第58話 掛け軸

文字数 2,528文字

「斯様な時に茶など飲めるか」
 
 家斉は、木村に促されると着座した。

「心を落ち着かせて、私の話をお聞きくだされ」
 
 円成坊が、その場に居る人数分のお茶を出すと告げた。

「ちと、苦いが、これは何じゃ? 」
 
 家斉が、お茶を一口飲むなり顔をしかめた。

「煎茶にございます」
 
 円成坊が答えた。

「話には聞いた事はあるが、口にするのは初めてじゃ」
 
 木村が茶碗の底を見つめた。

「確かに、心が落ち着く」
 
 定信が小さく息をついた。

「実は、この掛け軸の絵の下には、

もう一枚、別の絵がございます」
 
 円成坊は、絵を掛け軸から慎重に剥がしながら言った。

円成坊が言った通り、絵の下から別の絵がまた現れた。

「絵が、2枚重なっていたとは、ちっとも、気づかなかった」
 
 家斉は、下になっていた絵を食い入るように見つめた。

「恐らく、何者かが、後から、この絵の上に、

紙を重ね貼り別の絵を描いたのでしょう」
 
 円成坊が神妙な面持ちで告げた。

「誰が何為に、斯様な小細工をしたと申すか? 」
 
 定信は腕を組んで思案した。

「円成坊。2枚の絵が重なっている事を見抜いたぐらいじゃ。

そちは、この絵について何か知っておるのであろう? 

話すが良い」
 
 家斉が、円成坊に命じた。

「上の絵は、演者の姿や着物の家紋を変えただけで、

後は、全く、同じでございます」
 
 円成坊は、上の絵を家斉に手渡した。

「そちの申す通りじゃ。演者の姿と着物の家紋以外、同じに見える」
 
 家斉は、2枚の絵を見比べた。

「何故、演者の面と着物の家紋を変えられたのじゃ? 」
 
 定信が、円成坊に訊ねた。

「恐らく、もとよりあった絵を見た者が、

何かを伝える為に、手を加えたのだと存じます。

もともと、この絵は、美濃の日龍峰寺で行われた

お能の様子が描かれています」

  円成坊が説明した。

「その美濃の寺の周りには、竹林があるのか? 」
 
 家斉が身を乗り出して訊ねた。

「ございます」
 
 円成坊が、定信を横目で見ながら答えた。

「そんなはずはない。どう見ても、清水寺ではないか? 」

  定信が声を荒げた。

「そう言えば、美濃に、本堂が、清水寺本堂の舞台造りと同じ

高野山真言宗の寺があると聞いた覚えがござる」
 
 定之助が思い出したように言った。

 それに対して、定信は、御用絵師の狩野惟信の講釈を鵜呑みにして、

法華経を読誦する東国方の僧は天台宗の僧侶を示すと考えて、

この演者は恐らく、天台座主である

閑院宮直仁親王第二王子、公啓入道親王。

坂上田村麿が着ている着物の家紋は、

閑院宮家の家紋の閑院菊である故、

この演者は、恐らく、光格天皇の父にあたる閑院宮典仁親王。

そして、清水寺門前の方は、鷹司家の家紋の牡丹である故、

この演者は、光格天皇の叔父にあたる関白の鷹司輔だと主張した。

「越中は、この絵を掛け軸に仕立て直して、

床の間に飾った余を勤王家の味方だと決めつけ、

帝が、何度も、幕府に対して、申し入れを行うのは、

余のせいじゃと言いよった」
 
 家斉がため息交じりに言った。

「下絵は、勤王家を示す絵でない事は明らかです」

  円成坊はきっぱりと断言した。

「言われてみれば、下絵は、坂上田村麿ではなく、

その化身とされている童子になっておる」
 
 定之助が冷静に告げた。
 
 円成坊は、下絵について解説しはじめた。

 これは、承久の乱の前日、後鳥羽上皇率いる倒幕軍が出陣を控え、

志気を高めるため修羅能を行ったとの筋書きで、描かれているのは、

まさしく、坂上田村麿の化身だとする少年が田村堂に入り、

ひとり取り残された東国方の僧の前に、

清水寺門前が現れ清水寺縁起を語る場でございます。

後鳥羽上皇は、菊紋の家紋から考えると、清水寺門前を演じておられる。

田村堂に入った坂上田村麿の化身とする少年が着ている着物の柄は都忘れ。

都忘れといえば、佐渡に配流となった順徳帝。

法華経を読誦する東国方の僧は、土御門帝の皇胤と言われている

日蓮宗の開祖の日蓮でございます。屋根に隠れる日は、

上の絵と同じく帝の死を示します。

「この寺の名は、日龍峰寺でございますが、

龍と聞いて思いつく事はございますか? 」 

 円成坊は、説明を終えると木村に訊ねた。
 
「承久の乱時の執権は、北条義時だとすると北条氏の家紋ではないか? 」
 
 木村は目を見開いた。

「北条氏の家紋は、鱗紋。鱗は、魚や蛇、龍の鱗を示すとされています」
 
 円成坊が、定信の方を見ると言った。

「下の絵を描いたのは何奴じゃ? 」
 
 家斉は思わず、訊ねた。

「絵の端に、裏梅鉢の家紋が描いてある」
 
 定信は、絵師の正体を示すだろう証をめざとく見つけた。

「恐らく、それは、金森家の家紋です」
 
 木村が、定信に言った。

「勤王家を思わせる絵の下に、改易となった

金森家の家紋が描かれた絵が隠されているとは、

ますます、わからなくなって来た」
 
 家斉は頭を抱えた。

「円成坊。そちは、いったい、何者なのじゃ? 

何故、この絵が、下にあるとわかった? 」
 
 定之助が、円成坊に訊ねた。

「実は、この絵は、父の形見にございます。

江戸屋敷に飾ってあったのですが、

御家がお取り潰しになった直後、紛失しました。

水戸様の御屋敷にあると、風の噂で聞き、

やんごとなき御仁のツテを頼り、鶴千代君にお仕え致しましたが、

見つける事が出来ませんでした。

まさか、公方様の手元にあったとは予想もしませんでした」
 
 円成坊は、感極まったのか涙をこぼした。

「もしや、そちは、美濃郡上藩主だった金森頼錦の子であったか? 」
 
 定信は、円成坊の顔をのぞき込むと訊ねた。

「さようです」
 
 円成坊は鼻をすすると答えた。

「公方様。何卒、この絵を私にお返し頂きたく存じ奉ります」
 
円成坊が、おそるおそる願い出た。

「よかろう。持って行くが良い」
 
 家斉は快く絵を円成坊に返した。

「その絵は、やはり、処分なされた方が、よろしいかと存じます」
 
 定信が上の絵について言った。

「たかが、絵ではないか? 

これを見て、勤王家だと申す者は愚か者じゃ」
 
 家斉は絵を手放す気はなかった。

「人目にふれる場に、飾られるのだけはおやめくだされ。

我は、公方様の御為を思い、あえて、苦言を呈しておるのでござる」

  定信は、引き下がるどころか強気な態度で迫った。




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