第1話「眠り姫」

文字数 4,767文字

 亜緒(あお)は踏みつけた足元から伝わってくる芝生の感触が、妙に現実的であることに違和感を覚えた。

「久しぶりですね。殺子(さちこ)さん」

「お久しぶりです。亜緒(あお)様」

 紅桃林(ことばやし) 殺子(さちこ)の夢の中はいつも空が青く透き通っているので、亜緒はどうにも落ち着かない。

 (あか)いダリアのような花が咲く広い庭のような場所で、殺子はブランコに揺られながら笑顔だった。

 長くクセの無い黒髪が白すぎる肌に触れて、艶やかに映える。

 凛として整った顔立ちは、口元に少しの憂いを結んでいて儚げだ。

 全体的に痩せすぎの感はあるが、世間では彼女を美少女と呼ぶのだろう。

 しかし、殺子が俗世を知ることは無い。

 彼女は身体が弱く、日々の殆どをベッドの中で過ごすからだ。

 そして何よりも、深紅(しんく)に輝く瞳の血筋がそれを許さない。

「今日はどういった御用件で僕を呼んだのですか?」

 亜緒は礼を欠くことがないよう気をつけたつもりだったが、声音にはハッキリと不機嫌が乗ってしまった。

「用件が無ければお呼び立てしてはいけませんか?」

「こう見えても僕は忙しい身なのです。現に今、とても逼迫(ひっぱく)した状況にあるのです」

 此処は夢の中である。もっと云えば、殺子の見る夢だ。

 亜緒は眠りの中で夢を見ることはない。

 予知夢が降りてくるときか、他人の夢へ邪魔するとき以外は、夢と云う名の幻影の中に彼が居ることはない。

 紅桃林 殺子はこの世で唯一、亜緒を自身の見る夢の中へ招待出来る少女だった。

 それは彼女の霊力が亜緒よりも強いことを意味する。

 この夢ならではの情景も、少女が亜緒を迎えるためにしつらえた世界なのだろう。

「兄が父を殺してしまいました」

「あぁ、とうとう()ってしまいましたか」

 亜緒の声に動揺の揺れは微塵も無い。

 まるで(あらかじ)め知っていたかのような態度に、殺子は不満そうにブランコを降りた。

 白いワンピースの裾が一瞬だけ花開いては、閉じる。

「それで、お願いがあるのです」

 少女が亜緒との距離を縮めてくる。その分だけ亜緒は距離を取った。

「兄様を殺して欲しいのです」

「貴女は自分にとっての兄、僕にとっては幼馴染みである彼を殺してくれと頼むのですか?」

「この世で兄様を殺すことが出来るのは、亜緒様だけですから」

 それは殺子が頼むこと(かな)う立場の範囲内でということだろう。

「そうは言っても貴女の兄は強い。僕のほうが殺される可能性のほうが高いですね」

「では正式に依頼をします。兄、紅桃林(ことばやし) (むらさき)の始末を」

「普段なら殺しの依頼は受けないんですけどね……」

 『左団扇(ひだりうちわ)』は殺しを請け負う店ではない。しかし――。

「背に腹は変えられないという有り難い御言葉もあります。お引き受けしましょう」

 亜緒のタメ息混じりの声に、殺子は深々と頭を下げた。長い髪が優雅に細い肩を滑っていく。

「ただし、依頼料と成功報酬は別々で高く付きますよ」

「心得ております」

 そうして亜緒は殺子の夢の中から開放された。



 この世界は季節感に乏しい。

 体感温度や食べ物、風景から四季の呼吸を感じ取ることは出来ても、空が何も教えてくれないからだ。

 相変わらず金環日食(きんかんにっしょく)のような光輪に縁取られた黒い太陽が今日も輝いている。

 それでも夏となれば、他の季節と違って昼が普段よりも幾分明るい。

 この世界の人々には一番過ごしやすい季節であった。

 雨下石(しずくいし)家の庭では、来客三人を迎えて野点傘(のだてがさ)の下でささやかなお茶会が催されていた。

 ちょうどノコギリのお手前が客人から感心されたところだ。

 客の一人は紅桃林 紫という。

 時折覗けるあどけなさと、物憂げな表情がどこか退廃的な陰影を美しい顔に描き出している。

 ただ、薄影に光る銀髪と蒼白の肌。そして赤紫の瞳が彼の得体の知れなさを物語ってもいた。

 年の頃は十五、六といったところだろうが、妙に(つや)っぽい色気を持つ少年だ。

 魔性という(さが)が彼には備わっているのかもしれない。

 茶の席だというのに紅藤(べにふじ)色の着流しを着て、礼儀を失している。

 着物のサイズも滅茶苦茶だ。

 着崩れした襟元から少年特有の華奢な鎖骨や肩が露わになってしまっていて、こうなるともう礼儀云々(うんぬん)以前の話になる。

 けれど、紫には一向に気にする様子は無い。

 始めから礼式など守るつもりも無く、此処に座っているのだろう。

 もう一人は品格漂う二十歳前後の青年だが愛嬌というものがまるで無く、精悍(せいかん)な顔を無に沈めている。

 こちらは紋付の袴で茶会の礼を(わきま)えているが、場にそぐわない堅苦しい雰囲気を周囲に与えていた。

 名を沃夜(よくや)といって、紫の御付きということだ。

 最後の一人は孔雀緑(くじゃくみどり)の着流しを纏った妖刀『月下美人』の所有者、(かすみ) 月彦(つきひこ)

 相変わらず柔らかい笑みを絶やさず、群青(ぐんじょう)(そば)に控えている。

 彼も茶会に着流しと礼儀を知らずだが、これは群青自身が月彦に無理を言って同席させているのだから良い。

 結局、群青にしても部外者を呼んでいる時点で礼儀など無視しているわけだ。

 この茶会は礼の席ではなく、互いの駆け引きの場であるのだ。

「それにしても、これだけ若い当主は紅桃林(ことばやし)家始まって以来のことでしょうね」

 雨下石家の当主は極めて意地の悪い笑みを紫に送った。

 紫は紅桃林家、当主交代の挨拶に群青の元を訪れた。というのが、表向きの理由だった。

 切れ長の目元の奥に宿るアズライトのように禍々(まがまが)しく光る瞳には、年齢に相応しくない妖艶(ようえん)を放つ少年の姿が映っている。

 今日に限っては目隠しなどしていない。する必要がない。

 群青の瞳に当てられて命を落すようなら、紅桃林の当主など初めから務まる器では無かったということだ。

「先代が亡くなってしもた以上、仕方あらへん仕儀(しぎ)どした」

 紫は表情に影を作ったが、声は妙にあっけらかんとしていた。

 闇の棲む領域が多いこの世界では、妖退治もごく普通の商売としてある。

 東の妖事を取り仕切っているのが雨下石家であり、西を仕切っているのが紅桃林家というわけだ。

 雨下石家は(ぬえ)(まつ)り、紅桃林家は(みずち)を祀る。

 いわば両家は合わせ鏡のような存在である。

 しかし東と西では退治屋同士の小さなイザコザが絶えず、両家間の仲もあまり宜しいとはいえないのが現状であった。

「先日、(おぬ)がそちらへ逃げてきたでっしゃろ?」

 茶を()てるノコギリの所作に余計な仕草が入ると、群青は紫に向かって「何のことやら?」と(とぼ)けてみせた。

「アレは元々こっちの管轄(かんかつ)やし、余計な手出しは無用でお願いしたかったどすなぁ」

 群青が知らないわけが無いのは紫のほうも重々承知のことだ。

「しかしウチの愚息(ぐそく)でも何とかなった雑魚(ザコ)に、いちいち目くじらを立てることもありますまい」

 逃がすほうが阿呆(あほう)なのだと群青は無言で紫を冷笑する。

「それに、ソッチはソッチでそれどころではなかったでしょう?」

 群青の笑みは如何(いか)にも意味あり気だ。紫が自分の父親を殺して家督(かとく)を奪ったことを、当然知っているのだ。

「まぁ、そうなんやけど……」

 紫の顔からあどけなさが消えて、笑みは不敵へと変わった。いつの間にか足も崩している。

 着物の裾から覗く、(なまめ)かしくも白すぎる足がノコギリの目のやり場を奪う。

「それに霞 月彦無しの貴方には荷が勝ちすぎる案件だったのでは?」

 群青が月彦の肩に手を置く。妖刀『月下美人』はコチラの手札だと暗に知らしめているのである。

 紫も霞 月彦には一目置いている。

 『月下美人』が有るのと無いとでは、根本的に取れる策が変わってくる。それほどの刀だ。

 こと妖相手には、その意味することろは大きい。

「紫様、そろそろ……」

「もうそないな時間か」

 沃夜が小さく頷くと、紫は茶の席を立った。

「おや、帰ってしまわれるのかな?」

「こっちにも都合と云うものがありますのや。亜緒くんに宜しく」

 ずれた襟元を細い指で直すと一礼して客人は去った。




「父様、紫様は兄様と顔見知りなのですか?」

 ノコギリが茶道具を片付けながら静かに質問をした。

「ああ。幼馴染みと云うヤツかな。君も小さい頃に一度だけ会っているはずだけど」

 ノコギリには紅桃林 紫の記憶は無い。

 あれだけの個性の持ち主ならば、覚えていても良さそうなものだと首を傾げる。

「もっとも、君が会った頃の奴は黒髪であったが……」

 群青は深く沈んだ群青色の髪を細長い指でかき上げた。イラついているときの癖だ。

「しかし、息子に殺されたとあっては鬼灯(ほおずき)のヤツも浮かばれんなぁ」

 月彦が苦笑する。鬼灯というのは紫の父、すなわち紅桃林家の前当主である。

 まだ若かりし頃、群青と月彦、そして鬼灯は闇子封印のために力を合わせた仲だ。

「群青くんと鬼灯くんは、水と油で言い争ってばかりでしたけどね」

 その度に月彦が仲裁役に回らねばならなかった。

「二人の喧嘩を止めるのは、いつも命がけでしたよ」

 死にながら生きている妖刀使いは、昔を懐かしむように笑った。

「それにしても、沃夜……と云ったか? あのクソ餓鬼は普段からあんなバケモノを連れて歩いているのかよ」

 群青はつい、若い頃の言葉遣いに戻ってしまった。妖退治をしていた頃の血が騒ぐ。

 それは月彦のせいであるかもしれない。

 二人は今の亜緒と蘭丸のように、コンビを組んで界隈(かいわい)の魑魅魍魎を狩りまくっていたのだ。

 * * * * * * * * * * * * *


 紫と沃夜は雨下石家の敷地を外に向かって歩いていた。

 結界でどんなに空間が歪もうと、見鬼(けんき)の瞳を持つ彼が迷うことは無い。

(ぬえ)の霊格が下がったとはいえ、やはり雨下石 群青を殺せる気にはならへんかったな」

 むしろ、自分が殺されるのではないかと思ったほどだ。

「娘のほうはどうです?」沃夜の声は感情には乏しいが、落ち着いていて良く通る。

「あっちゃは話にならん。すぐにも息の根を止めることが出来はるなぁ」

 簡単すぎて面白みが無い。と、紫は付け加えた。

「とはいえ、『月下美人』の霞 月彦は()るだけ無意味やし……」

 紫が退屈そうに伸びをすると着物の袖が肩まで降りて、細くしなやかな両腕の白が薄明かりの下に晒される。

 紫の体に比べて着物が大きいのだ。

「さて、亜緒くんのほうはどないかな」

 鵺の霊格が落ちれば、それを祀る一族の霊力すべてが落ちる。

 これは「祀る者たち」と「祀られるモノ」との、逃れることの出来ない必然とも云える関係だ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み