第24話 禁断の果実

文字数 2,100文字

清水宮内卿とは、徳川重好の名称だ。重好は、

御三卿の清水徳川家の当主で、家治の弟君にあたる。

兄弟仲は良く、御台所の五十宮倫子様の御存命中は、

夫婦で、清水邸を頻繁に訪ねていたという。

 家基の死後、家治の弟にあたる重好を差し置き、

家基の後継者であった家斉君が将軍世子となった事もあり、

不仲になったともいわれている。

 最近では、家臣の長尾幸兵衛が主君の重好を

将軍職に就けるもくろみで、意次に多額の賄賂を贈っていたという

疑惑が浮上して問題となっていた。

「越中殿も、見舞いを願い出たようですが、

側衆に体よく断られたとの事です。

越中殿とは会いましたか? 」
 
 家斉が饅頭を手に言った。

「会うも何も、外様の事なんぞ気にしておりませんでした」
 
 治済は苦笑いした。

「意次の奴は、越中殿が登城したと聞くなり、

何処かへ走り去ったそうですよ」
 
 家斉は、あの話が真実だから、

顔を合わすのが気まずくて逃げたのだと考えた。

「白河藩へ追いやった負い目から、

越中と再会するのが気まずかったのだろう」
 
 治済が面白がった。

「薩摩守とは、会いましたか? 」

家斉はふと、島津重豪としばらく、会っていない事に気づいた。

「幕府が、御三家や御三卿以外、

公方様への拝謁を断っていると言うし遠慮したのだろう」
 
 治済がニヤリと笑った。

「父上は、薩摩守の近状について、何か、御存じでござるか? 」
 
 家斉は、治済ならば、遠国大名の近状を知るのはお手の物だと考えた。

「薩摩守といえば、幕府から、

カピタンと内通しているとの疑いを持たれておるようですぞ」
 
 治済は、小声で言った。

安永8年から天明4年の間、3度、

カピタンとして長崎出島に赴任したイサーク・ティチングは、

島津重豪を通して、日本の機密情報を収集しているという噂があったが、

確たる証拠がなく蘭癖の大名にありがちな噂に留まった。

「それは、まことでござるか? 」
 
 家斉が身を乗り出して訊ねた。

「意次が、蝦夷地開発に着手するように、

仕向けたのは、岳父だと思い込んでいる者も少なくない」

 治済が答えた。

 家斉は、自分が蝦夷地開発に協力した事をうやむやにするため、

かねてから、蘭癖と世に聞こえる重豪が、

カピタンと内通しているという

いかにもありえそうな情報を流したのは、

治済本人ではないかと疑った。

一方、治済は、何食わぬ顔で懐から桃を取り出した。

「その桃は、如何なされましたか? 」
 
 家斉は、治済が手にしている桃に目が行った。

瑞々しくて美味しそうだ。

「これか? 越中の置き土産じゃ」

  治済は、美味そうに桃をかじりながら言った。

 そのころ、御膳所では、於知保が突然、

桃を胸に抱えて膳所に入って来たと思えば、

次の瞬間、自ら、桃をむきだしたため、

膳所の役人たちが、於知保の周りで右往左往していた。

「公方様は何も召し上がらぬ故、体力がつかぬ。

桃ならば、口にして下さるかもしれぬ」
 
 於知保は、慣れない手つきで桃をむいていたが、

手元が滑って指を切ってしまった。

「後は、それがしが代わります故、先にお戻りくだされ」
 
 於知保に付き添って来た意次が、見かねて於知保と交替した。

「主殿頭。桃は、ちと、まずいのではござらんか? 」
 
 周囲を取り囲んでいた御膳所の役人たちは、

桃は、眺めるだけで将軍の御膳に

出す物ではないとされていたことから心配した。

「桃は、有毒ではないが、そちらの申す通り、

本来ならば、将軍の御膳には、上がらぬ品じゃ。

故に、この事は、誰にも話してはならぬ。良いな? 」
 
 意次は念を押すと、膳所の役人たちはうなずいてみせた。

その後、意次は、剥き終えた桃を食べやすい大きさに切り分けると、

皿に盛って、【御休息之間】の前に居た小納戸の林忠英に手渡した。

「公方様。越中殿が、お見舞いの品として献上した

白河産の桃でございます。お召し上がりになりませぬか? 」
 
 於知保は、忠英から、桃を載せた皿を受け取ると、枕元に置いた。

「食わせてくれるか? 」
 
 家治は、頭を横に向けると目を閉じたまま口を開けた。

「瑞々しくて甘く、食べ頃でございますぞ」
 
 於知保は、家治の口の中に、桃の欠片を入れた。

家治は、桃を半分、食べ終えると口を閉じた。

「半分も、お召し上がりなさったか」
 
 意次は、下げられた皿を見るなり、思わず、目頭を押さえた。

 於知保は、家治が安らかに眠る姿を確認すると席を外した。

意次は、拝謁を許されず【御休息之間】の外へ追いやられていた。

「まだ、そこにおったのか? 公方様は、そなたが、

政務をおろそかにする事は望んでおらぬ。戻られよ」
 
 厠から戻った於知保は、【御休息之間】の前に居座る意次を諫めた。

「いつまた、病状が変わるかも知れぬ時に

御側を離れる事は出来かねます。

せめて、お近くで見守る事だけでもお許し頂きたい」
 
 意次は、床に這いつくばるようにして願い出た。

「我が、傍についておる。それに、何かあれば、

ただちに、処置が出来るように、御匙を御座之間に待たせてある。

公方様は、そなたとは、お会いにならぬと仰せじゃ。

あきらめて、政務に戻られよ」
 
 於知保は、意次を追い払った。意次は、肩を落として去って行った。




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