第3話 定之助

文字数 1,657文字

10月には、豊千代は、家治と養子縁組をして、

名を【豊千代】から【家斉】と改め、

その生母、於富とその許嫁の茂姫と共に、一橋邸から江戸城西丸へ遷った。

 西丸に初めて入った日。

家斉は、西丸御殿の数ある部屋の中から【宇治之間】を居所に選んだ。

「大納言様。まことに、宇治之間にお決めになりますか? 」
 
 西丸小納戸の石谷清定が、家斉に念を押した。

「そちは、わしが、宇治之間に入ることが不満か? 」

  家斉が、石谷を見てにやりと笑った。

「そうではござらん。誤解なきよう申し上げますれば、

宇治之間には、紋付姿の亡霊が出るとの言い伝えがあり

長い間、開かずの間となっている次第」

  石谷が恐縮して告げた。

「開かずの間と聞いて、ますます、ここが気に入った」
 
 家斉が面白がった。

「大納言様。宇治之間は、元々、将軍世子の居所でしたが、

家基君の死後、開かずの間となったと聞き及んでおります」
 
 西丸小姓の木村重勇が、家斉に耳打ちした。

「大納言様。もう一つ、言上させてくだされ」
 
 石谷が言った。

「何じゃ? 」

  家斉がぶっきらぼうに訊ねた。

「その紋付姿の亡霊の姿を見た者には、

災いが降りかかるとの言い伝えがござる」

 石谷が声色を使った。

「恐らく、この者は、大納言様に、

宇治之間に入っていただきたくない故、

幽霊話をでっち上げているのでござるよ」
 
 木村が、家斉に耳打ちした。

「わしは、宇治之間を使うと決めた。

今後、何か、申す者がいたら、厳罰に処す」
 
 家斉は、西丸に勤仕する役人や近習たちの前で宣言した。

 自由に外出することもままならぬ江戸城西丸での暮らしは、

遊び盛りの家斉君にとって、窮屈以外の何ものでもなかったが、

唯一の慰めと云えば、於富と茂姫が、近くに居る事だった。

 家斉は、寂しさのあまり、奥向に入り浸った。

奥向へ行くと、やたら、見かける美形の若侍がいた。

奥女中の話では、その若侍は、男ながらに、

立花と茶の湯をたしなみ師範の腕前だという。

 奥向に出入りする者を厳しく監視する広敷役人たちですら、

その若侍が、奥向を自由に出入りすること黙認する始末だ。
 
 ある日、家斉は、偶然、廊下で、その若侍とすれ違った。

その若侍は、素早く廊下の隅に下がると、

家斉が通り過ぎるまでその場に平伏した。

「今しがた、廊下で会うたのは何奴じゃ? 」
 
 家斉が【宇治之間】に戻るなり訊ねた。

「あの者は、徒頭の中野清備の嫡子、中野定之助でござる」
 
 木村が答えた。

「部屋住の分際で、奥向を自由に出入りしておるのか? 」
 
 家斉が着座するなり訊ねた。

「はあ」
 
 木村が苦笑いした。

「西城の主としては、注意せねばならぬのう。

あの者を宇治之間へ召すが良い」

「御意のままに」
 
 それから、程なくして、定之助が宇治之間を訪れた。

「大納言様。中野定之助が参りました」
 
 木村は、部屋の中へ呼びかけた。

「通すが良い」

  家斉はあわてて、饅頭を下げさせると座り直した。

定之助が部屋の隅に着座した。

「そこに座っておっては、話ができぬではないか。

もちっと、ちこう寄らぬか」
 
 家斉は、口の端についた餡を拭うと手招きした。

定之助は、中へ進み入ると、家斉の御前に平伏した。

「何故、男子の身で奥向を出入りしておる? 」
 
 家斉が身を乗り出すと訊ねた。

「昨年、奥女中の行儀作法指南役を拝命し奥向を出入りしております」
 
 定之助のりりしい顔だちと澄んだ声に、家斉は思わず聞き入った。

「男子に、奥女中の礼儀作法指南役を任せるとは正気の沙汰とは思えぬ」
 
 家斉が言った。

「恐れながら、礼儀作法を指南するのに

男子も女子も違いなしと存じます」
 
 定之助の言葉に、家斉は返す言葉がなかった。

「大納言様。あの顔に見覚えがござる。

あの者は、家基君の乳母の初崎の甥でござる」
 
 定之助が宇治之間を出ると、木村が、家斉の傍に来て耳打ちした。

「さらば、定之助は、家基君とも面識があったに違いない。

なれど、近習であった石谷と異なり、

定之助は、顔色一つ変えることなく平然としておった」
 
 家斉は腕を組むと考え込んだ。



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