第44話 女の園

文字数 1,816文字

於知保は、大崎を見かける度、惨めな気分に陥った。

大崎が、田沼意次を強く意識している事は薄々勘づいていた。

意次は、将軍は、世継ぎの男子をもうけなければならないとして、

家治に、側室を持つ事を勧め懇意にしていた御年寄筆頭の松島に、

局の御中臈の中から側室を出させた。

その御中臈が、於知保だった。

御台所はまだ、若く子供を望めないわけではなかった。

意次からすれば、於知保は、思い通りになる側室でしかなかった。

於知保が、男子を生めばその子は世子となり

松島と結んだ意次の地位は保証される。

 於知保は男子を産むが、家治は、御台所の立場を守るため

於知保の産んだ男子を御台所の養子とした。

御台所の威厳は保たれたが、生母の於知保の気持ちが収まらなかった。

御台所が病死しなければ、於知保は、

自らの手で殺めていたかもしれないと思う程、

於知保は精神的に追い詰められた。

御台所の死後、家基は、於知保が育てる事になったが、

松島が何かと、家基の育て方に口を挟んで来た。

最初は、松島は、於知保を側室にまで上げてくれた

恩人ともあって素直に従っていたが、次第に、疎ましくなった。

於知保は、取り巻きの御中臈たちを使い、

松島局に嫌がらせをするようになった。

しばらくして、松島は、病を口実に大奥を去った。

家治が身罷り、桜田屋敷に遷る時、

別れのあいさつに訪れた大崎は、

憔悴しきった於知保に形式的なあいさつをしただけで労わる

言葉のひとつもかける事はなかった。

何者かに襲われ負った傷は時と共に癒えたが、

心の傷はいっこうに、癒えなかった。

1日中、部屋に閉じ籠っていた於知保が、

正気を取り戻したのは、看病人が何気なく発した一言にあった。

於知保は、何かに突き動かされるように喪服を脱ぎ棄て、

長い間、袖を通していなかった十二単を身に着けた。

書状を発見した時、天がついに、自分に味方したと直感した。

差出人は、御三卿の一橋治済。

日付は、田沼派の重鎮、御側御用取次の

横田準松が罷免される1週間前になっていた。

大崎は、田沼意次の罷免撤回を実現するため

高丘や滝川と行動を共にしていたはずだ。

それは、於富の強い意向によるものだった。

大崎は、尾張藩主のお屋敷にまで出向き

大奥の意向を伝える姿勢を見せながら、

裏では、同志を平気で裏切り治済に寝返っていたのだ。

この裏切りを知ったら、於富や高丘はどうするだろう? 

於知保は、千鳥之間に忍び込むと、

高丘が使用している机の上にその書状を置いた。

そして、何事もなかったかのように【桜田屋敷】へ引き返した。

於知保が【桜田屋敷】へ引き返した後、

高丘は机の上に、見慣れぬ書状の束があるのを見つけた。

宛名を確認すると、大崎宛ての書状だった。

間違えて置かれたと思い大崎に返そうとしたが、

中を見たい衝動にかられ、気がつくと、1番上の書状を広げていた。

その内容を読んで唖然とした。

大崎は、密かに治済と連絡を交わしていたのだ。

高丘は逸る気持ちを抑えながら、書状を手に於富の元へ向かった。

「於富様にお会いしたい」
 
 高丘は、障子の前に控えていた御中臈のお伊曰に告げた。

「於富様。高丘様がお見えにございます」
 
 お伊曰は、障子越しに中へ向かって告げた。

「通すが良い」
 
 於富の声が聞こえたと同時に、

高丘は、中へ飛び込むと於富の御前に着座した。

「ちょうど、良い所へ参った。

近じか、新たな老中が就任する運びとなった。

祝儀を用意せねばならぬ故、

そなたに、相談しようと考えていたところじゃ」
 
 於富が穏やかに告げた。

「その件でしたら、既に、於富様の署名付きにて

祝儀を贈らせていただきました。

それよりも、於富様。折り入って、

お伝えせねばならぬことがあり馳せ参じました。

これを御覧くだされ」
 
 高丘が、於富に書状を差し出した。

「何じゃ? 」
 
 於富は、疑う事なく書状に目を通した。

「大崎局は、何時から、民部卿と文のやり取りをしていたのでございましょうか? 

その書状の日付は、田沼派の重鎮、御用御取次の

横田準松殿が罷免される3日前になっております。偶然でしょうか? 」
 
 高丘が神妙な面持ちで告げた。

「何とした事か。2人が通じていたとは‥ 」
 
 於富は、驚きのあまり書状を膝の上に落とした。

「私も、それを見て驚きました。

中立を守って来られた公方様が、

横田殿を罷免したと知り何かあるとは思っていましたが、

裏で、斯様なやり取りがあったとは、

正直、大崎局には失望しました」
 
 高丘は、書状を拾い上げると言った。
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