第62話 風刺

文字数 2,536文字

「水野為長じゃよ。田安家から、近習として白河藩に入り、

越中が、老中首座に就いた後も

側近として仕えておるようじゃが、

世情に精通しておって話が面白い。

越中に仕えておらねば、余が召し抱えておったわぃ」
 
 家斉は、黄表紙を読みはじめた。

「公方様。それは、

もしや、鸚鵡返文武二道ではござらんか? 」
 
 定之助は、家斉が読みはじめた黄表紙を

食い入るように見つめると訊ねた。

「先だって、御忍で、祥雲寺へ行った時、

謁見した蔦屋が、参考になればと何冊か献じたのじゃ。

斯様に、面白き書物の出版を禁じるなど勿体ない」
 
 家斉は、近頃は暇さえあれば

黄表紙を読みふけっていた。

「公方様。これだけは、お読みくださいますな」
 
 定之助は、書物の山の1番下に重なっていた

恋川春町の著書【鸚鵡返文武二道】を素早く、

引き抜くと後ろ手に隠した。

「これ、何を隠した? 

そちも、読みたければ、いくらでも貸してやる。

ただし、余が読み終わった後じゃぞ」
 
 家斉は、定之助の後ろに廻ると、

【鸚鵡返文武二道】を奪い返した。

「公方様が、それを読んでおられる事が、

越中殿の耳に入ったら大騒ぎになりますぞ」
 
 定之助が神妙な面持ちで告げた。

「何故、読んではならぬ? 理由を申せ」
 
 家斉が、【鸚鵡返文武二道】を

中野定之助の鼻先に突きつけると問い詰めた。

 定之助は、淡々と語りはじめた。

【鸚鵡返文武二道】は、恋川春町が、

朋誠堂喜三二が著した【文部二道万石通】の

続編を意図して書いたと知り、

定信は密かに、水野を市中へ

買いに走らせ手に入れたようです。

【文部二道万石通】と同じく幕政を

批判する内容が書かれていた上、

題名や表現が、定信が著した

【鸚鵡言】を風刺していたことから、

越中殿は、事情を聞くため、恋川を呼んだのですが、

いっこうに、登城しないばかりか、

役人が、恋川の自宅を訪ねると、

屋敷はもぬけの殻だったとの事で、

長谷川平蔵をはじめとする先手組が、

恋川の行方捜しに駆り出されたようです。

「何とかならぬのか? 恋川春町までもが、

青島の二の舞になっては、いたたまれぬ」
 
 家斉はたかが、書物に目くじらを立てる定信を理解出来なかった。

「もう、江戸の外へ逃げたのではござらんか? 」
 
 定之助が他人事のように言った。

「長谷川が、江戸の外へ取り逃がすはずがない。

まだ、江戸の何処かに隠れているに違いない。

見つけ出したら、かくまってやれ。

これ以上、犠牲者を出したくない」
 
 家斉が、定之助に耳打ちした。

「越中殿に、かくまった事を知れたら、

処罰されます故、出来かねます」

  定之助が命を拒んだ。

「恋川春町は、自害したと市中に広めれば良かろう」
 
 家斉は密かに、御庭番に、

恋川春町の探索を命じて捜し出させると

とある場所にかくまった。

 それから、恋川春町自害の噂を市中に流して、

恋川春町は死んだと世間を欺き江戸の外へ逃がした。

定信が中心となって進めている政策の1つとされる

処士横断の禁は、洒落本・狂歌本・黄表紙・浮世絵の刊行や

販売等の出版統制に留まらず、洒落本作者の山東京伝や

版元の主人、蔦屋重三郎の処罰まで及んだ。

 蔦屋は、朋誠堂喜三二の黄表紙を出版しヒットさせたのを境に

日本橋へ進出を決め、今では、狂歌師や絵師などの

人気作家を数多く抱える版元に成長した。

娯楽を含む風紀取り締まりが厳しくなる中、

蔦屋が刊行した山東京伝の作品が摘発されたのだった。

その一方で、定信と対談した事が話題を呼び、

その名声が、全国に広まった事により

来阪する諸大名や旗本達の招きや、

学主を務める学問所に訪問する

諸藩士や学者の数が増えたという儒学者もいた。

その名を中井竹山と言い、

大坂の学問所【懐徳堂】の四代目学主を務める他、

海防の消極論者として、蝦夷地は、

国境外の僻地でありそのような未開地を開発経営する事は、

いたずらに国力を消耗するだけであると説き、

定信から信頼を勝ち取っていた。

定信が来阪したのは、老中になって間もなくの事で、

定信は、3日という短い滞在期間に中井を引見し

政治から経済から学問に至るまで、

中井竹山に諮問した。会見は、4時間にも及んだという。

この会見に、刺激を受けた中井は、

後日、【草茅危言】を書き定信に献上した。

定信は、元々、隠密の下にまた、隠密をつけるなど

神経質で疑り深い性格だったが、

幕政に対する政治批判を禁じ、

蘭学を公の機関から徹底的に廃止し

蘭学者を公職から追放してもなお、不安が消える事はなかった。

林子平が著した【海国兵談】を読んだ時、

ついに、抑えていた感情が爆発した。

定信は、幕閣以外の者が、

幕政に容喙する事は御法度であるとの大義名分により、

林が、「須佐屋」から自主出版した

海防の必要性を説いた【海国兵談】と

藩政について説いた【富国策】の

2作品の発禁処分と版木没収の処分を下した。

この処分について、異議を唱える者もいた。

中でも、【海国兵談】の序を書いた工藤は不満を募らせていた。

その点に関して、蝦夷地開発の再開を拒む定信に対して

不満を募らせていた家斉と利害が一致した。

意次が死去した後も、田沼家に仕えていた

田沼家用人の井上伊織を通じて、

工藤は、家斉と謁見する事となった。

謁見の場となった祥雲寺に、何故か治済の姿もあった。

祥雲寺は、歴代徳川将軍に単独で謁見する事が出来る

独礼の格式があり鷹狩の休養地にもなっていた。

また、御三卿の一橋歴代当主が度々来訪する寺でもあった。

「何故、父上が、この場におられるのですか? 」
 
 家斉は、治済が同席すると聞いていなかったのであやしんだ。

「円成坊から、公方様が、謁見をお許しになったと聞き、

同席させて頂く事に致しました」
 
 治済は、円成坊が淹れた茶を味わいながら答えた。

「円成坊。父上の申された事は、まことの話でござるか? 」
 
 家斉は、極秘のうちに謁見を進めたいと考えていただけに

治済の登場に戸惑いを隠せなかった。

「はい。民部卿には、並々ならぬ恩がござります故、

公方様が、当寺に来訪なさる事実を隠す事は出来ませんでした。

なれど、私は、どなたと会われるかまでは申しておりません」
 
 円成坊が決り悪そうに答えた。

「さよか。此度は、父上に免じて許すが、

2度目はないと心しておくのじゃ」
 
 家斉が、円成坊を横目でにらんだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み