんだから」

 多弁な彩子は珍しい。いつもなら関心の無い話題は長引かせないで終いにする。その声には微量ながらも自嘲(じちょう)の響きが揺れていると蘭丸には感じられた。

「ああ、君が変なことを言うから煙草を火鉢の中に落としてしまったじゃないか」

 火箸で吸殻を摘まむと、彩子は煙草盆へと未練の燃えカスを落とした。

「だいたい花にしたって、私には邪魔なだけなんだ。君のほうがよほど似合うよ」

 確かに家の中には花瓶が無い。此処(ここ)では花など、誰も()でない。

「この花束、貰っても良いですか?」

 どうせ家にあっても花が飾られることは無い。それならばと、口を()いて出た言葉だった。

「構わないが、花を渡す相手でも居るのかい?」

 何やら興味深げに彩子が表情を歪める。

「未来のヴィオラ奏者に渡すのですよ」

 そのほうが花も喜ぶ。

 まるで狐につままれたような顔で、彩子は二本目の煙草に火を付けた。

 蘭丸は余計な詮索(せんさく)をされぬうちに、すぐに花束と外套を掴んで外へ出た。

 雪はまだ降り続いたままであった。慌てていたので、またしても傘を忘れてしまったが、雪の勢いも穏やかになっていたから、蘭丸は(すみ)やかに空き地へと着くことができた。

「おや、どうしたんです。似合わない物を持って」

 月彦が蘭丸の手にある花束を揶揄(やゆ)する。貼り付いた笑顔から可笑しそうな声が漏れる。

「彼女は帰ってしまったのか?」

 少女の姿は無い。空き地は閑散としていて、蘭丸と月彦が雪合戦をした跡が爪痕のように白雪(しらゆき)に残っているだけだ。

「蘭丸くん、ちょっとコチラへ来てください」

 月彦が片手をチョイチョイと振る仕草は少し不気味に見えた。彼が指差す(ところ)にはヴィオラと対になる弓が置かれている。

「年末に此処で事故があって、一人の女学生が巻き込まれました」

 不幸な出来事を明るい口調で話す。彼はどんな時でも同じ表情に同じ抑揚(よくよう)だ。

「とても練習熱心な娘で、ボクなどはよく此処まで演奏を聴きに来ていたんですが……」

「ちょっと待て、彼女は幽霊だったとでも云うつもりか?」

 蘭丸が勿体(もったい)つけたような月彦の言葉の先を押さえる。

「俗な言い方をするなら、その通りです。蘭丸君が聴いてくれたおかげで上へ()けたのでしょう」

 月彦は細雪(ささめゆき)が落ちてくる空の向こうを見上げた。

「ボクは妖刀の特性上、死に近い処に存在していますからね。幽霊とか、その手の(たぐい)は見えるんですよ」

 やはり、(かすみ) 月彦(つきひこ)は妖刀使いであったのだ。しかし、蘭丸は彼の言葉を鵜呑(うの)みにしたわけではない。

「それじゃあ、何故(なぜ)俺にも幽霊とやらが見えたんだ?」

「それは分かりませんが、案外貴方(あなた)も死に近い場所に居るのかも」

 月彦は視線を上に向けたまま、独り言のように呟く。

「ファンの君が聴いてくれたからじゃないか? その成仏? 天国とやらに逝けたのは」

「ボクではダメなんですよ。死人のボクではね。妖刀使いの中でもボクは一番人から遠い存在ですから」

 幽霊の存在など信じない蘭丸だが、月彦に合わせて話を進める。少女が果たして人であったのか、幽霊であったのかなど、どちらでも良いことだからだ。

「彼女はあくまで人に聴いて貰って、拍手を受けたかったのでしょう」

「妖刀使いだって人だろう?」

「そうですね。けれど、もしも貴方が妖刀の所有者になったなら、おそらく同じ言葉を自らの口から言うことは無いと思いますよ」

 月彦の言葉は不思議と蘭丸の心に重い石のような(かたまり)を置いた。

 蘭丸が梅の木の根元に花束を添える。作り物の笑顔を纏った妖刀使いから小さな笑い声が漏れた。

「まぁ、良い演奏だったからな」

「……それでは、ボクはこれで失礼します」

 蘭丸は去ってゆく月彦の背中に一度だけ視線を送ると、彼とは反対方向へと(あゆ)みを進めた。


 ――雪が降った。その天から降る花の死骸のような白の(たわむ)れの中で、私は気がつくと独りだった。
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