第37話「永遠の遠国のこと」~公演、左団扇の肆~

文字数 3,758文字

 誰も居ない川原。

 昼過ぎの空は暗い(あお)に澄んで、春は優しく霞んだ風をときおり亜緒(あお)蘭丸(らんまる)(そば)へと運んできては、その風で舞い散る桜の柔らかく光る花びらがリンリンと踊りながら草の上、あるいは土や野点傘(のだてがさ)の赤に着地する。

 三人で観るには勿体無(もったいな)いほどに風雅(ふうが)で幻想的な眺めである。

 この景色の中に居ると、まるで常世(とこよ)の国へでも迷い込んでしまったかのような錯覚さえ抱いてしまう。

「気をつけろよ蘭丸。桜は人を惑わせる」

 蘭丸は首を左右に振った。さっき呑んだ酒が回ってきたのかもしれない。

「忘れるな。君が僕に払った対価は、『君自身が(みずか)ら通りモノを斬ること』だからな」

「分かっている」

 蘭丸は無意識に刀の(つか)を撫でた。

「通りモノの兆候が現われたら、手筈通りにやってくれないと僕が困る」

 「困る」というわりには気楽な物言いである。

 蘭丸には目の前の青年が慌てる姿を想像できない。やはり雨下石家(しずくいしけ)次期当主(じきとうしゅ)なのだから、その実力と自信から来る余裕が態度にも現われているのかもしれない。

「しかし、本当にアレで良いのか?」

 亜緒は通りモノが現われたら逃げろと蘭丸に指示していた。

「通りモノにこちらから近づいては意味が無い。結局逃げられてしまうからな」

 動かず待つか、(ある)いは逃げるか。退治するには、そのどちらかしかない。

 本来なら()(つじ)が一番通りモノに出()う確立が高いのだが、別の通りモノと出遭っても意味が無い。狙いは飽くまで依頼人の娘が出遭った通りモノだ。

 だからこうして一本道の(へり)に陣取っている。一方通行というのは、これはこれで亜緒たちにとっては都合が良かった。

「ん? 誰かこの桜迷宮に入ってきた者がいるな」

 亜緒は結界を緩く張った。通りモノまで入って来れなくなるからだ。しかしながら、一般人まで入って来れるような(ヤワ)なものではない。

「標的か?」

 蘭丸が立ち上がって身構える。

「いや、この響き(・・)は顔馴染みだな」

 静かに舞う桜吹雪の向こうから、穏やかな笑みを浮かべて近づいて来る者がいる。



「これはまた、随分と珍しい顔ぶれだね」

 予期せぬ来訪者は柔らかな口調で言った。その花浅葱(はなあさぎ)の着物には花びら一つ付いていない。

 雨下石(しずくいし) 浅葱(あさぎ)

 雨下石家の中で、否、この世界で最も強い剣客。妖刀使いでありながら、普段から妖刀を帯刀しないという変わり者である。

 もっとも、彼が妖刀使いであること自体、よく知られてはいない。

 春に(たな)から()れる藤の花のようでもあり、夏に流れる小川の優しい涼でもあり、秋の儚い暮れどきのようでもあり、厳しい冬の夜気(やき)のようでもある。

 彼の(たたず)まいは常日頃から穏やかだが、その芯には鋭い刃が隠れている。

 相変わらず死装束(しにしょうぞく)を着せた自動人形を随伴(ずいはん)させているのは悪趣味だが、本人は高雅な嗜好(しこう)だと思っている。

「師匠こそ、屋敷から外へ出てくるなんて珍しいですね」

「散り(ぎわ)の桜を観に来たんだ。やはり花は散り際が一番美しいからね」

 言いながら(ぬえ)に挨拶をする。鵺のほうは手を数回横に振っただけで、浅葱と目も合わせようとしない。彼女は霊力の乏しい者には感心を示さないのだ。それが雨下石家(身内)の者であったとしても。

 人形が不機嫌な表情になった。自分の(あるじ)がぞんざいに扱われたことが気に入らないらしい。

「お久しぶりです」

 蘭丸が浅葱に深々と頭を下げた。二人が顔を合わせるのは、自暴自棄になった蘭丸が百鬼夜行を全滅させて以来である。

「やぁ、元気にしているかい?」

「おかげさまで。浅葱殿も御壮健そうで何よりです」

「私はまぁ、相変わらずだ。それより彩子(さいこ)から通帳を預かっている。彼女が君のために貯めていたものだ」

 いろいろあって、渡しそびれてしまっていた。

「あとで取りに来るとよい」

 そう言い残すと、妖刀『落花葬送(らっかそうそう)』の所有者は静かに去っていった。

「師匠と知り合いなのかい?」

 知っているくせに知らないふりをするのは亜緒の悪い癖だが、今回は彼なりに気を(つか)ったのだろう。()え過ぎるというのも厄介なのだ。

「あの人は、この世界で俺が尊敬する唯一の人物だ」

 生きている者の中で。という注釈が付くが。

「おいおい。本気で言っているのかい?」

 亜緒が笑い転げながら冷めた視線を蘭丸に送る。

「何が可笑(おか)しい?」

 蘭丸は不満そうに青い瞳を見返す。

「いや、君がそう思っているなら、それで良いよ」

 亜緒はまだ咽喉(のど)の奥にクツクツという笑い声を隠したまま、煙草(タバコ)に火をつけた。

「師匠も通りモノみたいなものかな……」

 亜緒が小さく表情を(ほころ)ばせた。

「そういえば、君は成功報酬しか受け取らないんだって? いまどき珍しい」

 (あやかし)退治の料金の本質は、「依頼者に変わって退治屋が徹底して命をかける」というところにある。

 仕事は上手くいくときもあれば、そうでないときもあるのだから、最低、基本料金くらいは貰っても罰は当たらない。むしろ良心的とさえいえる。

 妖と()り合った(すえ)、死んでしまえばそれまでなのだ。

「変わってるなぁ。何でまた?」

「特に理由は無い」

 彩子には篤志家(とくしか)の一面があった。蘭丸も師匠に(なら)って、金に拘り過ぎない退治屋になろうと自分を(いまし)めている部分がある。

 彩子がそうであったように、こういうことは他人に話すようなことではないと(わきま)えてもいる。

 蘭丸も煙草に火をつけた。ゴールデンバットの大衆的な香りが辺りに漂う。

 煙が揺れて、桜の木がザワザワと騒いだ。

 突然、蒼い空に奇怪な魚のようなものが姿を現す。ソレは体から(おぼろ)げな光を明滅させながら、ゆっくりと川原を周回するように空を泳いでいる。

 十メートルはあろうかというその姿は、リュウグウノツカイという深海魚に似ている。

「あれが通りモノか!」

「違う。ただのノビアガリだ。普段は海の底の百合(ゆり)の谷に居るんだがな。ここまで上がってくるのは珍しい」

 綺麗、と()うよりは迫力があった。ノビアガリが体をうねるごとに、舞い上がった桜の花びらがまるで飛沫(しぶき)のように跳ね上がる。

 ノビアガリ自体が光を発するので、桜の輝きと相俟(あいま)って周囲は幻想的な輝きに包まれる。やはり常世の国の風景だ。ほろ酔い気分で蘭丸は夢の中を漂う思いだった。

 不変、不老不死、若返り。常世の国は海の彼方にあるとされる。死の概念が無い理想郷だ。

 ――永遠の命。そんなものが果たして本当に幸せたり得るのか?

 蘭丸は疑問に思う。人は老いて死ぬまで懸命に生きるからこそ人なのだ。永遠というものに心惹かれてしまったら、それはもう人ではない。

 永遠の遠国は、辿り着けないくらいで丁度良い。そう考えるのは、無いものねだりが即、死に直結する妖退治屋だからこそかもしれない。

「ノビアガリはこちらからチョッカイを出さなければ何もしてこない。放っておけば、なかなかに(おもむき)ある光景を見せてくれるだろう?」

「何でもかんでも斬ればよいというわけではない……か」

 蘭丸は喫茶店で亜緒に言われた言葉を反芻(はんすう)した。

「ある意味、彼らはこの世界にあって当然の木や水、石なんかと同然なんだ」

「それは、俺やお前の存在は無意味だと云いたいのか?」

「意味はあるさ。僕らだって病気にかかれば治療するだろう? 妖退治はそれに似ている」

「しかし、問答無用で人を喰らうモノもいるぞ」

「そういうのは悪性の腫瘍みたいなものだから、君が斬ってしまえばいい」

 言いながら、亜緒は笑って煙を吐き出した。

 ノビアガリが身を(ひるがえ)して川原から離れていく。何か異質に気づいて逃げてゆく。そんな様子にも見える。

 ――人魚~、え~人魚ぉ~。

 遠くから風に乗って声が聞こえてくる。

 ――人魚はいらんかね~。

「金魚ではなくて人魚だと?」

 蘭丸が耳をそばだてる。

「あれが通りモノだ。蘭丸、走れ!」

 亜緒は用意していた能面を被りながら、川原から道へと出た。

 逃げる者と待つ者で偶然を装う。

 本来、この世で起きたことは必然なのだが、通りモノはそれを嫌う。奴らからしたら、偶然出遭うことが望ましいらしい。
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