第1話「夜想」

文字数 2,773文字

 (ぬえ)は人の世が好きというわけではない。

 人特有のキンキンキャーキャーと騒ぐ声も、ボソボソと()もった囁きも、どちらも耳に(さわ)る。まるで五月蠅(うるさ)い虫のように(わずら)わしい。

 話しかけられるのも嫌だし、触れられるのも嫌だ。

 それでも『左団扇(ひだりうちわ)』に居たのは、亜緒(あお)の傍を離れたくなかったからに他ならない。

 鵺には雨下石(しずくいし)家の次期当主に憑いて守護するという使命があるからだ。本能と云い換えても良い。

 亜緒が右目を失って帰ってきた夜、鵺の取り乱しようといったらなかった。

「この狐! よくも亜緒を!」

 瞳孔が縦長に締まって、鵺の瞳からは殺気が分かりやすいくらいハッキリと見て取れた。

「いいんだ鵺。玉響(たまゆら)がいなければ、僕は(むらさき)に殺されてた。だから、良いんだ」

 亜緒が右目の眼帯を撫でながら、鵺の激昂(げっこう)を静めようと(なだ)める。

「でも! きっと狐はこうなることを知ってて亜緒を連れ出したんだ。鵺が一緒に行けば、こんなこと絶対にさせなかった」

「僕だって知っていたさ。だから鵺を同行させなかったんだ」

 神様と争そったって結果は知れている。勝つ見込みの無い戦いに鵺を巻き込むわけにはいかない。

 それに、この結果は亜緒の自業自得というものだ。

「亜緒……良く聞いて。その瞳はね、私と貴方を繋ぐ、確かで()()えのない唯一の絆なんだよ」

 長い雨下石家の歴史の中で、鵺は次期当主に憑くのを途中で止め、別の者に替えたこともある。理由は様々だが、亜緒に資格が無くなれば鵺は別の当主候補へと憑くことになる。

 蘭丸(らんまる)は黙ったまま、腕を組んでいる。雨下石家の問題に口を挟む資格を持たないと思っているからだ。

 これから雨下石家は騒がしくなるだろう。亜緒に次期当主の資格が有る無しを巡って。

「私、神社へ帰るよ。本当にごめんね……亜緒ちゃん」

 元気なく(つぶや)くと、玉響は少しだけ笑顔を見せた。が、いつものような緩んだ感じが無い。

「玉響、あまり気にするな。お前は間違っていない」

 蘭丸も一緒に出て行く。玉響を神社まで送るつもりなのだろう。



 蘭丸と玉響は言葉無く、神社への道を辿っていた。

 蘭丸の吐く息は白い。暮れの時期である。あと一ヶ月あまりで大正十一年となる。

「余計なことかもしれないが――」

 黒尽くめの着物を着込んだ剣客はワザとらしい咳払い一つの後に話を切り出した。

「亜緒は君が思うほど弱い奴では無い。だから心配ない……と思うぞ」

 不器用な妖刀使いの励ましに、玉響は思わず頬が緩む。

 彼女は笑うと何やら相手を小馬鹿にしたような表情になってしまうので、すぐに笑みを消す。

 玉響は妖刀使いを好かないが、蘭丸のことは嫌いではなかった。

 彼の内から流れ出てくる温もりは、何処(どこ)か孤独を(はら)んでいて心地が良かったし、彼の作った稲荷寿司は美味しかった。それがもう食べられないと思ったら、少しだけ寂しくなって歩幅が狭くなった。

「もう、此処(ここ)でいいよ」

 神社の鳥居のすぐ前の石段で玉響は足を止めた。赤い細身柱の灯篭(とうろう)の灯りが其処此処(そこここ)で揺れている。

「新築の神社はね、広くてまだ木の匂いがするんだ」

「そうか。たまには遊びにくるといい」

「あはは。気を遣ってくれなくてもいいよ。神様が神社をしょっちゅう離れるわけにはいかないもんね~」

 蘭丸と別れて一人階段を上って鳥居を(くぐ)ると、そこには広い空間がポッカリと口を開けて玉響を待っていた。

「独りは慣れてるつもりだったんだけどなぁ。左団扇って、居心地悪すぎだよ」

 人懐っこくて寂しがりやの神様は、また独りぼっちになった。

 乾いた風が玉響の髪をクルクルと回すから、彼女は頭を押さえた。



 それは何処とも知れない闇の中。

 地上かもしれないし、異空間かもしれない。どちらにしても、彼女が居る場所は常人には計り知れない。

「本当に、この国の闇はとても心地が良い。それは貴女が居るせいかもしれませんね」

「ようこそ、伯爵。久しぶりね」

 闇子(やみこ)はエンペラー=トマトケチャップと名乗る優男(やさおとこ)に形ばかりの笑顔で応えた。

 吸血鬼。彷徨(さまよ)不死者(ノスフェラトゥ)は、太陽が黒く輝く世界では最強の妖の一つに数えられる。

 闇よりも深く、何よりも最強で、時間よりも孤独だ。

「今回は何のためにこの国へ?」

「旅行です。ただ、単純にね。雨下石家への挨拶は済ませてありますよ」

 人の世に驚異となり過ぎる大妖は、雨下石家か紅桃林(ことばやし)家へ入国の目的を伝えて滞在の許可を得なければならない。

 そのついでに伯爵は闇子の(ところ)にも顔を出したのだった。

「欧州でまた大きな戦争が起こりそうな雰囲気なのです。おそらく二度目の世界戦争にまで拡大するでしょう。騒がしくなる前に日本を訪れておきたかったのですよ」

「その戦争は貴方が起こすのでしょう?」

 闇子の薄笑いに、伯爵が意味深な笑顔を浮かべる。

「こちらはソルト=アン。私の従者です。確か貴女は初対面でしたね」

 目つきの悪い痩せた少女が、無言で頭を深々と下げた。ゴシック調のメイド服が闇に揺れる。

 従者のほうが吸血鬼らしい風貌をしている。伯爵のほうは全く無害そうな、普通の青年に見える。顔色も良い。

 唐突に闇子がピアノを弾き始めた。芸術好きの伯爵のために鍵盤に手を乗せたのか、それとも気紛れか。いずれにしても話は終わったということだろう。

「エリック・サティ、『三つのグノシエンヌ』ですか。この曲は素敵ですね。まるで我が祖国の風景が見えるようだ」

 この神秘的な雰囲気を醸す曲は、サティが一八八九年のパリ万国博覧会で知ったルーマニア音楽の影響から生まれたと云われている。

 やがて曲が第二番へと移ってゆく。

「外出するな……(おご)りたかぶるな……」

 伯爵が口にしたのは、楽譜に記されているサティ直筆の注意書きの一文である。彼はもしかしたらサティ本人に会ったことがあるのかもしれない。芸術を愛する不死者なら、ありうる。

「肝に銘じておくとしましょう」

 伯爵と従者は闇の彼方へと消えた。
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