第40話 引き際

文字数 2,013文字

「公方様。横田殿は、田沼派の重鎮でございます。

主殿頭は長きにわたり、公方様の寵愛をお受けになり

老中と側用人とを兼任しておられました。

家重公と家治公は、主殿頭を信頼し政を委ねておられました。

主殿頭はまさに、側用人政治を行ったと申しても過言ではありませぬ。

田沼意次の栄華を傍で、つぶさに見ていた横田殿のこと、

政局が混乱している今こそ、公方様を無体にして、

政を行おうと考えてもおかしくございませぬ。

都合が悪くなった時は、御上意と偽る恐れもございます」
 
 大崎は、横田準松を罷免するように家斉に迫った。

「しかり、その通りじゃ。余も、あの者と直に話し合い、

あの者の面の皮が、如何に厚いかを思い知った。

民部卿は、いずれ、あの者が、

余を無体にする事を見越した上で、

あの者を罷免するように進言なされたのじゃ。そうに、決まっとる」
 
 家斉は、改めて、父の偉大さに感動した。

「幕閣の人事権を御三家などに握らせてはなりませぬ。

公方様が自ら、沙汰を下し将軍家の威光をお示しくだされ」
 
 大崎は、家斉の手を取ると強く握った。

 田沼意致の病を知った治済は、家斉に書状を送り報告した。

病により、気が弱くなっていた意致は、

抵抗する力もなく免職に応じ、菊之間縁詰となった。

田沼派一掃に集中する治済に対し、

定信擁立を機に、幕政の刷新を目論む御三家は、

目的のためなら手段を選ばぬ治済のやり方に不快感を示すようになった。

これでは、定信が老中首座となっても、

治済が、将軍の父という立場を利用して

幕政に干渉してくる事は目に見えている。

次第に、御三家は、治済を警戒するようになり、

両者の間には、不穏な空気が流れ始めた。

家斉は、本郷と意致の罷免撤回を求め

登城しない横田を呼び出した。

「本来ならば、そちを真っ先に、

罷免すべき所をあえてそうしなかったのは、

そちに、今一度、冷静に、此度の件を考えて欲しかったからじゃ」
 
 家斉が、横田を見据えた。

「公方様。何卒、お考え直しくだされ。

それがしを罷免なされたら、後悔なさりますぞ」
 
 横田が険しい表情で訊ねた。

「たわけ者。貴様ごときを罷免させたところで、後悔などせぬ」
 
 家斉は、厳しい口調で言った。

横田は、家斉の剣幕に驚き、大人しくなった。

 翌日、家斉は、遂に、横田準松を罷免した。

本郷泰行、田沼意致に続き、横田が罷免された事により、

御側御用取次は、治済に加担した

反田沼派の小笠原信喜ただ1人となった。

 老中首座の松平康福と老中の牧野貞長は、

田沼意次失脚後も定信の老中就任に抵抗していた。

家斉は気が晴れるどころが、ますます、いら立ちを募らせた。

 イライラすると、無性に、甘い物を口にしたくなる。

抑えていた欲求が、積もり積もった苛立ちにより爆発して、

気がつくと、山のように積み上げられていたはずの

饅頭がなくなり丸高坏が空になっていた。

家斉は、口の周りと指にべったりとついた

餡を見るなり自責の念にかられた。

「公方様。ちと、食い過ぎではござらんか」
 
 木村はものの数分で、空になった丸高坏を見て呆気に取られた。

「正しい決断をしたはずなのに、何故、迷う事がある? 」
 
 家斉が畳の上でのたうちまわった。

「公方様。民部卿が、御目通りを願っておられます」
 
 忠英が障子越しに中へ告げた。

「病とでも言って、帰って頂け」
 
 家斉は誰とも会う気がしなかった。

「何が病じゃ。病人が、饅頭をたらふく食えるわけがなかろう」
 
 治済は、【土圭之間】にいた近習たちの

制止をふりきると家斉の元に乗り込んだ。

「民部卿。お控えくだされ。公方様の御前でござる」
 
 木村が、治済を咎めるも、

治済は、木村を無視して家斉の御前に勢い良く着座した。

「まことに、心を病んでおる。お引き取りくだされ」
 
 家斉が上体を起こすと言った。

「公方様に、折り入って、お願いしたき儀があり罷り出ました」
 
 治済がその場に平伏した。

「父上の御所望通り、田沼派は一掃しました。

他に、何を御所望でござるのか? 」
 
 家斉が冷ややかに言った。

「将軍付老女の大崎局を貰い受けたい」
 
 治済が緊張した面持ちで願い出た。

「今、何と申されたか? 」
 
 家斉が思わず身を乗り出した。

「大崎局を一橋家の御中臈として、迎え入れたいと考えております」
 
 治済がきっぱりと告げた。

「何故、斯様なご冗談を申されますか? 」
 
 家斉は笑い飛ばそうとした。

「冗談ではござらん。貴殿も無事に、

将軍にお成りになった事ですし、大崎局も役儀を果たしたと存じます」
 
 治済が上目遣いで言った。

「この件について、於富様と茂姫は承知しておりますか? 」
 
 家斉が眉をひそめた。

「まずは、公方様のお許しを頂かなければと思い、

まだ、話しておりませぬ」
 
 治済が決り悪そうに答えた。

「何故、大崎局を御所望なのでございますか? 

大崎局は、将軍付老女だという事をお忘れか? 」
 
 家斉は幼少の頃から、見守ってくれた大崎を手放す事は考えられなかった。
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