第32話「ナーサリーライム」

文字数 4,354文字

 雨下石(しずくいし)家の敷地は広い。

 生まれてから十六年間屋敷に住んでいる亜緒(あお)でさえ、広すぎて知らないことのほうが多い。その全貌を把握しているのは、当主の群青(ぐんじょう)と雨下石家が(まつ)(ぬえ)くらいのものだろう。

 大きな母屋(おもや)や多くの離れ座敷、座敷牢、妖を封印している部屋。たくさんの蔵。中には得体の知れない建物も多い。

 それらが結界でワヤクチャになった空間の中に点在している。

 何も知らない常人が迷い込んだら三日も経たずに死ぬし、妖の類は近づきもしない。

 異界である。

 その異界の中に奇妙な建造物があった。何のために其処(そこ)にあるのか誰も知らない。虫さえ近づくのを躊躇(ためら)うような異様な瘴気(しょうき)

 古い平屋ではあるが、しかし家の中はきちんと掃除が行き届いていて、生活感らしき匂いもある。

 誰も存在を知らない封印された離れ座敷。そこに闇子(やみこ)は居た。


 闇子は冬が嫌いだ。それは温度や湿度がどうこうというわけではなく、単に影が夏と比べて薄くなるからだった。

 実際に影の濃淡が季節に影響しなくても、ただそんな気がするというだけで彼女が冬を嫌う理由には充分だ。

 しかし、今日という日は気分が良い。彼女の声や息遣い、何気ない足の運びや指の動きからは嬉々たる幸せが見て取れる。

 彼女の薄く(あか)い唇から、僅かに笑いが漏れた。

「御機嫌だね、闇子」

「父様……」

 いつから居たのか。何処から入ってきたのか。雨下石 群青が(すで)に部屋の中で(くつろ)いでいた。

 彼は何の前触れも無く、いつの間にか其処(そこ)に居る。その登場の仕方を、闇子は(いま)だに慣れない。

 たった一つの大きな瞳を見開いて、その中に深藍(ふかあい)色の着物を(まと)った端正な男の姿を映す。

 奈落のように深い群青色の髪と、切れ長の目元の奥に輝くアズライトの禍々(まがまが)しい青。

「嫌いな人間を一人、この世から消し去ったので気分が良いのです」

 闇子は黒く艶のある長い髪を揺らしながら、嬉しそうに会話を続ける。

「父様には何か思うところがあるのではなくて? 旧知の仲でらしたのでしょう?」

彩子(さいこ)には済まないことをしたと思ってはいるさ。しかし、蘭丸(らんまる)くんに『電光石火』が渡るためには仕方がなかった」

 何故、群青が蘭丸を急いで妖刀使いにしたがるのか闇子は知らない。目の前の最強にして最凶の男は肝心なことは何一つ闇子に語ることはない。

「『宵闇(よいやみ)』、良い刀だろう?」

「ええ……私の言うことをよく聞いてくれるし……とても良い子ですわ」

「闇子……」

 群青の闇に深く溶けていくような、落ち着いた声が部屋に静かに渡る。その響きは意思を持った蛇のように闇子を縛る。

 縛呪(ばくじゅ)が含まれた声音(こわね)。全てを射抜く視線。それらに闇子は内心、萎縮している。

「君には私の魔術と陰陽道、錬金術を組み合わせた最高の身体を与えた。どうせなら、もっと君を強くすることも出来るのだけど……どうするね?」

「私は……今のままで満足ですから」

 闇子は瞳を大袈裟に歪めながら笑った。否、笑う真似をした。

 彼は今度こそ自分の中から蘭丸、音無しの記憶を綺麗に切り取って無かったことにしてしまうような気がする。まるで要らないゴミを屑篭(くずかご)へ捨ててしまうように。

 群青は闇子にホムンクルスの身体を与えて封印とした。が、彼女のような理解しがたいモノを世に放ち、父様と呼ばせて好き勝手させている。

 その理解しがたい行動も含めて、やはり得体が知れない。

 ゆえに闇子は、この雨下石家の当主を(した)い、同時に(おそ)れてもいるのだった。



 真夜中のこと。曇天(どんてん)は暗く冷えながら空に座して、人なるものの温もりさえ奪う(とき)

 その下でたくさんの妖怪たちが騒いでいた。歓喜と関心の声が飛び交い、まるで百鬼夜行のお祭り騒ぎである。

 (みぎわ) 彩子(さいこ)が亡くなったらしいという噂は妖たちにとって、とても重要で興味の尽きない話題なのだった。

 それほどまでに彩子は畏怖(いふ)の念を持って、妖たちに怖れられていたのだ。

「しかし妖刀ってのは次の所有者が受け継ぐから始末に悪いよな」

 大きな口から長い舌を伸ばして、その妖は誰とも無しに声を出す。

「本当は妖刀自体を滅する方法があれば良いんだがねぇ」

 両手に目玉を生やした妖が、愉快そうな足取りで右に左に揺れながら歩く。

「何にしても、あの鬼の彩子(・・・・)が死んだってのは喜ばしいことだわ」

 ケラケラと笑う顔の大きな異形の女。

 それぞれがそれぞれの思いを胸に、彩子の死を(よろこ)んでいる。

 酒の匂いと血の臭い。狐火や人魂の(あお)い灯りが異形の者たちを闇に映し出しては揺れている。

「死因は病気か事故か? まさか妖に()られたわけではあるまい」

「それが闇子とかいうのに()けたらしい」

「闇子? 聞いたことねぇ名だな」

「妖刀使いを無名の妖が殺したってのか? 嘘臭ぇ話だ」

 愉悦(ゆえつ)に騒ぐ百鬼夜行の何処かで、何体かの妖の首が跳んだ。

「妖刀使いだぁ!」

 その一声を始まりに、多くの妖たちが不穏に騒ぎ始める。

 自然と百鬼夜行の群れが二つに分かれて道が出来上がる。その端には漆黒の道着を纏った黒髪、美貌の剣客が立っていた。

「聞きたいことがある……」

 話途中で逃げ出した妖の首が、また跳んだ。黒衣の妖刀使いは何者も逃がす気はないらしい。

「な、何だお前ぇ――」

 また、妖の首が跳ぶ。

「俺の質問にだけ答えろ。従わなければ殺す!」

 美貌の剣客は刀の柄に触れたまま、身動き一つせずに妖を斬ってゆく。何処(どこ)かで斬る動作は行なわれているのだろうが、その所作は誰にも見ることが出来ない。

「ありゃ『電光石――」

 また一つ、妖の首が跳んだ。情けというものがない。

「闇子が何処に居るか知らないか?」

 剣客の声は地を這うように低く、そこにいる全ての妖どもを震え上がらせた。

「お、俺達は何も知らねぇ。ただ話していただけだぁ」

 怯えながら口を開いた妖の首も、すぐに跳んだ。

「闇子の居場所を知っているものだけ喋れ!」

 その一声に妖たちは蜂の巣を突いたように逃げ始めた。闇子の居場所を知るものなど、誰もいなかったのだ。

 妖刀『電光石火』が三度輝くと、速く鋭い剣閃が妖たちを襲う。

 蘭丸は縦横無尽に群れの中を駆けた。彼が足を一歩踏み出すごとに、幾つもの妖の首やら手足が跳ぶ。

 真っ二つにされるモノ。四肢が千切れ飛ぶモノ。跡形も無くなるモノ。その斬り様は苛烈を極めた。

 『電光石火』は五振りの妖刀の中でも随一(ずいいち)(はや)さを誇る。

 彩子は超高速の居合いという形でその威力を発揮したが、蘭丸のそれは鞘から刀を抜く動作すら人の目に映らない。

 もはや「斬る」という概念すら超えている。

 心の真ん中に空いたカラッポを埋めるように、蘭丸は容赦なく妖刀を振るう。

 それは退治というよりも、無残に命を刈り取るといった表現が相応しく、一方的な暴力でしかなかった。

「それくらいで止めたまえ! 蘭丸くん!」

 妖刀使いの動きがピタリと止んだ。

「もう気が済んだろう」

 花浅葱(はなあさぎ)の着物を纏った水色の剣客が辺りを見回すと、何処に目を向けても妖の死体が映らない場所はなかった。

 まさに地獄絵図である。

「これではどちらが妖だか分かりゃしない」

 (まれ)に妖刀使いになったことで、闇に堕ちる者が出る。使い手が闇堕ちした妖刀の刀身は黒く染まるのが特徴だ。

 そんな(やから)(さと)し、正すのも妖刀使いの仕事の一つに含まれる。最悪、その場で始末しなければならないときもある。

浅葱(あさぎ)殿……」

「どうやら私の声が届くくらいには正気のようだな」

 浅葱は深く溜め息をついた。蘭丸を斬る必要がないと判断して安心したのだ。

「彩子殿から君宛の手紙を預かっている。渡さずに済めば良かったのだがね」

 浅葱は(ふところ)から一枚の懐紙(かいし)を取り出して、蘭丸に手渡した。

『この手紙は私がもしものことで死んだときに、お前へ渡してくれるよう浅葱殿に頼んでおいたものだ』

 そんな一文から始まる内容であった。

『蘭丸、コレを読んでいるということは、私は運命に抗うことに失敗したのだな。だが、悲しむことではない。妖刀使いの最後というものは、多かれ少なかれこんなものなんだ。だから間違っても私の(かたき)を討とうなどと思うな。逆上して冷静さを失うな。お前は一見冷静に見えて根っこの部分は情熱的だから心配だよ』

 空からチラチラと白い雪が降りてくる。

『妖刀使いは過酷な生き方から逃がれられはしないが、人らしく生きることは出来る。少なくとも私は人として生きたつもりだ。願わくばお前には人を(いつく)しみ、人のために刀を振るって欲しい。これは私の最後の我儘(わがまま)だ。汲んでくれ』

 彼の中に吹き荒れる暴風はいつの間にか止み、心には虚無(きょむ)の穴だけが残った。

「師匠……俺は」

 まだ教えて欲しいことは山とあった。まだ返せていない恩義も山と残っている。

『どうせ何かを殺すなら、決して揺らぐことの無い信念を持てよ。でなきゃ殺す側に失礼じゃないか』

 自ら斬った妖の(むくろ)だらけの中心で膝を折り、(うずくま)る。

「彩子が蘭丸くんに託した言葉は伝えた。あとは君の好きにするといい」

 浅葱は舞い始めた冷たい花弁(はなびら)に少し視線を向けてから、白の狭間に消えていった。

 沈黙を守りながら、雪は静かに夜のしじま(・・・)に降り積もってゆく。

 蘭丸は震える足を前に出して、闇の向こう側を見据(みす)えた。

 よろめきながら頼りなく歩き出す。歩いていかねばならない。渚 彩子がそうであったように、妖刀使いとしての誇り、人としての道を手探りながら。


 そして、月日は過ぎる。
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