第25話 なぞの念仏

文字数 1,058文字

その日の夜、宿直を務めていた家治付近習の酒井忠香は、

上御鈴廊下の杉戸が開いている事に気づいた。

「公方様は、病床にある故、お渡りはないはず。

何故、杉戸が開いておる? 」
 
 酒井は、すぐさま、定之助を呼びつけた。

「半時前、見廻った時には、確かに閉じておりました。

御殿向側が、閉め忘れたのではござらんか? 

わしを疑うのは、御錠口番に確かめてからにして頂きたい」

  2人は互いに、一歩も譲らぬ勢いで対峙した。

その内、二丸御殿の方から、女のすすり泣く声と共に、

遠く近くから念仏が聞こえて来た。

「公方様が闘病なさっておられる時に、

念仏を唱えるとは、実に不謹慎極まりない。注意せねばならぬ」
 
 酒井は、鼻息を荒くして【二丸御殿】に向かおうとした。

「酒井殿。二丸御殿には、長い間、宝蓮院様がお住まいでしたが、

今年の正月に、宝蓮院様が、身罷られたのを最後、

今は、何方もお住まいではないはずです」
 
 定之助はあわてて、酒井を引き留めた。

「二丸御殿には、確か、家重公側室の

安祥院様もお住まいではなかったか?

久しく、消息を聞いていないが、身罷ってはいないはずじゃ」
 
 酒井が神妙な面持ちで言った。

「さすれば、念仏を唱えておるのは、

安祥院様だという事になりますな」
 
 定之助が言った。

 将軍側室に注意するなど出来ない。

そして、2人は、互いの顔を見合わせて、互いの意思を確認した。

その瞬間、背後が、花火が上がったかの様に明るくなった。

「火事だ」
 
 2人は、踵を返すと、我先に、

赤い光がもれている御休息之間へ駆け込んだ。

すると、下段で、於知保が、座ったまま眠りこけていた。

上段からは、獣が威嚇するような低い唸り声が聞こえて来た。

「御方様。如何なされましたか? どうか、目をお開けくだされ」
 
 酒井は、於知保がどうにかなったかと

早合点して於知保の肩を揺さぶった。

「寝てはおらぬ。ちと、目を閉じただけじゃ」
 
 於知保は、目を覚ますと、眠っていないと言い張った。

「御方様。御無事で、何よりでござる」
 
 定之助は、安堵したように言った。

「公方様。御無事でござるか? 」
 
 酒井は、おそるおそる枕元に近づいて、

家治の顔をのぞき込んだ。

家治は、かすかに寝息を立てていた。

「安らかに眠っておられるではないか」
 
 於知保は、酒井の肩越しに

家治の顔をのぞくと酒井の耳元でささやいた。

「今しがた、こちらから、

炎が上がっているのが見えました故、

公方様の御身に、

何か起きたのではないかと思い駆けつけましたが、

ご無事のようで安堵致しました」
 
 酒井が神妙な面持ちで告げた。
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