第54話 将軍の父

文字数 2,202文字

定之助が、周囲に誰もいない事を確認し、

垣根越しに庭の様子を伺うと、

治済がひとりで庭の鯉に餌をあげながら、

ブツブツと話しているのが見えた。

屋敷の方は人の気配は感じられず、

今、屋敷に居るのは治済だけのようだった。

「おそいではないか。何か、わかったのか? 」
 
 家斉は、定之助がなかなか、戻って来ないため、

がまんしきれず様子を見に来た。

「ひいぃい」
 
 定之助が突然、後ろから、

肩をつかまれたため驚きのあまり声を上げた。

「何奴? そこで、何をしておる? 」

  定之助のさけび声に気づいた治済が、

2人の方へ向かって来るのが見えて、

家斉が思わず腰を低くした。

「公方様。お隠れになる必要はあらぬようにござる」
 
 定之助は、垣根越しに、

仁王立ちしてにらみつけている治済を指差して言った。

「父上。息災でございましたか? 」
 
 家斉は、決り悪そうに立ち上がると挨拶をした。

「将軍ともあろうお方が、御三卿の屋敷の庭を垣根越しに

のぞいているとは感心しませんな。

門を開けます故、正門に廻りお待ちくだされ」
 
 治済が仏頂面で告げた。

 家斉は、定之助の着物の裾を掴むと、

正門の前まで引き返した。

2人は、開け放たれた門をくぐると、屋敷の中に入った。

「見ての通り、今、屋敷には、わし、ひとりしかおらぬ故、

大したモノは出せませぬが、せっかく、参られたのじゃ。

茶でも飲んでいきなさい」

 治済は、2人を書院に通すと自ら薄茶を淹れて出した。

「家老や女中らはいったい、何処へ行ったのですか? 

主君をひとり残して屋敷を開けるとは何たる事か」
 
 家斉は、周囲を見回しながら落ち着かない様子で言った。

「たまには、良いではありませぬか。

貴方様は、城暮らしが長くなり、

常に、身辺に、誰かが居る事に慣れているようですが、

わしは、この通り、隠居の身にござる。

表から遠ざかった者は、見向きもされなくなるというのは

まことの話のようですのう」
 
 治済が遠い目で語った。

家斉は、隠居した途端、治済の頭も、白髪が増えたと思った。

「何かの形で、余の父上に対する尊敬の念を示す事が出来れば、

父上の尊さを世に知らしめる事が出来るでしょうに」
 
 家斉は、すっかり、隠居姿が板についた

父を目の当たりにして不憫に思った。

「貴方様が、わしの事をそこまで、

考えていてくれたとは感服致しました。

ところで、あの話をお聞きになりましたか? 」
 
 治済はようやく笑みを見せた。

「あの話とは、いったい、何の話でござるか? 」
 
 家斉が瞬きしながら訊ねた。

「老中らは、相変わらず、将軍を蚊帳の外に置いておる様ですのう。

帝が、父御にあたる閑院宮典仁親王に尊号を贈る事を

御上へ申し入れたそうですぞ。水戸徳川家は、

昔から、水戸学を奉じる勤皇家として知られていますが、

此度ばかりは、越中殿に賛成したようでござる」
 
 治済が厳しい面持ちで語った。

「閑院宮家は、新井白石が、徳川将軍家に、

御三卿があるように、朝廷にも、

それを補完する新たな宮家が要るとの建言を、

家宣公に出した事を機に創立されましたが、

帝は、御三卿の一橋家を出白とする余が、

将軍職に就いて以後、強気な申し入れが多くなったと、

老中らが嘆いております」
 
 家斉が神妙な面持ちで告げた。

「恐らく、天明の大飢饉の御救い米や

天明の大火の御所の再建の申し入れが、

相次いで認められ、味をしめたのでござりましょう。

越中殿は、京都所司代や京都町奉行に対して、

朝廷の新規の要求には応じてはならぬと釘を刺したと聞きます。

さすがに、帝の叔父にあたる関白の鷹司卿も、

朝幕関係が悪化する事になれば、

兄御の典仁親王様の御身も危うくなると考えたのか、

越中殿に歩み寄りの姿勢を見せている。

此度は、越中殿の勝利に間違いない」
 
 治済が不敵な笑みを浮かべた。

「こうも度々、朝幕関係を危うくさせる問題が起きるのは、

余が、若輩者の上に無知だとして、

帝に甘く見られているからであろうか? 」
 
 家斉は真剣に悩んでいた。

「いんにゃ、それは違います。

帝は、若く聡明な貴方様だからこそ、

お考えくださると期待しておられるのでしょう。

いっその事、将軍親政に切り替えられたらどうですか? 」

 治済が、家斉を励ました。

「余が、将軍親政を致すなど、怖れ多い話にござる。

父上の御導きがあったからこそ、今がござる。

向後も余を支えてくだされ」
 
 家斉は、将軍が独断で幕政を行う自信はまだなかった。

「さらば、ひとつ知恵を授けると致しましょう。

越中殿は、幕藩体制の再建を念願としておる。

一方、帝は、朝権の回復を念願としておる。

2人の利害は不一致であるが故、互いの考えを受け入れ、

譲歩する望みはないとみえます。

此度ばかりは、帝に降りて頂く他、

問題を解決する方法はございませぬ」
 
 治済が冷静に告げた。

「なれど、父御の直仁親王へ、

尊号を贈りたいとの帝のご意向は、余にも痛い程、わかります。

出来る事ならば、余も、父上に、

大御所の尊号を差し上げ、城にお迎えしたい」

 家斉が身を乗り出すと言った。

「後高倉院や後崇光院という皇位に就いていない者が

皇号を贈られた先例がござる。

越中殿が、それを知らぬはずがない。

知っていて、わざと、知らぬフリをしておるのじゃ」
 
 治済がいつもの調子に戻っていた。

「父上は、まことに、物知りでございまするな。

帝も、先例をお調べになった様でござる」
 
 家斉は、治済の博学ぶりに感心せずにはいられなかった。


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