第57話 宣下

文字数 2,403文字

「此度の一件で、帝も、越中の本懐が見えたはず。

これ以上、傷を広げぬ方が賢明じゃ。上皇や関白までもが、

此度の一件を深刻に受け止めておる。

そちが出たところで、こてんぱんにやられるだけじゃ」
 
 家斉がため息交じりに言った。

「処分は、覚悟の上でございます。

たとえ、死んでも悔いはござらぬ」
 
 中山がその場に平伏した。

「帝に、これを差し上げよ」
 
 家斉は、【御座之間】を出ようとした中山を呼び止めると、

家治の遺品の書物【愚管抄】を手渡した。

「あの、これは? 」

 中山は、【愚管抄】を渡した家斉の意図が読めず戸惑った。

「余からの贈り物だとお伝えせよ。聡明な帝ならば、

余の伝えたい儀が、何なのかお分かりになるはずじゃ」
 
 家斉が神妙な面持ちで答えた。

 迎え討つ朝廷側は、光格天皇が、父の典仁親王に、

【太上天皇号】を宣下する事を大反対する定信に対抗し、

朝幕間の学問的論争に引き起こした。

後に、寛政3年、12月、光格天皇は、「群議」を開き、

参議以上40名の公卿の内、三五名の賛意を得て

尊号宣下の強行を決定する事となる。

しかし、大政委任論を根拠に天皇に代わって、

幕府が公家を処分できるとの定信側の主張が通り、

幕府は、天皇に賛同し協力した公家を処罰した為、

中山愛親は、帰洛後、蟄居の上、議奏を罷免された。

また、幕府は、九州で活動していた勤皇家の

高山彦九郎を処罰し尊王論者を牽制した。

家斉は、幕府に対し、父の徳川治済に

【大御所】の尊号を与える宣言をしていたため、

事件の結末に納得が行かなかった。 

「公方様。大御所の尊号の件をめぐり、

大きく意見が割れておるようでござる」
 
 木村が、御休息之間にて頭を抱えている

家斉の元に良くない報せを持って来た。

「さもあろう」
 
 家斉は平静を装ったが。

父親に尊号を与える事すら出来ないのかと内心、悔しがった。

「太上天皇号を拒んだ手前、将軍の父御に、

大御所の尊号を贈るわけにはゆきませぬと

越中殿が強く、主張しているようでござる」
 
 木村は、家斉の心中も知らず冷静に告げた。

「白々しい言い訳じゃ」
 
 家斉は舌打ちした。

「公方様。越中殿が、火急の件にて、お目通りを願い出ております」
 
 杉戸越しに、定之助の声が聞こえた。

「公方様? 」
 
 木村は、家斉が、勢い良く立ち上がると

杉戸の前まで大股で歩いて行くという思わぬ行動に出たのであわてた。

木村が止める間もなく、家斉は勢い良く杉戸を開けた。

その瞬間、杉戸の目の前に着座していた定之助が、

バランスを崩して後ろに倒れた。

「火急の件とは何じゃ? 」
 
 家斉が、定信を見据えた。

「評議の結果、民部卿に、大御所の尊号を贈る件が

却下されました事をお伝えするため、馳せ参じた次第」
 
 定信が冷静に告げた。

「何故、余を除いて、評議に踏み切った? 」
 
 家斉は身を乗り出すと訊ねた。

「恐れながら、尊号を贈るか否かを決めるのは幕閣でござる。

たとえ、貴方様が、将軍であられようとも、

幕閣の決定には、従って頂かなければなりませぬ」
 
 定信が厳しい面持ちで告げた。

「己を白河藩へ追いやった憎き相手に、

尊号を贈る事は、面白くなかろう。尊号を贈る事は、

父上に権力を与えるようなものじゃ。

下手をすれば、幕政に干渉して来るかもしれぬ」
 
 家斉は腕を組んで反り返った。

「我は今、老中首座として、公方様の御前におります」
 
 定信が険しい表情で反論した。

「典仁親王に、尊号を贈る事を反対しておるのは、

民部卿に、尊号を贈らせないためではないのか? 」
 
 家斉は思わずカッとなり声を荒げた。

「帝は、公方様が2度も、

帝の申し入れをお認めになった事で、

公方様に申し入れさえすれば、

難題であっても、何とかなると勘違いなさったのでござろう。

朝廷が、公方様の承認を後ろ盾に、

古式にそった大内裏再建に踏み切った為、

幕府は、莫大な出費を強いられました。

公方様が、これだけ、帝に肩入れなさるのは、

勤王家であるからだと、多くの幕臣らが考えたはずです。

あれだけ、警告したにも関わらず、

あれはいったい、何のおつもりですか? 」
 
 定信は、勢い良く立ち上がると例の掛け軸を指差した。

「気に入っているのじゃ。何が悪い? 」
 
 家斉は、定信に詰め寄った。

「公方様が、お出来にならぬならば、

代わりに、処分して差し上げます」
 
 定信は何を思ったか、

掛け軸を床の間から取り去ると畳の上に投げ捨てた。

「何をする気じゃ? 」
 
 家斉は掛け軸に駆け寄った。

「手燭を持て」
 
 定信は、その場に居合わせた木村に火を持って来るよう命じた。

 木村は状況が掴めぬまま、命令に従い、手燭を定信に手渡した。

定信は、定之助に、桶一杯の水を運ばせると、手燭を掛け軸に近づけた。

「おおい、やめぬか。やめろと申すのが聞こえぬか? 」
 
 家斉が、ただならぬ気配を察して声を上げた。

定信は、何を思ったか、掛け軸に火をつけた。

 勢い良く燃え上がった掛け軸を前に、家斉は腰を抜かした。

「正気でござるか? 火つけは、大罪ですぞ」
 
 定之助が、火を消そうと、桶に近づいたその時だった。

 お茶を運んで来た円成坊が、血相を変えて駆けつけると、

桶の水を燃えている掛け軸にかけた。

掛け軸の火は消し止められたが、絵の部分を残して黒焦げになった。

「危うく、火事になる所でしたぞ」

  木村が、定信を非難した。

「火は消し止められたが、掛け軸が、黒焦げになった。どうしてくれる」
 
 家斉は半泣き状態だった。

「いっその事、燃えてしまった方が清々致しましょう」
 
 定信は、家斉に捨てる決心をつけさせるために、

火をつける暴挙に出たのだ。

定信は、黒焦げになった掛け軸を手に、

【御休息之間】を出ようとした。

「お待ちくだされ」
 
 円成坊が、定信の目の前に立ちはだかった。

「何の真似じゃ? 」
 
 定信が、円成坊を見据えた。

「お茶を召し上がってから、お帰りくだされ」
 
 円成坊は、定信の腕をつかむと座らせた。

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