第49話 安祥院
文字数 2,095文字
天明7年の11月15日に、茂姫は、近衛家の養女として
家斉に嫁ぎ、御台所となり【近衛是子】と名を改めた。
これを機に、大奥は武家風に一新され、
御年寄たちは、奥女中たちに質素倹約を命じた。
宿下がりを終え、大奥へ戻った大崎は、
新人ばかりいる相部屋へ移った。
おさきと名を変えたため、大崎がかつて、
将軍付老女だった事を同室の者達は知らなかった。
また、箝口令が敷かれ、おさきの過去を知る者も、
大崎に、おさきとして接するよう努めた。
高丘は、大奥に平和が、ようやく、戻ったと安堵した。
お伊曰は、おさきの姿を見かける度、自責の念にかられていた。
このまま、黙っておく事も出来たが、
罪悪感でいっぱいになり、とうとう、おさきを捉まえて
使用していない部屋へ引き込むと、知っている事を洗いざらい話した。
「やはり、そうであったか。
文箱にしまっておいた書状が無くなっていた故、妙だと思ったのだ。
謎が解けて、胸につかえていたものが取れた気がする。
教えてくれて礼を申す」
おさきは怒るどころか、安堵したように言った。
「蓮光院様に、復讐したいとは思わないのですか? 」
お伊曰は、おさきの顔をのぞき込むと訊ねた。
「復讐からは、何も生まれぬ。過ぎた事だと忘れる方が賢明です」
おさきは、穏やかに告げると持ち場へ戻った。
将軍付老女まで上り詰めた人は、やはり、人間が出来ている。
お伊曰は、おさきに尊敬の念を抱いた。
於富の部屋に戻ると、高丘が来ていた。
お伊曰はいつものように、お茶を出すと下がった。
「待ちやぁ」
高丘は、障子を閉めようとしたお伊曰を呼び止めた。
「何か? 」
お伊曰は、高丘の向かい側に座り直した。
「おまえは、確か、蓮光院様の看病役を務めておったな? 」
高丘は、お伊曰を見据えると訊ねた。
「さようです」
お伊曰は嫌な予感がした。
「此度は、二丸御殿におられる安祥院様に付け。
今いる看病人が使えぬ故、暇を出した」
高丘が涼しい顔で言った。
「私は、御上意で於富様付となりました。
故に、公方様の御許しなくして、他へ移る事は出来かねます」
お伊曰はダメもとで拒んだ。
「大奥の人事権は、御年寄筆頭が持つ。
こればかりは、将軍とて口出しは出来ぬ。
これを安祥院様の御膳に混ぜるのじゃ」
高丘は懐から懐紙に包んだ粉薬を取り出すと、
お伊曰の手に握らせた。
「もしや、安祥院様に毒を盛れとお命じでございますか? 」
お伊曰は、驚きのあまり飛び上がった。
「安祥院様が、二丸御殿にお住まいだと知る者は今では、
私と大崎局だけじゃ。大崎は、御次に降格した故、
奥向から出る事はまずない。安祥院様は近頃、
風邪が長引き床に臥せりがちだそうじゃ。
ぽっくり逝ったとしても怪しまれる事はなかろう」
高丘が小声で言った。
「何故、安祥院様を亡き者となさるのでございますか?
奥医師が、安祥院様の御身体を調べれば、
毒を盛られたと気づくはずです。
もしか、安祥院様の死に疑問を持たれたら、
御膳を出した私が、真っ先に疑われて死罪に処されます。
いくら、高丘局の御命令でも、命を懸ける事だけは出来かねます」
お伊曰が青い顔で訴えた。
「野良犬同然だったおまえを奥女中にしてやった恩を忘れたか?
私が、手を差し伸べなければ、
今頃、おまえは、吉原に身売りされていたのだぞ」
高丘は、お伊曰の肩に手を置くとお伊曰の顔を覗き込んだ。
「他の事で、恩をお返しします。
故に、人殺しだけは、御勘弁くだされ。
死んだ兄に、あの世で会わす顔がなくなります」
お伊曰は涙をこぼした。
「おまえの亡くなった兄は、人殺しではないか?
人殺しの妹の分際で、今更、何を申す?
おまえが、罪人の妹だと公方様が知ったら、どうお思いになるかのう」
高丘が不敵な笑みを浮かべた。
「それだけは、おやめくだされ。
兄の無念を晴らせなくなります。わかりました。
安祥院様の御膳に混ぜるだけでよろしゅうございますか?
まことに、私は死なずに済みますよね? 」
お伊曰は、粉薬を見つめながら覚悟を決めた。
「しばしの間、身を隠せるように手配する故、案ずるには及ばぬ」
高丘は、お伊曰の涙を指でぬぐうと言った。
その後、お伊曰は、安祥院暗殺が決まったのか
理由を知らされないまま、命じられた通り、看病役に就いた。
安祥院が寝起きしている部屋の障子は、所々に破れがあり、
畳は黄ばみ、饐えた匂いがした。
御付の御女中二人も、安祥院と同じ年頃に見えた。
「篤子。そなたが、戻ってくれて嬉しい」
安祥院は、半ボケしているらしく、
お伊曰が、何度違うと訂正しても、
篤子という御女中と間違えるため、
そのうち、訂正するのが面倒になり、篤子を演じるようになった。
奇しくも、安祥院暗殺決行日は、
家斉が久し振りに、お渡りする日だった。
公方様を迎えるにあたり、奥女中たちは、
御褥の事にかかりきりになるこの日を選んだのは、
御褥の準備などで、二丸御殿に、いっそう、目が行き届かなくなり、
不審な動きがあって目立たないと言うのが理由らしい。
「如何なされた? 」
安祥院付の御女中のお園が、お伊曰が、
御膳を安祥院に出す事を躊躇している事に気づき訊ねた。
家斉に嫁ぎ、御台所となり【近衛是子】と名を改めた。
これを機に、大奥は武家風に一新され、
御年寄たちは、奥女中たちに質素倹約を命じた。
宿下がりを終え、大奥へ戻った大崎は、
新人ばかりいる相部屋へ移った。
おさきと名を変えたため、大崎がかつて、
将軍付老女だった事を同室の者達は知らなかった。
また、箝口令が敷かれ、おさきの過去を知る者も、
大崎に、おさきとして接するよう努めた。
高丘は、大奥に平和が、ようやく、戻ったと安堵した。
お伊曰は、おさきの姿を見かける度、自責の念にかられていた。
このまま、黙っておく事も出来たが、
罪悪感でいっぱいになり、とうとう、おさきを捉まえて
使用していない部屋へ引き込むと、知っている事を洗いざらい話した。
「やはり、そうであったか。
文箱にしまっておいた書状が無くなっていた故、妙だと思ったのだ。
謎が解けて、胸につかえていたものが取れた気がする。
教えてくれて礼を申す」
おさきは怒るどころか、安堵したように言った。
「蓮光院様に、復讐したいとは思わないのですか? 」
お伊曰は、おさきの顔をのぞき込むと訊ねた。
「復讐からは、何も生まれぬ。過ぎた事だと忘れる方が賢明です」
おさきは、穏やかに告げると持ち場へ戻った。
将軍付老女まで上り詰めた人は、やはり、人間が出来ている。
お伊曰は、おさきに尊敬の念を抱いた。
於富の部屋に戻ると、高丘が来ていた。
お伊曰はいつものように、お茶を出すと下がった。
「待ちやぁ」
高丘は、障子を閉めようとしたお伊曰を呼び止めた。
「何か? 」
お伊曰は、高丘の向かい側に座り直した。
「おまえは、確か、蓮光院様の看病役を務めておったな? 」
高丘は、お伊曰を見据えると訊ねた。
「さようです」
お伊曰は嫌な予感がした。
「此度は、二丸御殿におられる安祥院様に付け。
今いる看病人が使えぬ故、暇を出した」
高丘が涼しい顔で言った。
「私は、御上意で於富様付となりました。
故に、公方様の御許しなくして、他へ移る事は出来かねます」
お伊曰はダメもとで拒んだ。
「大奥の人事権は、御年寄筆頭が持つ。
こればかりは、将軍とて口出しは出来ぬ。
これを安祥院様の御膳に混ぜるのじゃ」
高丘は懐から懐紙に包んだ粉薬を取り出すと、
お伊曰の手に握らせた。
「もしや、安祥院様に毒を盛れとお命じでございますか? 」
お伊曰は、驚きのあまり飛び上がった。
「安祥院様が、二丸御殿にお住まいだと知る者は今では、
私と大崎局だけじゃ。大崎は、御次に降格した故、
奥向から出る事はまずない。安祥院様は近頃、
風邪が長引き床に臥せりがちだそうじゃ。
ぽっくり逝ったとしても怪しまれる事はなかろう」
高丘が小声で言った。
「何故、安祥院様を亡き者となさるのでございますか?
奥医師が、安祥院様の御身体を調べれば、
毒を盛られたと気づくはずです。
もしか、安祥院様の死に疑問を持たれたら、
御膳を出した私が、真っ先に疑われて死罪に処されます。
いくら、高丘局の御命令でも、命を懸ける事だけは出来かねます」
お伊曰が青い顔で訴えた。
「野良犬同然だったおまえを奥女中にしてやった恩を忘れたか?
私が、手を差し伸べなければ、
今頃、おまえは、吉原に身売りされていたのだぞ」
高丘は、お伊曰の肩に手を置くとお伊曰の顔を覗き込んだ。
「他の事で、恩をお返しします。
故に、人殺しだけは、御勘弁くだされ。
死んだ兄に、あの世で会わす顔がなくなります」
お伊曰は涙をこぼした。
「おまえの亡くなった兄は、人殺しではないか?
人殺しの妹の分際で、今更、何を申す?
おまえが、罪人の妹だと公方様が知ったら、どうお思いになるかのう」
高丘が不敵な笑みを浮かべた。
「それだけは、おやめくだされ。
兄の無念を晴らせなくなります。わかりました。
安祥院様の御膳に混ぜるだけでよろしゅうございますか?
まことに、私は死なずに済みますよね? 」
お伊曰は、粉薬を見つめながら覚悟を決めた。
「しばしの間、身を隠せるように手配する故、案ずるには及ばぬ」
高丘は、お伊曰の涙を指でぬぐうと言った。
その後、お伊曰は、安祥院暗殺が決まったのか
理由を知らされないまま、命じられた通り、看病役に就いた。
安祥院が寝起きしている部屋の障子は、所々に破れがあり、
畳は黄ばみ、饐えた匂いがした。
御付の御女中二人も、安祥院と同じ年頃に見えた。
「篤子。そなたが、戻ってくれて嬉しい」
安祥院は、半ボケしているらしく、
お伊曰が、何度違うと訂正しても、
篤子という御女中と間違えるため、
そのうち、訂正するのが面倒になり、篤子を演じるようになった。
奇しくも、安祥院暗殺決行日は、
家斉が久し振りに、お渡りする日だった。
公方様を迎えるにあたり、奥女中たちは、
御褥の事にかかりきりになるこの日を選んだのは、
御褥の準備などで、二丸御殿に、いっそう、目が行き届かなくなり、
不審な動きがあって目立たないと言うのが理由らしい。
「如何なされた? 」
安祥院付の御女中のお園が、お伊曰が、
御膳を安祥院に出す事を躊躇している事に気づき訊ねた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)
(ログインが必要です)